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87話 漆黒

 人間童貞という、世にも珍しい冠。

 それをようやく脱ぎ捨てた夜から、さらに十日が経過していた。


 あれほど『最後の夜だぜ』『別れの契りだぜ』みたいな雰囲気を出しておいて、さらに十日である。

 自画自賛の帝王である俺でも、さすがに擁護不能の軟弱さ加減。

 なんでこんなことになってしまったのか……。


 端的に言おう。

 溺れたのだ。

 俺は、アシェイラの愛に溺れてしまっていたのである。


 あの夜彼女は言っていた。

『甘やかされすぎて溶けてしまいますよ』と。

 逆だった。

 溶かされたのは俺のほうだった。

 彼女の愛は、ドロドロに俺の心を溶かしてしまったのだ。


「はい。あ~んして下さい」


 膝枕をされたまま、口元に食事が運ばれてくる。

 それを咀嚼しながら、これではいかんと俺は自分に喝を入れた。

 何をしているのだこの俺は。

 魔物を集め、早く南へと向かわねば。


「ふぅ~ふぅ~……。はい、お茶ですよ」


 火傷しないように冷まされたお茶。

 それをゴクリと飲み干し、決意を新たにする。

 今日にでもアシェイリスを出よう。

 このままでは、俺は駄目になってしまう!


「今フィーがお湯を沸かしてくれていますからね。今日も一緒にお風呂に入りましょうか」


 それは良い提案だ。

 よし、出発は明日にしよう。


 ……いかん。

 これは本当にいかん。

 ハッピーエンド風バッドエンドに直行している。


 柔らかな膝から離れたくないという頭を無理やり引き剥がし、俺はアシェイラに正対した。

 彼女の目はまっすぐに俺を見つめている。

 優しげに、愛おしそうに、目尻を下げて微笑んでいるのだ。

 それを見つめていると、またも心が蕩けてしまいそうになる。


「どうし……あ、リクはしょうがないですね」


 俺が口付けを欲していると思ったのだろう。

 言いながら、アシェイラは薄く目を閉じ顎を突き出した。


 なんという引力だろう。

 まさか魔技ではあるまいな?

 彼女が淫魔だったとしても、俺は納得してしまいそうである。

 今のアシェイラは、それほどに蠱惑的だった。


 ――だから、きっとわざとなのだろう。


 その全てが演技というわけではない。

 律し続けた気持ちを解放し、今までの分を取り戻そうと。

 そういう思いがアシェイラにあるのも事実だろう。


 しかし不必要なまでに演出された、甘く蕩けるような時間。

 彼女は俺に示しているのだ。


 ――こういう未来もありますよ。


 正直な話、それも良いかと思った夜もある。

 銀髪を殺し、ノルディーを殺し、ピスピナを殺し。

 グジャ国へ復讐し、ロンゴ帝国へ復讐し……。

 その先にあるものよりも、今のほうが遥かに幸せなのではないかと。


 無論、イスリアのことを忘れたわけではない。

 未だに彼女への思いは、俺の中で大きな存在として在り続けている。

 だがいつの間にかアシェイラも。

 それに匹敵するほど大きな存在になっていたのだ。


 だから突き放せない。

 突き放せはしないが、せめてもの抵抗と、俺は動かなかった。

 それが五秒。十秒と続き……。


「もう……終わりなのですね」


 目を閉じたまま、アシェイラが言った。

 結局俺は、最初の思いを捨てられない。


 この身体になった時に誓った復讐への渇望。

 前世の俺がどれほど大切なものを持っていたかは、もう朧げだ。

 それでも奪われた。

 全てをなかったことにされたあの怒りは、今も胸に黒い炎を宿し続けている。


 だからこの平穏は、泡沫の夢だ。

 夢であるならば、醒めるのが道理。

 そして目覚めたならば、もう起き上がらなければならないということである。


「別れみたいに言うな」


 ようやく俺は、再び歩き出す決意を言葉にした。

 その意味を正しく受け取ったのだろう。

 アシェイラの目がゆっくりと開かれる。


「申し訳ありませんでした。もう少し、もう少しと思っているうちに、ずるずると引き止めてしまって」


 部屋の空気が変わっていく。

 先ほどまでの甘ったるさが、吹き抜ける風とともに消えていくのだ。

 心のどこかで『まだ戻れる』『今なら引き返せる』

 そんな声が聞こえる。

 それを振り切るように、俺は告げた。


「俺も甘えすぎた。より別れが辛くなるだけだというのにな。すまん」


 アシェイラは微笑みで応える。

 そこに悲しさは見せない。

 再び心を律し、彼女はもうアシェイリスの女王に戻ったのだ。


「すぐ行かれますかリク様」


 だからあえてだろう。

 敬称をつけることで、もう俺はアシェイリスの住人ではない。

 アシェイラは、自分の心にそう区切りをつけたのだ。

 ならば応えぬわけにはいかないのが、男の辛いところである。


「あぁ。これから発つ」

「では、せめて見送りを」


 ……。


 外はもう暗くなっていた。

 だがまばらにだが、まだ出歩いている人々が目に映る。


 あれからこの国には、多くの人が出入りするようになったのだ。

 例えばそれは、ボフィカルからやってきた建築士。

 例えばそれは、ペンディスからやってきた護衛兵。

 例えばそれは、ゴーダルからやってきた商人。


 そうして色々な国に助けられ、色々なことを学び取ってアシェイリスは発展していく。

 今日も浅黒い肌の商人が、珍しい装飾品を売りに来ていた。

 アシェイリスの名は、今や北方領域中に広まっているのだ。


「次に来た時、どれだけこの国が発展しているか楽しみだな」


 国の出口付近まで来て、俺はもう一度アシェイリスを見渡した。

 相変わらず家々は木の上だが、それも観光名所として一役買っているらしい。


「リク様を、あっと驚かせてご覧にいれますよ」


 いたずらな視線を向けて、アシェイラがふふっと上品に笑う。

 季節は夏。

 月の下で微笑む彼女は、青々とした木々に溶け込みとても幻想的であった。


「ぱぱー!」


 すでに国境線を越えているディーネが俺を呼ぶ。

 隣にはフィーがいて、最後の別れが済んだらしい。


 ならばこちらも済ませてしまおう。

 なぁに。今生の別れというわけではない。

 だから必要以上に湿っぽくならぬよう。

 しかし思いは伝わるよう。

 俺は最後にアシェイラと視線を交わし、呟くように静かに告げた。


「ではな」

「いってらっしゃい」


 別れの言葉は短く。

 だが、必ず戻る。

 ずっと待っている。

 そう思いが込められていた。


 未だ後ろ髪はひかれるが、それを振り切り国境線をまたいだ。

 視界の端を『自由国家アシェイリス 入り口』と書かれた看板が掠める。

 瞬間、月が雲に隠れたのか。

 文字が読めぬほど、辺りは暗闇に包まれた。


 ――と、トスンと背中に抱きつかれる感触。


 振り返れば、酷く切なそうなアシェイラの瞳と目が合う。


「リク様……」


 抱きついたままに俺を見上げ、口付けでも欲しているのか。

 アシェイラの指先はぷるぷると震え、離さぬようにと力が込められている。

 そのことに俺の頬が緩みかけたが、しかし気付いた。


 ――違う。


 これは抱きついているのではない。

 しがみ付いているのだ。

 思考が冷めていくのと同時、アシェイラの身体がずるずると力なく崩れ落ちていく。


「おい……?」


 なんだ?

 何が起きている?


 思わずアシェイラを抱きとめると、背中に回した手にぬるりとヌメる感触があった。

 それが何かと手の平を確認するが、暗くてよく見えない。


 ――だが。

 見えなくても分かる。

 信じたくなくても分かってしまう。


 ――血だ。


「おいッ!?」


 尋常ではない俺の叫びに、すぐさまディーネとフィーが駆け寄ってきた。


「ディーネ! すぐにアシェイラを治癒しろ!」

「う、うん!」


 言いながら、俺はペンダントを掲げる。

 俺の呼び出しに応じ、ラキュアとヴェルティが飛び出した。

 彼女達は、俺が言うまでもなく索敵を始める。


 そう。敵だ。

 近くに敵が潜んでいるのだ。


 なぜならアシェイラの背中には、深々と漆黒のナイフが突き立てられているのだから。

 カランと乾いた音をたてて、そのナイフが背中から抜け落ちる。

 月光を浴び、しかし黒刃は煌きもしなかった。


 すぐさまディーネがアシェイラの傷口を覆い、治癒を試みる。

 するとシュワシュワと音をたて、みるみる傷は塞がっていった。

 塞がっていったのだが……。


「ぱぱ駄目だよ! 毒が入り込んでる!」

「見つけたニャ!」


 悲壮なディーネの声と、ヴェルティが敵を発見した声は同時だった。

 闇夜に紛れていた影が、ゆらりと蠢く。


「まさか王が身を挺して庇うとは予想外でしたな」


 浅黒い肌の男は、自嘲気味にそう言った。


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