第一話
序
ウチの隣には、自称四百年続いているという銭湯がある。
壁に大きな富士山が描かれた、いかにも銭湯だという佇まいだが、サウナまで備えているのは涙ぐましい企業努力というものだろうか。
ウチにも風呂はあるのだが、小さい頃からその銭湯が好きで、週に一度くらいの頻度で通っていた。
銭湯の主人は少し彫りが深い感じのどこか偏屈というか、頑固そうな古いタイプの初老の男だったが、話してみれば気さくな人で、よくカトちゃんカトちゃんと呼んで懐いていた。
カトちゃんのほうも、こちらのことを気に入ったのか、学校帰りの姿を見つけては、声をかけてくれた。
ある日、学校で習ったばかりの知識を披露したくて、家の前を通りかかった際にカトちゃんの姿を見つけるや
「本能寺の変って知ってる?」
と話しかけた。
庭のイチジクの木を手入れしていたカトちゃんは、何でもないことのように答えた。
「ああ、知っとるよ」
なんだ、残念、とつぶやく。
しかしカトちゃんの言葉はそこでは終わらなかった。
「うちのご先祖が、その場に居合わせたらしいからな」
「え!?」
こうして、カトちゃんとカトちゃんのご先祖の足跡を探る、本当かどうかも怪しい時間旅行が始まるのだった。
父が死んだ。
まだ三歳の弟を残し、子を授かるために二ヶ月もお堂に籠るような継母の懸命の祈りさえ、届くことなく。
「俺がしっかりしなければ」
俺がまだ幼かった時分に、父はいくさで傷を負い、武家であることを捨てた。
母は家を去り、父にしがみつきながら訪れた小さな村で、親身になってくれた女の紹介でその家の主に弟子入りした父は、鍛冶職人になった。
武家を辞めた父は、しかし刀までは捨てなかったのだ。
父が刀にどのような思いを抱いていたのかはわからない。それでも何かを感じて、家業として継ぐことにした。
まだ一人前とは言えないまでも、いくつかの作業は任せてもらえるようになった矢先のことだったのだ、父が死んだのは。
「あにうえ」
鼻を垂らした幼い顔が、俺の顔を見上げるように覗き込んでいる。
「どうした、お虎?」
「ちちうえが、おらん」
弟は誰もいない寝床を指差すと、忙しなく土間へ降りて戸口を覗いたりしている。
まだ三歳の稚児だ、死というものがわからないのだろう。
「かじばには、おらんか?」
言葉に詰まっていると、継母が慌てて駆け寄ってくる。
「駄目ですよ、お虎。兄上様の邪魔をしては」
弟を優しく抱き上げた継母は、こちらに軽く微笑むと、足を拭いてやりながら弟を嗜めた。
父の死は、継母にとっても非常に辛い出来事であるはずなのに、そのようなものは少しも伺わせず、俺たち兄弟を支えようとする覚悟だけが静かに伝わってきた。
武家を続けられなくなった父とまだ幼かった俺とを容易く捨てた母とは、とても同じ母親とは思えない。
「ははうえ、くすぐったい」
足をばたつかせながら、弟が笑い声を上げた。
無邪気で、眩しくて、居た堪れなくなった俺は、仕事場である工房へと逃げるように走り込んだ。
まだ遺品の整理さえ済んでいない、葬儀を終えたばかりの家で、仕事場まで構う余裕などあるはずもない。
工房の中は炉も冷え、灰は白く埃とばかりに積もっていたが、それ以外は父が仕事をしていたそのままの状態で放置されていた。まだそこに父がいるかのように。
物は雑然と積み上げられ、あるいは放置されていたが、不思議と乱れているようには見えない。
少しほこりっぽさの残る空気を胸に吸い込み、心を入れ替える。
傍らの作業台にはまだ仕上げの済んでいない、身ひとつの刀と砥石、削りかけの柄木が出番を待ち侘びるように佇んでいる。
父は、村の鍛冶屋に過ぎないのに、農具や生活用品だけでなく、なぜか侍が訪ねてきて刀を打つことが時折あった。
よく言っていた。
美濃に仕える前は、うちは鍛冶屋だったと。
何度か寝物語に聞かされた、先祖の話を思い出す。
聞いたことのない言葉や見たことのない文字を、手習いとして何度も教え込まれた。
色々ないくさから逃げ続けた先祖は、身につけた鍛冶屋としての技能を武器に生きてきたと言う。
「オレに似合いだろ?」
そんな声が聞こえた気がして思わず笑みがこぼれる。
その父はもういない。
表面にうっすらと錆の浮いてきた刀身を慈しむように撫でる。
「この刀、俺が完成させるべきだよな? 依頼主について知らないが、期日がくれば取りに来るだろうし……」
そんなことを呟きながら、床を見る。
そこには、初めての手伝いで何度も踏み方が悪いと叱られたふいごがある。
父が倒れて鍛冶を出来なくなってからひと月経つ。既に炉の火は落ちている。
まずは、ここに火を入れるべきか。
いわば復活の狼煙だ。
そんなことを考えながら工房を見回したとき、何かに呼びかけられたような気がした。
奇妙な感覚に意識を手繰り寄せられるように導かれた先には、人の頭よりも大きな油紙の塊があった。
背筋に薄寒いものを感じて唾を飲み込む。
ゆっくりと、と言うより恐る恐る近づいていき、慎重に油紙を剥がしていく。
中に入っていたのは、飾り気のない甲冑のようなものだった。
糸の威もなく、地金が剥き出しのそれは、しかし曇りひとつ浮かべない光沢で、神秘的ですらあった。
一度だけ、見たことがあるのを思い出す。
これは、先祖伝来の筐……もとは紛れもなく甲冑だったのだろう。公方の世よりも遥か昔から誰も身につけたことがないという、曰く付きの鉄筐だった。
中には一族の歴史を綴った書物……というには統一感のない雑多な紙束が入っていたはずだ。
と、間近に自分以外の息を感じて視線を滑らせる。
「あにうえ?」
初めて筐を見たとき、お前にはまだ早い、と父に言われたのを思い出す。
一族の想いと重みを背負うには、まだ若すぎる、と。
興味深そうに覗き込む弟から、筐を隠すように油紙を戻して包み直した。
「それは、なんですか?」
父の打った刀を前にした、昔の自分を思い出させる、目を輝かせたその顔を見て、思わず
「お虎にはまだ早い。見てはならぬ」
強い口調でそう言ってしまった。
弟はたちまち涙を目に浮かべる。
「ははうえ〜。あにうえが、いじわるをするのです」
走って工房から出ていってしまい、静けさだけが戻った。
その日から、見よう見まねに父の教えを織り込んで、ひたすら作業に打ち込んだ。
柄木を手に取ると、まずは手つかずの側を少し詰めて取り回しをよくしてみた。
そして父の作業跡をなぞりながら柄木を削っては、手で握りしめて馴染む形を考える。
裏返して、今度は柄の内側になる部分を削っていく。
「そういえば、ここはもう少し薄くしたいと言っていたな……」
父の言葉を思い出して慎重に鑿を入れる。
少し削っては、茎を柄木に当てる。
わずかに入らない。
再び鑿を取る。
一筋だけ木をさらう。
木屑が一枚、作業台へと落ちる。
また合わせる。
ひたすらその作業を繰り返していく。
木を削るくらい大した技術もいらないだろうと思っていたが、実際には削った物を茎と合わせてみるとなかなか馴染む形にならず、随分と気を遣う作業だった。
「あとひと削り……いや、充分か?」
何しろ、削りすぎては元には戻せない。
額ににじんだ汗が目に垂れてくるのも構わず、一心に柄木を睨む。
「あにうえ!」
張り詰めた空気が一瞬で弛緩する。
「ははうえがでかけてしもうた!」
「お虎、危ないからここに来てはならん」
中に入って来ようとする弟に制止の声をかけると、その場で足を止めはしたがそこから動かない。
「みていては、だめか?」
軽い溜息をつき、仕方なく言う。
「そこで見ているだけだ。こちらに来てはならんぞ?」
「うむ!」
自信満々に頷く弟の存在を頭の中から追い出して、再び柄木に集中する。
呼吸を整え、木目を見る。
雑念が消え、父がどこを見て削ったのか、その跡だけを追った。
やはり、もうひと削り必要と思えた。
鑿を一筋入れ、茎と合わせる。
「あにうえ!」
「待っていろ」
「あにうえぇ……」
駄目だな、これは。
深い溜息をついて、弟へと視線を向けた。
「お虎……」
小便を垂れていた。




