85話 舞台裏
彼女が名乗るよりも早く、椅子を蹴飛ばすように立ち上がって駆け寄る者がいた。
ルッコ国の女王。
エトランゼ・プロビエラだった。
彼女は駆け寄ると、膝から崩れ落ちるように若い女を抱きしめる。
泣きながら慈しむように。
そして、何度も何度もその名を呼んでいた。
「リュシィ! 無事だったのねリュシィ!」
呼ばれた彼女もいつのまにか瞳に涙を溜め、女王の背中に手を回す。
「お母様」
リーン四精教の北方支部。
その地下聖堂でイェト王子の傍らに付き添っていた若い女性。
それこそが、ルッコの美姫として知られるリュシィ・プロビエラだったのである。
二人は人目も憚らず、抱き合いながら嗚咽を漏らす。
それは正しく母娘の感動の再会だ。
詳しい事情は知らなくとも、誰が見てもそう思える情景。
暖かく見守るか、アシェイラのように貰い泣きするか。
そういった反応が普通だろう。
だから、この場で普通ではない反応をしている人物。
青ざめた顔で目を白黒させている男に、俺は声を投げかけた。
「ノーグ大森林で貴方が探していた人物。こうして見つけてきて差し上げましたよ。ゴーダル王」
ビクリと狼狽すると、彼はヒューヒュー音がなるほどに呼吸を荒くした。
胸を掻き毟り、ダラダラと脂汗が滲んでいる。
その尋常ではない姿に、ボフィカル王が訝しみつつ訊ねた。
「どういうことか説明してくれるかの?」
だがゴーダル王は答えられる状況にない。
どこを見ているのか分からぬ視線で、ただ「違う」とか「私ではない」と呟くのみだ。
それに業を煮やしたボフィカル王の視線が、今度はこちらへ向いた。
なので俺がそれに応えようと進み出るが、それをリュシィが手で制す。
「私から」
見上げる母の肩に手を置き、安心させるように微笑んだ彼女。
しかし、次に前を向いた時。
その瞳は犯罪者を裁く執行人のように、どこまでも冷たい眼差しであった。
「私は。ゴーダル王に捕らわれていました」
その瞬間。
まるで糸が切れたように。
ガタリと音を立て、ゴーダル王は机の上に倒れこんだ。
……。
激動のうちに北方連合首脳会談は閉会した。
だが急遽、明日も同じ場所で再開されることが決まっている。
そしてその場には、ゴーダル王の姿はないだろう。
更迭され、しばらくの間は城の中に幽閉。
その後北方連合同盟で、彼の処分が採択されることになっている。
ゴーダルの城下に用意してもらっていた品の良い宿屋の一室。
窓から見える町の様子は、以前と同じく商人達が忙しなく働いていた。
この光景も、間もなく変わるのかもしれない。
そう思いながら窓枠に頬杖をついていると、後ろから優しく声が掛けられた。
「夜はまだ冷えますね」
振り返ればアシェイラ。
手には暖かな湯気を立てているカップを二つ持っていた。
その一つを受け取り、俺は窓を閉める。
「やはりボルデド商工組合だったな」
ソファに座り直したアシェイラは、こちらを見ながら静かに頷いた。
事の経緯を、俺と一緒にリュシィから聞いていたのだ。
それは遡ること八ヶ月前。
兼ねてよりボルデド商工組合と付き合いの深かったゴーダル国。
その力で安い仕入れルートを手に入れたり、情報を集めたり。
この国は、そうしてここまでの発展を遂げてきた。
それでも、突然ポポスを攻めてくれと言われて王は拒絶したのだろう。
もとより北方連合は、侵略の為ではなく防衛の為に作られた同盟だ。
断世の渓谷しか南北を繋ぐ道はなく、守るだけならば無理をする必要はない。
だが侵攻するとなれば、その被害は計り知れないのだから。
しかしボルデドはそれを予想し、手土産を用意していた。
それがリュシィ。
ルッコの美姫と称えられる、あの女性である。
『ルッコとペンディスは、リュシィ姫を嫁がせることで同盟を成そうとしています。それに北方中に名を轟かせる美姫。ご自分のものにしてみたくはありませんか?』
前者と後者。
どちらの理由でゴーダル王が折れたのかは分からない。
いや、折れるまでもなかったのだろう。
彼の意思がどうであれ、すでにリュシィ姫は目の前に連れてこられている。
退路はないのだ。
その後リュシィ姫を城内で監禁していたが、隙を突かれて逃げられてしまう。
ならば逃げる先は当然自国。ルッコへ戻るだろう。
そう考えて、ゴーダルとルッコの間にあるノーグ大森林。
あの辺りを、身分を隠しながら捜索させていたというわけである。
しかしリュシィ姫はイェト国へと逃げ込んでいた。
それが追っ手を巻くためだったのか土地勘がなかったからなのか。
とにかく幸運にもイェトの第一王子と巡りあい、ラウニスを頼って身を隠すことになった。
そんな緊張感からか。
やがて二人は恋に落ちる。
だが事情を聞いてしまったイェトの王子は、思い悩んだ。
ゴーダル国に逆らうことの出来ないイェト国。
父に相談すれば、リュシィはまたゴーダルへ送られてしまうかもしれない。
そんな折、北方連合に新たな国が誕生したとラウニスから教えられる。
それがどんな国なのか。どういう人間が王なのか。
亡命しても安全かどうか見極めて欲しい。
そう乞われ、ラウニスは了承した。
そしてあの国ならば信用に能うとお墨付きを貰い、彼等はアシェイリスへの亡命を決意したのだった。
「ですが、リュシィ姫は自分を攫った実行犯。それがボルデド商工組合の者だとは知らなかった様子でした。リク様はどうして知り得たのですか?」
琥珀色の暖かな飲み物で身を温めていたアシェイラ。
彼女はソファでくつろぎながら、不思議そうに俺を見ている。
リュシィ姫を監禁していたという事実。
これだけでは、ゴーダル王を追い詰めるには至らなかったと俺は思っている。
なぜならあの狡猾な王が「たまたま見かけて保護しただけだ」なんて言い訳を、思いつかない筈がないのだから。
さらに「リュシィ姫を狙う賊がいる。だから匿っていた」と開き直られたら打つ手がない。
だからこの件で暗躍したものの正体。
それを暴いて突きつける必要があったのである。
しかし最後までその確証を得るには至らず、零すように俺は答える。
「確信はなかった。だが商人の多さ。情報の集まり具合。それにポポス攻めのタイミング。どれをとっても、奴等が後ろ盾しているとしか思えなかったのでな」
そう。確信などまるでなかった。
以前ゴーダル国内を観察した時。
やけにボルデド商工組合の徽章を見かけるなとは思ったが、それだけである。
なのに、深くは聞かぬままアシェイラは俺の言葉を信じた。
アシェイリスが不利な立場に追い込まれる。
そういった可能性だってあっただろうに。
今もそうだ。
確信はなかったと正直に告げても、彼女の表情は穏やかなまま変わらない。
たおやかに目を細め、カップから沸き立つ湯気を見つめている。
「アシェイラは怖くなかったのか?」
なので思わず訊ねていた。
前世に比べ、遥かに周りの人間を信頼するようになった俺。
だがそれでも。
国の行く末を決める博打を打つのに、他人に身を委ねる。
それほどまでに人を信頼出来るものだろうか?
それが理解出来なかったのだ。
「私が怖いと思うことはただ一つです」
そう苦笑するアシェイラの姿が、蝋燭の炎に揺らめく。
時刻はすでに、今日が終わることを告げていた。
どうせ泊まるなら王城ではなく町の中。
町の様子を見てみたいと言って、宿はここと決まった。
なので、明日の朝には迎えの者が来るだろう。
寝坊で遅れるわけには行かないと、アシェイラは立ち上がった。
「まだ全て終わったわけではないですからね。明日もよろしくお願いします」
いまいち歯切れの悪い会話はそこで終わり、俺は自室へ戻ることにした。
明日、北方連合首脳会談は再開される。
そこで、アシェイリスの今後が決まるだろう。




