パンドラの箱
***** ボルデド商工組合 *****
仕立ての良いスーツを纏い、コツコツと大理石の廊下を足早に歩く男。
ボルデド商工組合ダルパ支部の支部長。
エゲンスの表情は暗かった。
彼がこうして本部に呼び出されるのは、ここ半年ですでに四回目。
そのどれもが良い話ではなかったし、今回も恐らくそうだろう。
なぜなら彼の元にもたらされている情報部からの報告。
それらがすでに、悪い報告ばかりなのだから。
ボルデド商工組合の本部。
その最下層に辿り着き、エゲンスは扉の前で一呼吸置いた。
今から会うのはこの組合のトップである。
身だしなみには細心の注意を払わなければならない。
だがそうして身だしなみをチェックする時間は、彼に与えられなかった。
「入れ」
ノックをするまでもなく、エゲンスの気配に気付いたのだろう。
中から不機嫌そうな声がかけられてしまったのだ。
そのことに嘆息し、しかし待たせるわけにもいかない。
ノックはせずに「失礼します」とだけ声をかけ、エゲンスは入室する。
三十坪はあるだろう広い部屋。
だが組合のトップとは思えないほど、室内は質素であった。
調度品や絵画の類は見当たらず、中央には年代物のいかつい机。
その手前にはソファがあるが、ここで接客をすることはない。
なのでこれは身内用なのだろう。
革張りではあるが高級品ではなく、座ればギシリと軋むようなものだった。
「座れ」
部屋の様子と同じく、質実剛健を形にしたような男。
ボルデド商工組合の組合長モルダラが、エゲンスに着座を促した。
エゲンスの背中を嫌な汗が伝う。
叱責される覚悟はあった。
だが長話をするタイプではないモルダラ。
通常であれば、その叱責は立ったままですぐに終わる。
もっともそれですら、エゲンスの精神はおろし金で削られたように磨り減るのだが。
だから着座を促されるのであれば、相応に長い話だと予想されるのだ。
それも雰囲気から良い話ではないだろう。
生きてこの部屋を出れるだろうか?
彼には珍しく、そんな冗談めかした言葉が脳裏を過ぎった。
「座れ」
しかし自嘲する余裕もない。
モルダラに二度同じ言葉を言わせてしまった。
それがエゲンスの心を寒くし、震えるように彼はソファに腰を下ろす。
やはり安物のソファはギシリと音を鳴らせた。
モルダラは机に肘をつき、こめかみに人差し指を当てている。
それがトン、トンと。
数度こめかみを叩いてから、言葉が発せられた。
「黒蠍が死んだ」
知っていた。
エゲンスもその報せを受けているし、エゲンスがその報せを受けていることをモルダラは知っている筈である。
なので、今の言葉は報告ではない。
『お前が打った手は失敗した。どうするんだ?』
そう言われているのだとエゲンスは正しく解釈し、身を縮めた。
黒蠍。
エゲンスが最も信頼し、裏の仕事を任せていた暗殺者である。
彼はその信頼に答え、過去にはグジャ国の王子すら殺してみせた。
だが今回の仕事。
リクという標的は、彼の手に余る相手だったのだ。
その少年はここ一年程、ずっとエゲンスを悩ませている原因であった。
戦争を長引かせるには、そこそこ膠着した状況が必要だ。
しかし彼が現れると、戦況がこちらの思惑を離れて大きく動いてしまうのである。
希少なモンスター娘を使いこなし、数多の魔物を使役する魔物使い。
その名は、いつの間にかボルデド商工組合内でも有名になっていた。
そこまでならまだ良い。
だが北方領域で彼が行ったこと。
これは到底看過出来るものではなかった。
どこをどうしたのか詳細は掴めなかったが、ゴーダル王とボルデド商工組合の蜜月。
それが彼の手によって白日の下に曝され、終わりを向かえたのだ。
今北方領域では、脱ボルデドの動きが加速している。
それはボルデド商工組合にとって大きな痛手となるだろう。
それに北方領域を拠点としていた、ボルデドの息がかかった商人達。
彼等は商売をすることが出来なくなり、その恨みはこちらへ向くのだ。
「分かっているのか?」
底冷えするようなモルダラの声に、考え込んでいたエゲンスはハッとなる。
今エゲンスが考えていたようなこと。
そんなことは、とっくにモルダラは理解しているのだ。
そしてその先。
そこを理解しているのかと、彼はエゲンスに問うたのである。
その先……。
エゲンスの思考は、そこに及ばない。
それを見止め、仕方なさそうにモルダラは言葉を続けた。
「奴は来るぞ」
なんのことだとエゲンスの頭がフル回転を始める。
奴とはリクのことだろう。
来る? ここへか? なんのために?
そこで思い当たる。
黒蠍は暗殺に失敗した。
だが、彼の刃は誰にも届かなかったわけではないのだ。
報告によれば、北方領域で新たに誕生した新国家。
そこの王が、黒蠍の毒刃に倒れたということである。
どうしてそうなったのかは報告にない。
しかしその王は女性だそうだ。
ならば考えられることは一つ。
リクとその女性は親しい間柄で、王という立場を省みずにリクを庇ったのだ。
――復讐。
ゾワリと寒気が走り抜ける。
たった一人で軍を相手にするような化物。
その矛先が、ボルデド商工組合に向いてしまったのだ。
踏んでしまったのは虎の尾か。
それとももっと凶悪な……。
「対応策はあります」
エゲンスの口から、命乞いをするように言葉が零れた。
それに、モルダラの眉が僅かに上がる。
「ほう?」
これはモルダラも知らないことである。
ダルパ支部の地下保管庫。
その最奥に安置されているものを思い出し、エゲンスの顔に生気が戻る。
「お任せ下さい」
使えるだろうか。
いや、使いこなせるだろうか?
不安が過ぎるが今は飲み込んだ。
まずはこの窮地。
モルダラの前から生きて帰ることが先決である。
そんなエゲンスの顔を見て、なにか言いたそうにしていたモルダラ。
だがフイッと目を逸らすと「下がれ」と会話の終了を宣言した。
「失礼しました」
直角に近いほど腰を曲げたのは、モルダラの目を見たくなかったからか。
逃げるように退室したエゲンスが人心地着いたのは、地上に戻り着いた時であった。
外へ出て振り返れば、民家となんら変わらない建物。
ここがボルデド商工組合の本部だとは、誰も気付かないだろう。
知っている者は、エゲンスを含めて両手で足りてしまう。
ほうっとようやく息を吐き出し、エゲンスは歩き出した。
なんとか無事に戻っては来れたが、問題が解決したわけではない。
モルダラの手前対応策はあると啖呵を切ったものの、やはり不安は尽きないのだ。
そしてその不安は的中することになるのだが、それはまだ先の話。
今はただ、自分の地位を守る為。
破滅へ向かってエゲンスは歩き出すのであった。
次話より5章開始となります




