歩けない足で世界を
「せっかくだが、遠慮しておこう……手術は受けない」
ぼくの申し出をあっさり断り、車椅子の老人はメガネ越しに微笑んだ。医師のぼくは納得いかず、未練がましく言いつのる。
「――どうしてですか? 今回確立した医療技術なら、あなたの両足は再び歩けるようになるのですよ! そうすれば世界のどこにでも行ける、あなたのお仕事もはかどるように……」
「だからだよ。わしのライフワークはもう二巻で終わりを告げる……もう達成の日が見えているんだ」
「だったら、なおさら……」
そっとこちらの言うことを大きな手でさえぎって、老作家は考え深げな微笑を浮かべて言葉を紡ぐ。
「……いいかい、お若いお医者さん……その手術の成功率は、何パーセントだ?」
「……それは……正直、決して高いとは言えませんが……」
「そうだな、そうしてわしはもう歳だ、今年で八十八になる。手術はそれだけで老いた体に負担だろう……仮に成功したところで、自由な両足に興奮してあちこち動き回っていたら……」
老作家は白くなったあごひげを撫で、ほんの少し淋しそうに、でも老いた目に光を宿してこう告げる。
「……わしは、人生の大半かけてこしらえてきた、『一生の目標』を達成することが出来ないだろう。そんなもんもう知るかとばかりに、残り少ない人生を歩き回って飛び回って浪費して、あげくの果てに老いさらばえて死んでしまうに違いない」
ぼくにも、少し分かってきた。彼の言わんとすることが……ぼくの反応に気づいたのか、老作家は黙って二度ほどうなずいて、そっと右の手を広げて背後の棚を示した。
背後に広がる本棚には、事故で両足の機能を失ってから六十八年……二十歳の年から書き続けた彼の著作が、肩を並べて詰まっている。
老作家は己の両足に手をかけて、静かにしずかにさすりながら、しみじみとこう言い重ねる。
「……歩けないからこそ、資料をあさって想像の翼を存分に広げ、紡いできたこの仕事を……同じ条件で、ちゃんと達成したいんだよ。それでもまだ、この世に生きて元気でいたら……その時に手術をお願いしよう」
ぼくはもう何も言えなくなって、黙っておじぎをひとつして、老作家の屋敷を後にした。
その後、二年経って、老作家は『ライフワーク』を達成した。全世界の全ての国の『紀行小説』ともいうべき全集を全て仕上げたのだ。
さまざまな国の気候風土、美味しい食事、その国ならではのおやつや祭り……歳をとらない人外青年の主人公が、世界各地を放浪してはそのさまを文章につづり、出版社に手紙を送り、その手紙が本になり、世界じゅうで読まれ愛されるというストーリー……。
老作家は、二年後にぼくをふたたび屋敷に呼んだ。もしかして、と思いながら駆けつけたぼくに、老人は黙ってうなずいた。
「――いけません。あなたはもう、二年前の体じゃない……今手術を受けたら、おそらく体が負担に耐えられず……」
「もう良いんだ、もう自分で定めた目標は達成したから……最後のさいごに、自分の足で、少し歩いてみたいんだ……」
そう言って微笑う老作家に、ぼくはくちびるを噛みしめて、血の出るくらい噛みしめて、それから黙ってうなずいた。
……老作家は、手術を耐え抜いた。車椅子から立ち上がり、病院の庭を少しだけ歩き、花壇の花のにおいをかいで「幸せだなあ」としみじみ言って……そのままその場に崩れ落ちた。
それっきり目は覚めず、三日後に永遠の眠りについた。ぼくは『無理な手術』の責任を取り、街の病院を辞めさせられた。
――胸の内に、老作家の最期のさいごの笑顔を抱いて、ぼくは病院を後にした。
そして、三年経った今。
ぼくはとある小さな村で、開業医をして暮らしている。今日もやって来た十二歳の少年が、「またあれ貸してー」と玄関口で騒いでいる。
「またかい、シィド……きみはウチを図書館代わりにしてないかい?」
「いいじゃんいいじゃん! だってこの村の図書館は小さくて、あの本も全巻そろってないんだもん!」
借りるよー、と言いながらシィドは待合室の本棚から、古びた本を一冊抜き出して手を振りながら去っていく。ぼくもつられて手を振り返し、そっと本棚へ目をやった。
『村の病院には不似合いなでかい本棚』に、老作家の全集が……第一巻と最終巻に本人のサインが入った『紀行小説』の全巻が堂々と並んでいる。
秋晴れの木もれ日をレースカーテン越しに浴びて、昔から好きで買い集めていた全集の、まだ日の浅い最終巻が、ふっと微笑んだようにも思えた。
(了)




