聖女の陰の魔力覚醒(1/1)
(バスティアン様は……私に恋をしているのでしょうか……)
ミースへ来てからもうすぐ一週間が経つ。最近のシャーロットは、ふとした瞬間にそんな取り留めも無いことを考えるようになっていた。
――エドガーに嫉妬しているのですよ! あなたの心を、視線を、唇を……その全てを奪っていった彼が恨めしいのです! そして、わたしなどではそれらを一切手にできないことが、どうしようもなく虚しいのです!
あれを愛の告白と言わずして何と表現しよう。バスティアンは情熱的な性格だが、あのセリフは勢いだけで出てきたものではないだろうということは、シャーロットにも察しがついていた。
けれど、それを指摘することはできなかった。やはり、シャーロットはまだ恋愛からは距離を置いておきたかったのだ。
それに、バスティアンにしてもシャーロットとの関係に進展が見られないことに不満はないらしい。彼はいつだって「シャーロット様の傍にいられるだけで幸せです」といったオーラを放っているのだから。
むしろ、やきもきしているのはこちらの方だった。
バスティアンとの仲も、エドガーとの過去も、宙ぶらりんのまま放置されているような気がする。
いっそのこと、バスティアンがもっと積極性を見せて強引に迫ってくれればいいのに。そうすればきっと、このどっちつかずの状態にもケリがつくだろうから、と思ってしまうほどだった。
「補佐官殿、あなたに面会したいという農民が来ておりますよ」
昼食のために食堂へ入室したタイミングで、執事のオラフが声をかけてきた。
「またですか?」
バスティアンとの関係も悩みの種だったが、それとは別にシャーロットを困惑させていることがあった。
ミース城にシャーロットが来ていると知った領民たちが、次々と彼女の元を訪れるようになっていたのだ。
どうも彼らはシャーロットを聖女と間違えているらしい。確かに聖女巡幸のメンバーではあるのだが、自分はただの補佐官だと言っても皆聞こうとしなかった。
バスティアン曰く、辺境の民には聖女本人だろうがその補佐官だろうがどちらにしたって雲の上の人であり、違いなど分からないのだろうということらしい。
だが、「土地に加護を与えて欲しい」だの「赤子の名付け親になってくれ」だの、明らかに補佐官がやるにしては荷が重すぎることばかりを頼まれるので、シャーロットはどうしたものかと毎回頭を痛めていたのである。
「おい、シャーロット様は今から食事だぞ」
バスティアンが口を尖らせる。
「終わるまで待たせておけ。シャーロット様が空腹で倒れてしまったらどうするんだ。どうせ大した用事でもないだろう。『明日の畑の水やりは多めにするか少なめにするか、どちらがいいでしょう? ぜひ聖女様のご意見を聞かせてください』と尋ねられるのがオチだ。何なら、わたしから一言言ってやる」
「ですが、どうも急ぎのようでして」
席を立ちかけるバスティアンに、オラフが困ったような顔を向ける。シャーロットは「別に構いませんよ」と領主に向かって笑ってみせた。
「では、ご案内いたします」
オラフに案内され、食堂を出る。
彼の仕事はバスティアンの身の回りの世話や使用人の取りまとめのはずなのだが、どうやらこの城の人手不足は深刻らしい。
職務外のこともしなければならないオラフに、シャーロットは雑用係のような扱いを受けている自分の立場を重ね合わせて密かな仲間意識を覚える。
といっても、オラフはバスティアンにこき使われている訳ではなさそうだが。
「それにしても、皆さん、そろそろ私は聖女ではないと気付いてもよさそうなものなのですが」
シャーロットは困惑する心境を吐露した。
「バスティアン様は、領民の皆さんは聖女も補佐官もどちらも尊いものだと考えているとおっしゃっていました。でも、私には姉のような優れた力は一切ありませんし……」
「そのようなことはありませんよ」
オラフが穏やかに否定する。
「あなたのお陰でバスティアン様は変わりました。この頃はお酒を一滴も口にされていませんし、部屋の外にいる時間も前よりずっと長くなって。この変化をもたらしたのは、他でもないあなたの存在なのですよ。それに表情も明るくなりました。まるで、幼い頃のあの方に戻ったようです」
バスティアンは酒浸りのどうしようもない領主。ザビーネもそんな風に言っていたが、その評価はあながち偏見に基づくものでもなかったのだろう。
だが、扉越しの会話ならともかく、実際にそういったバスティアンを見たことのなかったシャーロットは、オラフの話にもいまいちピンとくるものがない。
したがって、自分がバスティアンを変えたと言われてもよく分からなかった。
バスティアンと接する内に、彼に抱いていた悪いイメージなどとうの昔に払拭されていたのだからなおさらだ。
「オラフさんは、バスティアン様に仕えて長いのですか?」
「あの方がお生まれになる前から、私は王家の僕ですよ。バスティアン様が初めて立った日のことだって覚えておりますとも」
「こうしてミースへ来たのはバスティアン様に命じられたからですか?」
「いいえ。私がそうしたいから、付き従ったまでのことです」
この老執事は、王都での生活を捨て、自分の意志で廃太子に寄り添ったのか。そう思うと、オラフが急速に眩しく見えてきた。
(私なんて、ただお姉様に言われたから補佐官をしているだけですもの。他の選択肢なんて、想像したこともなかった……)
ふと気付いた事実に、シャーロットは胸の内をざわめかせる。
けれど、これ以上は考えても無駄なので思考を放棄した。他の選択肢など初めからありはしない。魔力がない自分には選択の自由などないのだ。だから、これからも聖女の陰に甘んじて生きるしか道はないのである。
客間に着いた。室内には、帽子を手の中でくしゃくしゃにした青い顔の中年男性がいる。
シャーロットの姿を見ると、男性はソファーから立ち上がった。
「聖女様! どうか息子をお助けください!」
男性はシャーロットのすり切れた法衣の裾を掴むようにして、彼女の足元に跪いた。
「お願いです、お願いですから……!」
「ええと……?」
男性は混乱しているようで、何があったのかまともに話すことができないようだった。シャーロットはどうしたものかとオラフに視線を遣る。
ちょうどその時、部屋の外から騒々しい声が聞こえてきた。
「ああ! あの子が来たんだ!」
男性は弾かれたように身を起こすと、目にも留まらぬ速さで部屋を出ていく。何が起きているのか分からなかったが、シャーロットとオラフも彼に着いていった。
「痛いよぉ! 痛いよぉ!」
男性が向かった先は正面入り口だった。玄関ホールの真ん中で、十代前半と思われる泥だらけの少年が泣き叫んでいる。
「助けてぇ! 死んじゃうよぉ!」
身もだえしながら絶叫する少年の右の手首から先が、明後日の方向に曲がっていた。骨が折れているのだと一目で分かる。
「山で薪を拾っている時に、うっかり足を滑らせて急斜面を転がり落ちてしまったのです」
少年の父親の知り合いと思われる農夫が言った。どうやらここまでこの子を運んできたのは彼らしい。
「他にはケガもないようですが、ご覧の通りひどく痛がっているものですから……」
「聖女様! 息子を助けてください!」
少年の父親が息子の肩を抱きながら懇願する。「そうおっしゃられても……」とシャーロットは困ってしまう。事情は分かったが、この件は自分の手には負えなさそうだと思い始めていたのだ。
「こういう時は、私よりもまずお医者様のところへ行くべきでは?」
「先生は留守です! ここから歩いて半日はかかる村に往診に行っているんですよ!」
こんな辺境の地では、そう何人も医師はいない。それは領主のお膝元の城下町においても例外ではなかった。
少年の泣き声がますます大きくなり、悲鳴が建物中にこだましていく。彼の父親はほとんど半狂乱になっていた。
「お願いです、聖女様! 聖女様ならこんなもの、魔法であっという間に治せるでしょう!?」
「そうして差し上げたいのは山々なのですが……」
シャーロットは親子の力になれないことを心底残念に思っていた。すぐにバスティアンに頼んで、町の外に出ている医師のところまで使者を飛ばしてもらわなければと考えを巡らす。
「私は聖女ではなく、聖女補佐官なのです。魔法は使えないんですよ」
「そんなこと言わないで、さあ! さあ!」
父親がシャーロットの服の裾をぐいぐいと引っ張る。仕方ない、とシャーロットは少年の傍にかがみ込んだ。
(口で言っても納得しないのなら、実際に見てもらうしかありませんね)
シャーロットは魔法を使いたくても使えないのだと分かってもらえれば、この農夫も自分がいかに見当違いの相手に頼み事をしていたのか理解するだろう。
シャーロットは少年の曲がった手首に手のひらを当てた。
「……癒やせ」
本当は魔法を使うのに呪文など必要ないのだが、形だけの詠唱を行う。
けれど、やはり何も起こらない……と思った矢先のことだった。
シャーロットの体の内側を何か温かなものが駆け巡る感覚がした。それはやがて手のひらに達し、少年の体へと移っていく。
「……あれ、痛くない」
少年が呆けたような声を出した。シャーロットが手のひらを退けると、彼の手首は正常な位置に戻っている。
「すごい! 聖女さん、ありがとう!」
「さすがは聖女様です! 何とお礼を言って良いやら……!」
「お手を煩わせちゃってすみませんね。でも、こんなにあっさり治してしまうなんて、聖女様のお力は本当に素晴らしいです」
三人は和気あいあいとした雰囲気で帰っていった。一方のシャーロットは、何が何だか分からない。
「補佐官殿……魔法は使えないのではなかったのですか?」
オラフが訝しむように聞いてくる。シャーロットは呆然としながら己の手のひらを見つめた。
自分は魔法が使えない。
この二十年間、シャーロットはずっとそう信じて生きてきた。
だが、何故だか突然、存在しないはずの魔力が覚醒してしまったのだ。




