寿命が千年きっかりの乙女、生まれて千年目に最愛の番(つがい)に巡り逢う
――巡り逢うのが遅すぎた。
千年生きる乙女がいた。乙女はもちろん人外だった。蛇の化身の一族だった。
一族は一年に一度脱皮をくり返し、千回目の脱皮を終えると見た目は美しい人型のまま、花のしおれるように眠るように息絶える。そういうものだと、みな思っていた。疑問に思う者はない。
人外そのものが不思議な存在なのだから、「千年生きられるのはなぜ?」「千回目の脱皮を終えると死ぬのはなぜ?」など考える者はない。人間はおろか、当の蛇の一族たちもそのことを疑問にも思わずに、当たり前として生きていた。
……そして、ここにひとりの乙女がいた。乙女は孤独を愛していた。八百年前、遠く故郷の地を離れ、海を渡った異国のかたすみ、小さな泉の水底にこじんまりした城をかまえ、独りぼっちで暮らしていた。
彼女は故郷が疎ましかった。横暴な父や、見た目ばかり気にして着飾っている母や、父によく似た兄弟や、母によく似た妹たちが疎ましかった。だから、遠く故郷の地を離れ、八百年の長い歳月、独りぼっちで暮らしていた。
そうして、今年で生まれて千年になる。いつかはしかと分からぬが、乙女は今年の脱皮を終えれば、その時に死ぬ運命だ。
恐ろしくはない。悲しくもない。自分はずっと独りだった。数少ない蔵書を、ページやカバーの剥がれるまで読み返し、素人仕事で補修してはまた読み返し、自分以外の誰にも読まれぬ物語を、たったひとりで書き続けた。
それが終わりになるだけだ。枯れるように眠るように、泉の底でたったひとりで終わるだけだ……。
そう思っていた、最期の千年目のある日。落ち葉の降り沈んだ泉の底の城に届くほど大きな声で、自分を侮辱する言葉を聴いた。
『嫁かず後家のばばあ蛇』などと、声は三つほど重なってはずれながら、あんまりな罵倒をくり出していた。
嫁かず後家とは聞き捨てならない。なるほど、自分は嫁に行ったこともなく、この歳までずっと独身だが、聞き覚えのない声三つに罵倒されるほど悪いことをした覚えはない。
けしからんやつらだ、ひとつ懲らしめてやろうとしようぞ……。
乙女は城の玄関へ向かって細い手を伸ばし、次の瞬間泉の底の水の中へと転移した。うろこの浮いた白い肌をくねらせてひらひら泳ぎ出し、あっという間に水面から美しい顔を浮かばせた。
とたん、わっと声を上げ三人の若者が森の茂みへ逃げ去って、あとにはひとり、たったひとりの若者がぽつんと残された。
若者の手足は白い棒のように細く、ぼろぼろの衣服は泥まみれ……だがくしゃくしゃの銀髪の奥からのぞく瞳は、紅玉のように美しかった。若者はがたがた声もなく震えていた。
「……ふん、奴隷か……おおかたその『人間としては異様な見た目』で、同じ人間から虐げられ使役されてきたのであろう……」
実のない読書もたまにはこうして役に立つ。こともなげに看破した乙女に、若者は驚いた顔を見せつつも素直にうなずいた。
……どうしてなのかは、分からない。分からないまま、乙女は若者につっけんどんに手を伸べた。
「ふん」
「…………え?」
「来いと言うのだ、我と共に。泉の底の城に来い、使用人として面倒見てやる。蛇の化身の我だがな、お前と同じ人間よりは『人間味がある』つもりだ、悪いようにはせんからな……」
若者の紅玉のような瞳がきらきら潤んで見開かれ、そこから透けるしずくが落ちた。ひそかに驚く乙女に向かい、若者は「ご主人様」と呼びかけた。その呼びかけに身をすくませ、乙女は「やめい」とさもさも嫌そうに手を振った。
「我は好かんぞ、そういうのは……それなら名を呼べ、我の名は『薔薇』というのだ、そう呼ぶが良い」
「そうび……様」
「様などいらぬ、ただ『薔薇』と」
「はい……あの、わたしの名は、露……露草と申します……」
「……そうか。それでは露草、我の手をとれ。お前と一緒に水底の城へ転移する」
言うが早いか、露草の手を待たず薔薇はさあっと彼の手をとり、口の内でぷつぷつ小声で呪文を唱え……次の瞬間、ふたりは白い城の内部に立っていた。びっくり仰天をあからさまに顔に出すばかりの若者に、薔薇は思わず吹き出した。
「――はは! 面白い表情をする……!!」
ころころ笑う薔薇の瞳をつくづく見つめて、手をとられたままの若者はうっとりとしてつぶやいた。
「……美しい……」
「――何?」
「ああ、いえ! 美しいお宅だな、と……!」
あわてて手を引っ込める露草の手をもう一度握ろうと手を伸ばし、そんな自分にびっくりして薔薇はほおを赤らめる。
――なぜ。なぜ我はこんな男を自分の城まで連れ帰ったか。心の内でつぶやいたが、言い訳はすぐに見つかった。
もうじき死ぬから。今年死ぬから、まあ死をみとってくれる輩が、ひとりいても悪くない……。
そう内心で納得しつつ、薔薇はいそいそとお茶を淹れに台所へ引っ込んだ。とちゅうで(こんなの、使用人の露草にさせれば良いではないか)と気づいたが、構わずにお茶を淹れ続けた。薔薇のように赤々しい口もとに、優しい笑みが浮かんでいた。
「さ、飲むが良い、食うが良い……これは薬草茶、飲むとのどがすーっとするぞ。お茶菓子はここらの森で採れる木の実だ、ハチミツの衣がけだから甘いぞ、うまいぞ、我が手ずからこさえたのだから、ありがたく食らうが良いぞ、露草よ……」
上客に対するようにうきうきと、薔薇はお茶と茶菓子をすすめる。露草はおずおずと湯気の立つお茶をすすり込み、木の実をひと粒ぽりりとかじり……その目からぽろぽろ涙がこぼれ出る。
「なっ!? 何じゃいったい、どうかしたのか!?」
「……いえ……ただ、あんまり美味しくて……」
「美味いと泣くのかお前はっ!? そんな人間がどこにおる!?」
「……いいえ……ただ、わたしは生まれつき奴隷ですから……さっき逃げ出した三人は主の孫なのです、彼らは見目ばかりは整っているらしいわたしをねたみ、そねみ、『蛇に食わしてやろう』とはかって、わざとわたしを置き去りに……」
だから、あなたの優しさが嬉しいのです。
そう言ってぽろぽろ涙をこぼす露草のくしゃくしゃの銀髪を、薔薇は柔い手つきで子どもにするように撫ぜてやる。
「そうか……ならばちょうど良かった、露草、お前にこの城をやろう。我の寿命はちょうど千年、今年脱皮を終えれば死ぬから……お前、我の亡き後この城に住め。城は我の魔気で満ちている、ひとり住むにはさして不自由はないだろう……」
そう言って微笑む薔薇の目を穴の開くほど見つめた後、露草は乙女の驚くことをした。
――死なないでください、死なないでくださいと、童子のようにしゃくり上げて泣き出したのだ。
* * *
ふたりの暮らしが始まった。
ふたりでお茶を飲み、茶菓子をつまみ、ぼろぼろになった本を読み、薔薇のこさえた物語を露草がねだり、薔薇が語る、そんな暮らしが。
幸せだった。薔薇はあまりに幸せだった。幸せだから、いつか来る終わりがしみじみ恐くなってきた。露草と永遠に別れる日が来る、その日が恐くてしかたなかった。
「……なあ、なぜ出逢ったあの日、出逢ったばかりの我に向かって、お前は『死ぬな』と泣いたのだ……?」
恐い気持ちが消えないから、ある日薔薇はそう訊ねた。何でもない口ぶりになるように気を使ったが、語尾がわずかに震えてしまった。
露草は、薔薇に櫛で梳いてもらったさらさらの銀髪を揺らして答えた。
「……優しくされたのは、生まれて初めてでしたから……あの時もう、どうしようもなく、あなたに恋をしていたから、あなたがいなくなってしまうのが、悲しくてしょうがなかったんです」
言われるままに本音を答え、露草は淋しげに微笑んだ。言いながら紅玉のような瞳は潤んで、今にもしずくがこぼれそうだ。
薔薇も静かに微笑んだ。さらさらの黒髪を長く揺らして微笑んだ。その水晶のような瞳から、透けるしずくがぽろぽろ落ちた。
「……もう少し、もう少し早く、その言葉を聞けていればな……」
あわてふためく露草に触れるばかりの口づけをして、薔薇は泣きながらはにかんだ。
「――感じるのだ。我は……われは、今夜、最後の脱皮をするのだ……」
言いながら薔薇が露草にすがるように抱きついた。ふたりは昼の泉の底、白い城の中で誰にも知られずひとつになって、初めて本当の恋人になった。
* * *
泉の底、窓の向こうに見える景色も、水面からの満月の光が白く透いている。
――薔薇の肌が剥がれてゆく。雲母のように白く美しく、透けるうろこの模様も透いて、ぱりりぱりりと剥がれてゆく。
床にぱりぱり皮が落ち、生まれ変わったように柔い皮膚の薔薇はあまりに美しかった。その水晶の目は潤んで、少しだけ焦点が合っていなかった。もう目がかすんでいるのだろう。
その目で懸命に薔薇は露草へ手を伸ばし、まっすぐ見つめて、涙しながら微笑んだ。
「……露草……お前は我と情を通じた、お前も蛇になったのだ……」
露草の白い肌にも今や、透けるうろこが浮いている。ぼろぼろに泣きながら何度もなんどもうなずく恋人に、薔薇は力の入らぬ指で濡れそぼつほおを撫ぜてやる。
「……待っていてくれ……この泉の底の城で……我は……われは、必ず、生まれ変わって……」
する、っと、指がすべり落ちる。露草はうなずき、うなずき、うなずいて、薔薇を胸にかき抱いてしゃくり上げて泣き出した。
「死なないでください、死なないで……」
いつかと同じ慟哭は、いつの間にか形を変えて、何度もなんども震える声で繰り返される。
「――生まれ変わってきてください、必ずここに、生まれ変わって……!!」
その声に震えて溶けだすように、薔薇の亡骸は水に溶けるようにさらさらとろけて、みるみるうちに跡形もなく消え去った。独りになった露草は、母を亡くした子どものように、いつまでもいつまでも泣き続けた。
* * *
……そうして、十年過ぎた。百年が過ぎた。二百年も目前だ。
露草は、ひたすら待ち続けた。ぼろぼろになった本を読み、薔薇のこさえた物語を読み、寝物語に自らの耳にみずから語り、待って待って待ち続けた。
二百年も過ぎた。二百一年目の春に、ふっと目の前が揺らいだ気がした。
思わず目をこすって再び目を開けると、黒髪の少女が立っていた。目の前に忽然と立っていた。
少女はさらさらの黒髪に、透ける水晶の瞳をしていた。その少女は照れくさそうにはにかんで、その瞳から塩辛いものがあふれ出した。
「……二百年前、わたしは生まれた。遠いとおい異国の地に……わたしはあんまり幼すぎて、大きな海は渡れなかった……」
少女は泣きながら笑いながら、幼げな声で言い続ける。
「……二百年経って、海を渡れる魔気をまとって、一年かけて、渡ってきた……」
露草はもう声もなく何度もなんどもうなずいて、むしゃぶりつくような勢いで少女に思いきり抱きついた。
「――おかえり。薔薇……」
薔薇みたいだと、彼は想った。心に咲いた薔薇みたいだ。少しとげがあって、でも限りなく優しくて、美しくて、お帰りなさい、わたしの薔薇……。
千年の恋が、また始まった。
窓の向こうにいつかのような満月の白い光が落ちてたゆたって、銀色の魚が幾匹も、泡の尾を引いて泳いでいた。
(了)




