夢から花咲く物語
本のしまいの物語を読み終えて、詩の女神はゆっくり顔を上げる。
……目の前に、白いはずのほおを赤らめ、しずくのように汗をかき、せえせえ息をする夢魔の青年の姿がある。
「……わらわに、腹を立てるが良い。グラナード……」
「ど……どうして……?」
「わらわは、お前に『毒』を盛った。毒のような薬を盛った……お前は神になりかかっている、わらわのパートナーになりかかっている、意思に反して……」
「それは……どういう……」
「……わらわの神力をこめた手料理は、本来なら神が『恋仲の者』にだけふるまうべきもの。わらわはお前の気持ちも確かめず、勝手にお前の体を知らぬ間につくり変え、夢魔から神に近づけて……」
がっと夢魔が躍りかかり、女神をその場に押し倒す。その長い牙で噛みつかれるか、罵倒されるか、それとも……覚悟して目を閉じる女神のほおに、ぽっと小さくあたたかいものが降りかかる。
――涙だった。
あたたかく塩辛いしずくをこぼし、ぽたぽた女神のほおを濡らして、グラナードはまるでくしゃくしゃの表情で微笑っている。
「あなたは……そこまで……ボクのことを……」
「……お、怒ってはおらんのか?」
「怒る? 誰が! こんなボクを……親なしで穢れた霧から生まれたこの身、誘惑しても堕としても結局誰からも蔑まれ、疎まれて憎まれるこのボクを……そこまで愛してくれたあなたを……」
――愛しています。ボクも。
かすれきった声でつぶやき、後はもう声にもならずすがりつくように口づけて。もう一度熱く口づけようとした刹那、女神はくしゃくしゃに泣き出しながら、震えながら打ち明ける。
「……グラナード……わらわを抱けば、お前は死ぬかもしれないのだ……」
「……しぬ?」
「わらわを抱けば、お前はもう今度こそ、芯から神として生まれ変わるか……それとも、夢魔の体と魂が、変化に耐えきれず消滅するか……!」
わななくくちびるを、血濡れたような赤いくちびるで熱くふさいで……顔を上げた夢魔の青年は、泣きながら幸せそうに言いきった。
「あなたのパートナーになるなら、もしか死んでも本望ですよ……」
後はもう何も言葉にならず、言葉らしい言葉は熱っぽい吐息にふさがれて、本棚の森と本の海の中、二つの影がひとつになった。……
* * *
図書館めいた詩の女神の神殿に朝が来た。
窓の外から、はちみつめいた甘い日ざしが降りかかり……いつの間に神力で現したのか、白いダブルベッドの中に二人生まれたままの姿で、グラナードはすうすう寝息を立てている。
その背中に、目に沁みるほど白い羽が花咲いて……イーリスは何度もなんどもまばたいて、それからしみじみ微笑んで、小さく愛しい名を呼ばう。
「……グラナード……グラナ……」
初めて愛称で名を呼ばれ、ふっとまつ毛の長い目を開き、夢魔だった青年はがばっとその場に起き上がり、「わぁお」とおかしな歓声を上げる。
「すげぇ! ボクまだ生きてる! 神になったんだ! イーリスのパートナーになれたんだ! わぁお、新生グラナードふぅ~!」
「ばばば、馬鹿モノ! その状態で腰を振るな! ぶらぶらしてる! ぶらぶらしてる!」
女神があわてて右手を振ると、見る間にグラナードの華奢な体は白い衣に覆われて……もう全身で笑いながら、新たな神は思いきりパートナーに抱きついた。
「ありがとう、イーリス……」
耳元でしみじみささやかれ、綺麗なまゆをひそめた女神が、懺悔のようにいましめる。
「……誰もが祝福すると思うな。本当は以前から、みなお前を良くは言わなんだ。『身の程知らずに女神を誘惑し、怒りを買って眷属にされた馬鹿もの』と……」
「うん、知ってる……『女神様のお優しいのにつけこんで、駄作をみやげに神殿に入りびたる罰当たり』って……」
「……きっと、それは神になっても変わらない。お前はおそらく、永くながく陰でそしられ、疎まれる……」
「――それでも良いよ。今までとそのへん何も変わらんし……」
こともなげに言いきって、グラナードはまっすぐこちらの目を見て告げる。
「……ボクのそばには、女神がいるから」
「ばか」
ぽっと甘く吐き捨てて、イーリスはにじみ出す虹の瞳を隠すみたいに、きゅうっときつく抱きしめ返す。
……みだらな夢など、もういらない。
ありありと、ほの甘くほろ苦い現実を、これから二人で生きていく。
誓って見つめる窓の外、開いたすきまから蜜の香りをふりまいて、虹色の薔薇が夢みたいに揺れていた。




