05 響と花菜の秘密
渡り廊下を通り特別教室棟の廊下を歩くとき、特にリノリウムの香りが強くなったように感じる。
日頃人の生息域ではないからだろうか。
2年Bクラスの委員長と呼ばれていた生徒、芳川響はそう感じていた。
授業も始まる時間ではなく、昼食をとる生徒も少ない場所であるのか人の姿は見られなかった。
響は成績がよく真面目に過ごしてきたというだけで、選出された委員長という役職であると自認していた。
実際自分の自認と客観視のズレは少ない自信もある。
それに……これは慣れないのだが、どうやら自分は人より容姿が優れているらしい。
1年のときはまだそこまで目立っていなかったが、2年にもなるとそれなりに目をつけられてしまったらしい。
響は自身は委員長職は向いていないと感じている。
クラスを纏めるために壇上に立つことさえ、未だに慣れてなどいない。
(もう少し目立たなかったらよかった……)
そう心の中でごちるが、こればかりはどうしようもないものだった。
それに引き換え、相原花菜は部活の延長線上で教諭の手伝いなどをして……自分とは違う思考の持ち主なのだろうと考えていた。
そんな考え事をしていたら、家庭科室へと到着している。
響は扉を手をかけ中を伺うと、なるほど実習の用意が既に整っていた。だが、視線を巡らせるも花菜の姿を見受けることができない。
(相原さんは……準備室?)
そう考えると一旦いつもの自分の席に準備した荷物を下し、家庭科室の教壇の横手にある扉へと向かっていく。
扉に手をかけると、開いていた。
「相原さん、いらっしゃいますか?」
扉を開けて中に入ると、声をかける。
家庭科室より少し暗めの電灯の中、縦長の準備室の奥に花菜の姿を捉えることができた。
「相原さん?」
声をかけるが、花菜の反応はない。
デスクチェアに座って背を預け、こちらを向いているが目を閉じている。
(眠っているのかしら?)
少し近付いて、よくよく見てみると花菜の耳にはイヤホンが付けられている。
手にはスマホがあり意思があるように感じられたので、眠っているような様子ではなかった。
「あら」
イヤホンの性能がいいのか、よほど没頭しているのか……近寄っても響の存在に気付かない。
ここで、いつもの優等生な響はからはらしくない悪戯心が湧いてきた。
花菜が声をかけても反応しないぐらい、なにを夢中になって聴いているのか気になったのだ。
「フフッ」
思わず笑いが零れる。
花菜のイヤホンを片方奪い取ると、自分の耳へと持ってきた。
「何を聴いてらっしゃるのですか?」
「えっ……やっ⁉ わっ、えっ⁉」
混乱した花菜の声が聞こえてくる。
花菜からすると、突然響が目の前に現れたような状態なのだろう。
「ひっ……えっ⁉ なんで……⁉」
響はそれを無視して、自分の耳へとイヤホンを装着した。
『皆さん、1年よろしくお願いします。委員長に選出されました、芳川響です。…………』
「ん?」
それは、少しノイズが乗った声だった。
自分の声というのは、自分が聞いたとき違和感を感じるという。響にとっては今がまさにそのときなのである。
だが、声の主はまさに芳川響だと名乗っていたではないか。
「あっ! ああっ……!」
混乱する花菜の手元に目を落とすと、スマフォのプレイヤーには誰かの後ろにたまたま響が背景として写り込んだのであろう写真がジャケットとして使われていた。
自己紹介が終わると、次のトラックに切り替わり過去の日付のクラスの連絡事項などが流れ出した。
これも自分のスマホで録音したのか、ノイズや他の生徒の声が入ったものになっている。
「ちっ、ちちち!」
「ち?」
「違うの!」
花菜は混乱しながらもスマフォの再生を止め、最善ではないにしろ最良の一手を探そうと声を絞り出した。
「何が違うのかしら相原さん?」
イヤホンを外しながら貼り付けたような笑顔の響が、そう花菜に返した。
「えーっと……連絡事項の備忘録というか……」
「それにしては、随分前の連絡事項でもなんでもないものだと思うのだけれど」
確かに連絡事項などをスマホに録音していれば便利かもしれないが、響の自己紹介など録音してもなににもならないだろう。
「というのはぁ……冗談でぇ……」
「そうよね。相原さん、随分夢中になって聴いてたものね」
響の笑顔の圧に、花菜は座ったまま後退ろうとするが直ぐにデスクに引っ掛かるだけであった。
「えっ……えーっと、そう! 声! 芳川さんの声が好きなの!」
視線があらぬ方向へと向きながら答えていることに、花菜自身が気付けていないようであった。
「へぇ、その割には私の写真をこんな盗撮まがいに……」
「あああああああ……はいぃ! お顔も大好きなんです……申し訳ありません!」
デスクチェアから立ち上がり最敬礼とばかりに、頭を下げる花菜。
それを見ても、笑顔をまったく崩さない響。
「あ、あとぉ! 笑顔も大好きですぅ……!」
聞いてもいない情報まで、しどろもどろに吐露し始める。
響はそんな花菜に対して、興味を留め置くことができない。
頭を下げる花菜の耳元に近付く。
「相原さんは、私のことが好きなんですね?」
そして、そう囁いた。
「ひうっ!」
唐突な言葉に花菜は呻くが、それ以上の言葉は続かない。
それと共に、花菜の体がその言葉で一瞬にして硬くなったことを響は感じ取った。
「好き、なんですね……?」
「ううぅ……」
響の質問に対して、花菜は呻くことしかできずにいた。
「それは、どういう好きなんですか?」
答えに窮している花菜に、響は更に質問を投げかける。
面白いように縮こまってしまう花菜。
それを見て響は興味の感情がとめどなく湧いてくる。
「アイドルみたいな感じですか?」
「えっと……えっとぉ……」
アイドルのような……偶像や憧憬のような好きなのかという質問に対して、花菜は言葉に詰まっている。
「違うみたいですね」
「ひっ……」
響は、これに関して何故かは分からないが確信めいたものがあった。
「ああ、やっぱり……。相原さんは、女性のことが好きなんですよね……?」
花菜が震え、肌が蒼白になっている。
この答えが違うのなら、先程の質問に即答してしまえばよかったのだから。
そんな簡単なことも分からなくなっているほど、今の花菜は混乱しているのだろう。
「相原さん……隠したいことがあるときは、そんな分かり易い反応をしちゃダメですよ?」
「うう……」
「放課後、私にお時間いただけますか?」
響の顔が優等生の顔でなくなっていた。新しいおもちゃを見付けた子供のような顔。
「大丈夫。悪いようにはしませんよ」
幼い笑顔に似付かない言葉を花菜にかけていた。
花菜は、これに対して頷くことしかできない。
そのとき、イヤホンからアラームの音が鳴り響いた。
花菜が急いでスマホを操作すると、アラームの音が鳴りやむ。
なるほど、こうやって時間までには気付く予定だったのかと響は納得する。
「そうでした、相原さん。進路希望の用紙。提出しておいてくださいね」
それを機に、響はここにやってきた理由を思い出して花菜に告げた。
「は、はいぃ……」
絞り出すような返答が響に返ってくる。
相原花菜は、この日ほど自分の迂闊さを呪ったことはなかっただろう。




