第十四話 そして、始まり
人に聞かれたくない話もあるだろうという暁綺の配慮により、彩花は静花と二人きりで顔を合わせていた。
「本当にご無事でよかったです」
「ありがとう。あなたも無事でよかったわ」
「ありがとうございます。ただ、ご当主様はお嬢様が行方不明になった際に倒れられ、目を覚まされた後、この事態を知らされ再度気を失われたとのことです。具体的な負傷具合は倒れた際にコブができたとのことです」
大した怪我ではないが、彩花も気持ちはよくわかる。そして、初めて雲海に同情もした。
「けれど、あなたには改めて謝罪させていただきたいの」
「今回の件については、お嬢様は何も……」
「いえ、後宮入りのことよ。それがなければ、あなたの身にこのようなことも起こらなかったでしょう」
「そうかもしれませんが……」
「何より、あのような男の妻にならざるを得なかったあなたが、気の毒で」
静花にしては珍しく人を嫌うような言葉に彩花は少し驚いた。
(陛下、いったいどのようなことをお話なさったのですか)
暁綺が初対面で嫌われるような性格をしているとは思わないので、何らかの行き違いがあった可能性も考えられるが、どうなればそのような考えに行きつくのかはわからない。
ただ、いずれにしても静花がよかったと思えているのであれば、それはよいことだと彩花は思った。
「では、私はお嬢様に陛下より素敵な男性とご縁がありますよう、お祈りさせていただきます」
「ありがとう。では、そろそろ行くわ。あまり皇后の時間をとらせるわけにはいかないもの」
そう切り上げた静花を見送ったあと、彩花は暁綺の私室に招かれた。
「妃って陛下の私室に入れるんですね」
「普通は私が行くから呼ばんがな。別に前例に倣う必要はないだろう」
「陛下が仰るのでしたら私は気にしませんが」
そもそも状況が状況なのでいろいろと確認することがあっても不思議ではないため、周囲も苦言を呈すこともないだろう。
そう彩花が思っていると、暁綺はおもむろに口を開いた。
「静花に、名前を返してやる話をした」
「名前ですか」
静花はそのような話をしていなかったし、その話題であれば暁綺を嫌う内容には繋がらないはずだ。
そう彩花は考えてしまったので、一瞬理解が遅れた。
「え? あの、お嬢様に名前をお返ししたら私の名前はどうなりますか……? それに、どうやってお名前を返すのですか……?」
もとより自分のものではないので、返す方法があるのであれば返したい。
だが、自然に名前を返す方法など彩花には思いついたことがない。
「私が新たな名をお前にやる。そして“静花”が可愛がっていた娘にその名は譲り渡す。別に、おかしな話ではないだろう」
「陛下がそうおっしゃるのであれば、そうなのかなと思います」
名前を譲るという感覚が彩花の中にはないので、いまいち感覚はわからない。だが、どのような方法であれ、それが叶うのであれば彩花も嬉しい。
「にやけているな」
「ええ。だって、やはりお嬢様の名で過ごすのは、違和感がありましたから」
「お前、自分の新しい名前は気にならないのか?」
「え? あ、それはもちろん気になります!」
呆れたように言われ咄嗟に返答したが、実際のところ重きを置いていなかったのは事実である。
暁綺の疑うような眼差しを笑って交わしながら、彩花は溜息をついた暁綺の言葉を待った。
「彩華。お前は今後彩華と名乗れ」
そうして暁綺から差し出された紙で新たな名を見つめ、彩華は思わず呟いた。
「あの。私が名乗っても問題のない名なのでしょうか……?」
「なんだ、不服なのか?」
「いいえ、不服というわけではなく……! ただ、その、私が名乗るにしては少々……きらびやかなような気がして」
彩の字が残っているので、馴染みのある大事な名から大きく離れないよう配慮されたことはわかる。だが花の字が植物を表していたことに対し、華の字は事象そのもののはなやかさを指す。
だから名前負けしてしまうのではと不安を口にすれば、暁綺は笑った。
「誰が皇后にそのようなことを指摘するんだ」
「ですが」
「むしろ、皇后でなくとも名がお前に負けるかもしれないぞ」
押し殺したように笑う暁綺に、さすがにわかりやすすぎる世辞だろうと彩華は思った。
しかし、暁綺とて似合わぬ名前をわざわざ選んだわけではないだろうことは少し考えればわかることだ。
「まあ、どうしても不服であれば別の名も検討しよう」
「不服ではございませんが」
「本当か? 気に入らぬ名を名乗らせようとするほど、私も鬼ではないぞ」
暁綺の言葉に彩華は首を振った。
「そうですね。名前負けするような状態であると思うのであれば、それを解消するよう努めればよい話でございますよね」
「まあ、それはそうであるな」
「ですので、あえて別の名を与えていただく必要はございません。陛下も、よい名をと考えてくださったのですよね?」
「良い名をとは考えたが、努力せよという意味で提案したわけではないぞ」
「ええ。ですが、私の気の持ちようの問題でございますから。それに、いただいた名前は貴重ですから」
もともと名を持たない状況で生活をしていた頃を思えば、二度も名を考えてもらえる状況がどれほどありがたいものなのか、彩華にはよくわかる。
ふさわしくないと思うのであれば、自分が変わればよい。
名前そのものは、とても綺麗なものだと彩華も思ったのだから。
「……まあ、彩華がそれで良いなら構わない」
「ありがとうございます。お嬢様に名はいつお返しできるのでしょうか」
「直ぐにでも書状を送ろう」
「ありがとうございます」
静花に名前を返すことができるということは、身分が変わるわけではないとはいえ、どこか身代わりではなくなるような気もした。
(そういえば、私、陛下から一度も静花と呼ばれることはないままだったわ)
呼んでほしいと思っているわけではない。
だが、長い間頻繁に顔を合わせているにも関わらず、名前を呼ばれたのは彩華の名が初めてだと気付くと、少し不思議な気がした。
「どうかしたか?」
「いえ、何も」
一対一であれば呼び名などなくとも話が通じるゆえだったのだろう。
そう彩華は思うことにしたが、名を呼ばれることで少し親しさが増したような気もした。
(一応体面上はとっくに妃になっていたのだから、変な話かもしれないけれど)
今更あえて言うのも気恥ずかしいので、彩華はあえて口にしようとは思わなかった。
「ああ。彩華。改めて言っておくことが二つほどある」
「何でございましょう」
「お前が静花に入れ替わり後宮へ来てくれたこと、心から感謝する」
突然の真剣な声色に彩華は驚いた。
「お力になれたのはよかったと思いますが……私は私の意思でこちらに参ったわけではありませんので、あまり深くお考えにならないでくださいませ」
そしてその後は暁綺のためというよりは、自分の利害のために動いている。協力関係であったことは間違いないが、最初の段階では命じられたことを、しかも暁綺を騙す形で遂行しただけだ。
「私を後宮に入れたのは雲海様でございます」
「ああ、私を謀ろうとしたのは雲海だな。奴にはたっぷりと礼をしておこう。馬車馬のごとく働かせばよいか?」
「そこにあえてお答えしません」
冗談ぽく暁綺が口にしたので、彩華も調子をそろえて返答した。
しかしなんだかんだで、彩華も雲海には少し感謝はしている。屋敷で静花に仕えているときにも喜びはあったが、今は仲間がいるという実感がある。
(皇帝陛下に仲間というのは、少しおこがましいかもしれないけれど)
そう考えた後、むしろ立場的に皇帝は夫であるのということも改めて思い返し、本当に不思議な縁もあったものだと思ってしまう。
「話が逸れたな。二つ目のことも言っておく」
「はい」
「これは本当に今更になるが……逃がす気はない。覚悟をしておけ」
「はい?」
そもそも逃亡する気がない。
そう彩華が言うことも暁綺は想定していたらしい。
「口説くという宣言だ」
「はあ、口説……く?」
何を言っているのか、彩華はすぐには呑み込めない。
「皇后の地位を先に与えておいて、今更言うのは卑怯だと感じても致し方ないとは思っている。だが、本気だ。だからといってお前の気持ちが私の方へ向くまで手を出すつもりはない。安心しておけ」
「あ、えっと、あの? え、陛下が私を想われているのですか?」
想定外の発言に驚かされ、間抜けな質問をしている自覚を持ちつつ、彩華は真剣にそう尋ねてしまった。
すると、暁綺は肩をすくめた。
「夫の言うことは信じるものだ」
「で、ですが……私でよいのでしょうか?」
「お前でよいのではない。お前がよい」
堂々とした発言にはもはや貫禄すら漂うようだった。
「別に特別な何かを求めているわけではない。ただ、お前の側は心地がよい。ほかに譲りたくないと思うだけだ」
「なんだか、告白されているようですね」
「これが一般的に言う告白でなければ、何が告白になるのかという話であるがな」
もはや誤解だと伝えるのは意味がないことなのだろうと彩華は思った。
暁綺は自分の気持ちに確信を持っている。
それが人の意見に振り回されるものではないことなど、彩華にもわかる。
「お前は私が嫌いではないだろう?」
「それはもちろん……!」
「ならば、今はそれで十分だ。なにせ、時間はこれからもあるからな」
朗らかに言った暁綺は、ずいぶんすっきりとした表情を浮かべていた。
その顔は今まで見た中で、一番純粋なものであるように彩華の目には映った。それは、思わず目を奪われるほどに。
「まあ、構えないで今まで通り野菜茶でもてなしてくれれば私は十分だ。今のところは、ではあるが」
そんな声を聞きながら、彩華は暁綺が口にした言葉の意味を考えた。
(……陛下の隣が心地いいと思うのは私も同じ。でも、それは秘密を共有する、共闘者だからかと思っていたけれど……)
もし、それ以外の理由が自分の中にあったとしたら、どうだろうか。
大勢の妃がいる暁綺が自分以外の女性のもとへ通うことは本来自然なことで、彩華のもとで野菜茶を飲む日々が不自然であったはずなのだが、それを普通のことだと受け入れられるだろうか? なんとも思わずにいられるだろうか?
(答えが、まったくわからない)
そもそも色恋は一生無縁だと彩華は思っていた。
答えられないことが答えだと思っても、それが正解なのか確信が得られない。
(で、でもまだ始まったばかりの関係だもの)
早とちりで誤解した気持ちを伝えるようなことはあってはならない。
そう彩華は判断し、慎重に自分の気持ちを見極めなければと考えた。
真剣に向けられた気持ちには、真剣な返答しか似合わない。
(変に意識するのではなくて、いつものお話の中で考えよう)
しかしそれが果たしてできるものなのか、彩華にとっては未知の世界である。
けれど、暁綺が言うように、これからも時間は多くある。
「これからもよろしく頼むぞ」
「こちらこそ」
今はこの返答しかできないが、少なくともこのやり取りができることはとても嬉しいことだと、彩華は自覚した。
本話をもちまして、第一部終了しました。
まだ内容も未定ではあるものの皇后編(仮)も書けたらなとは思っておりますが、一旦完結とさせていただきます。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
今後も何卒よろしくお願いいたします。