59 現実だった幸せ
7月初旬、梅雨も明けていよいよ夏は本格的な暑さをもたらしている。
蝉の鳴き声が聞こえる中、相原花菜は陽光の下を歩いていた。
通常であれば気力が減退しそうな暑さであるが、花菜の足取りは軽かった。
目的地が、恋人のいる家なのだから。
花菜は昨日、仮初の恋人であった芳川響と正式にお付き合いすることになった。
女性同士という手前……大手を振ってというわけにはいかないが、幸せを目指して二人で歩んで行くと決めたのだ。
だからだろう、花菜の目には世界が輝いて見えている。
これまで女性を好きである自身が幸せになるなどあってはならないと戒めてきた反動かもしれない。
花菜は少しフワフワしたような気持ちになるのも、無理もないかもしれなかった。
早く、響に会いたと感じていた。
昨日のことが夢でなかったと確かめたかった。
今朝だってメッセージでやり取りをしたのに、それでも直接会って確かめたいと思ってしまう。
メッセージのやり取りは、今思い出しても少し恥ずかしい。
響が付き合う前より、信じられないぐらい甘くなっているのだ。
実際にあれを浴びるのだろうかと気付くと、花菜の足取りは少し重くなってきた。
自分の心臓が保たれる気がしなかったのだ。
昨日は実際にお互い抱きしめ合ったりしたし、それ以上のこともした。
だがああいうことは、雰囲気や勢いも必要なのだ。
浮かれているとはいえある程度冷静になった今日はそうはいかない。
花菜は一旦歩みを止めて、住宅の庭に咲いている紫陽花に目を向けた。
この時分だと、陽光の中で輝くように色鮮やかであった。
澄み切った青空とはまた違った、鮮やかな青だった。
歩いている住宅街は大きな邸宅はさほどなく、こじんまりとした庭がある程度である。
それでも、そういった庭に植樹された植物から季節が感じられた。
花から勇気を貰うと、花菜は歩みを再開させた。
頑張れと言われているような気がして。
響のマンションに着くと、オートロックを解除してもらい玄関まで到着する。
慣れた手順のはずが、今日はなんだかぎこちない。
先程まで、あんなに舞い上がっていたのに。
いざ対面となると、花菜の中で緊張が勝ってくる。
玄関の扉が開くと、家主である響が顔を出した。
格好はラフにTシャツにハーフパンツといういで立ちで、昨日のように気合の入ったものではなかった。
「花菜、いらっしゃい」
「響ちゃん、おじゃまします」
花菜は響が常と変わらない態度であることに、少し安堵を覚える。
ここでいきなり抱き付いてこられでもしたら、思わず避けてしまうかもしれなかった。
花菜が靴を脱いで室内にあがる。
「花菜! 会いたかったよ!」
室内にあがった瞬間を狙って、響が花菜に抱き付いてこようとする。
どうやら、扉が閉まるまではご近所に配慮しているだけのようだった。
花菜は警戒していたためか、狭い室内にも関わらず響のハグをステップで避けた。
見事な体捌きであった。
響のかき抱こうとした腕は空を切った。
「えっ、なんで避けるの⁉」
響が信じられないといった風な目で花菜を見詰めてくる。
「なんでって言われても、恥ずかしいからだよ?」
「昨日あんなに睦合ったじゃん……」
「あれは空気と感情に流されたの。だから大丈夫だったんだよ」
響の反応から昨日のことは現実だったのだと感慨深くなりなりながらも、それはそれとして急激な幸せの接種は相変わらず受け入れられそうもない花菜である。
「なるほどぉ」
「そうだよぉ、だから冷静になろうね。響ちゃん」
「なんて、納得するわけないじゃん!」
狭い室内である。
初撃は奇跡的に避けられたものの、運動神経のいい響が二度三度とそれを許すとは考えられない。
花菜はにじり寄ってくる響から、じりじりと後退る。
暫くもしない内に背中が壁にぶつかった。
「花菜、大好きだよ。抱きしめ合えば、きっと幸せだから」
「響ちゃん! 私も大好きだけど! 話せば分か……話しても分からないかぁ」
「うん!」
第一声は精一杯の空気作りなのかもしれなかった。
響は元気いっぱいの声と共に、花菜へのハグを実行してきた。
「ひゃぁ!」
抱きすくめられた花菜から、悲鳴ともつかない声が出た。
それでも響は強く、抱きしめるのを止めない。
響のケア用品の香りに混じって、響特有の香りがする。
花菜はこの香りが大好きだった。
幸せに包まれてしまう。
「ねっ、幸せでしょう?」
答え合わせをするように、響が問いかけてくる。
花菜は響の腕の中で必死に頷いた。
先に言った通り、恥ずかしい。
それに、花菜にとって幸せの供給が過多である。
現実の思考が幸せに追い付いてくれない。
「はぁ……花菜の香り花菜の感触、花菜の体温……。なにもかもが幸せ……」
響の方が身長が高く、花菜が少し蹲っている姿勢なので、響の鼻孔が花菜の頭長を丁度くすぐっていた。
花菜はそれが少しむず痒くて、目を細めた。
「ねぇ、花菜ぁ」
響が突然甘い声で語り掛けてくる。
「ふぇ?」
花菜が幸せに包まれて、フラフラになりながらも声に出して返す。
「そういえば、ここには誰も止める存在はいないよ?」
「へっ?」
「花菜がやりたいこと、し放題だよ?」
そう耳元で囁かれると、響が花菜の耳たぶにキスをした。
チュッというその妖艶な音に、花菜の理性がクラクラとする。
「だから! 健全なお付き合いだって言ったでしょっ! そっ、それに! 私がそういうこと大好きみたいに!」
キャパシティをオーバーしそうになりながらも、なんとか花菜は踏み止まる。
頑として響に抗議する。
実際問題、告白前から花菜がエッチなこと大好きな性格のように捉えられているのは心外であった。
「興味あるくせにぃ~」
「それは、誰だって多かれ少なかれそうなの! 私が特段おかしいわけじゃないの!」
「まぁ、確かに私も花菜に対してはそういうことに興味があるのは事実」
花菜の一般論に対し、響は自身の欲望を素直に認めた。
そこまで素直に認められると花菜も少し嬉しくもあり、ドキッとした。
「お互いの利害が一致してるわけだから、なにも問題ないのでは?」
これは、花菜のキャパシティの問題であった。
意識を保っていられる自信がまったく無い。
「私達にはまだ早いです! 響ちゃん落ち着いて、私達はまだお付き合いして二日目なんだよ?」
花菜は引き続いては早計という言葉でお茶を濁す。
「私はなにごとも、早いに越したことはないと思っているよ」
そうであったと、花菜は思い出す。
この芳川響という人物は……花菜が別れのメッセージを送ったその日の内に花菜の自宅を訪問し、告白して結ばれるまでスピード解決している。
「まぁ、これはその内でいいか」
しかし、積極的だった響が急に手を緩めてきた。
「花菜が我慢できなくなるだろうし」
「待って響ちゃん、私ってそんな風に思われ……えっ……?」
どうやら響の中の花菜は、かなりそういうことに対して前向きであるらしい。
むしろ、欲求がかなり強いと思われている傾向がある。
「えっ……。ええーっ……」
納得できない花菜は、響の腕の中で抗議にもならない声をあげることしかできなかった。
二章開始です。
これからも、つらつらと書き続けていこうと思います。
二章は一章に比べて、話数を少な目にしてみようかと。
どちらがいいのでしょうか?




