2章の3 後宮で商売
彼の目元は涼しげで口元は穏やかで、零れる言葉は耳に優しいものだった。
『おまえを妻にするためにも、必要な物なんだよ。やってくれるね?』
妻に、とザフラはうかされたように繰り返す。
近しい身内はなく働かざるを得なかったが、王宮で職を得た甲斐があったというものだ。
このひとの妻になれたらどれほど幸せだろう。
誰かにかしずく生活ではなくかしずかれる生活。
明日の食事に悩まずに、身を着飾ることだけ考えればいい。
彼はきっと大切にしてくれるに違いない。
数多いる侍女の中から彼女を選び、そして重大な役目を託してくれた。
『あれは本来わたしの物だ。いまはあの男が持っている。意味がわかるだろう?』
先王サウィルの跡を、その長男だとしてもサヒードが継いだのはおかしい。
イクレムのほうが一歳とはいえ年長なのだ。
年長者が一族を治めるべきなのである。
沙漠では直系傍系はさほど関係はない。
年功序列が一般的だ。
もちろん、様々な処理能力は大切であるが、イクレムとサヒードの能力差など、ザフラにはわからなかった。
『壺を、取ってくればよいのですね』
イクレムは約束として、小さな琥珀の耳飾りを渡した。
それを耳につけてもらいながら、幸せを夢見て、彼女は頷いたのだ――。
◇ ◇ ◇
頷いた結果が、これだ――とザフラは泣きたくなってくる。
明かり取りの隙間はあるものの、薄暗い空間にちらちらと陶器のランプの炎が揺れた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
もはや何度目かわからないその問いに、同じような答えが辛抱強く返る。
「大丈夫だよ。食料も水も十分あるからね」
「そうじゃなくて、あなたは大丈夫なの?」
申し訳なくて恐る恐る口にするが、彼――ダレイスという魔術師はにっこり笑った。
「おれの心配してくれるなんて、優しいねえ」
この気楽さに呆れつつ、彼女は頬を染める。
「そ、そんなことはいいの。でも、その壺は……」
「王家に伝わる『魔法の壺』でしょ? もうじきある祭に使うはずの。ああ、そんな暗い顔は似合わないよ。聞けば、諸悪の根元はイクレムじゃないか」
「……あたしの言うこと、信じてくれるのね」
真実を訴えたところで、誰も信じてくれないかもしれないと思っていた。
信じてくれたとしても、相手が相手なのだから、味方などしてくれないと思っていた。
困ったことがあったらいつでもどうぞ、と言われたその営業用の言葉に、ザフラは一縷の望みを託した。
以前一度だけ侍女仲間と行った、見惚れるような魔術師にすがったのだ。
魔術師は、伸ばした手をつかんでくれた。
現状は救われたとは言い難いし、先も読めないが、とりあえず魔術師がともにいるということだけでも、随分と心強いものだった。
「もちろん、信じるよ。おれのことは気に病まなくていいからね。この壺を見たときにすぐ気づかなかったおれの落ち度もある。まぁ、どっちにしろ、この状態じゃ、おれは隠れてるしかない」
彼はさして困ってもいない様子で肩をすくめる。
「祭には間に合うように、こっそり返せばいいよ。祭は新月のあと――確か、三日月の日だ」
本の貸し借りのような口調のダレイスに、そんなの無理よ、とさすがにザフラはうなだれた。
逃げることに必死だったが、ことはいずれ露見する。
「つかまれば、あたしは縛り首だわ……」
ぶるりと身を震わせるザフラの肩を、そっとダレイスが抱いた。
「大丈夫だよ。そりゃ、盗んだのは悪いことけど、王様だって事情を話せばわかってくれるって」
「そんなに、軽い問題じゃないわ」
ザフラは唇を噛んだ。
十年近く王宮に勤めている。
あの壺がどういう物か、よくわかっていた。
そして宮廷の人間関係も、いまではよくわかる。
「そんなに心配すると美容に悪いよ。大丈夫、おれがなんとかするから」
「なんとかって、この状況で」
「新月の頃には助けも来るだろうしね」
「あの魔神が来るってこと? 知り合いなの? 見逃してくれたんでしょう?」
「どの魔神――?」
「あの夜、あなたの店のところにいた――」
「ああ、あれね」
ザフラが逃げ込んだ夜、物陰に潜んでいた影は、誰かに使役されているようだった。
ダレイスが声をかけたら、たちまち気配は消えた。
「魔神だったかどうかも、ちょっと怪しかったけどね」
そもそも魔神と一口に言っても様々な種族がある。
陸に棲む者、海に棲む者、翼を持つ者、羽衣を持って生まれる者、あらゆる生き物に化ける者、死体を食う者、などなど。
人間と同じで、善良な者もあれば、悪辣な者もある。
もっとも、どの魔神も人間にはない不可思議な力を使うことは共通している。
そしてまれに、魔術師と契約を交わし、使役される者もいる。
「でもまぁ、ここに来るのは誰にも見られていないから、問題ないよ」
それでも不安が消えるはずもなく、ザフラの表情は曇ったままだ。
「少し気分を落ち着かせたいなら、いいお茶があるよ。茉莉花を煮出してお茶にするんだ。味も香りも好き好きだから、口に合うかどうかわからないけど。淹れようか」
「これ? なら、あたしがやるわ。茶葉はどれ? 教えてちょうだい」
甲斐甲斐しく湯を沸かし説明通りに茶を入れる姿に、ダレイスが提案する。
「ここにいるのが嫌なら――嫌だろうけど。ひとりで逃げてもいいよ? 多少の金はあるし、おれの名前を出せば乗せてくれる船乗りもいる」
「あなたを巻き込んだのはあたしよ。あたし、それほど恩知らずじゃないわ」
彼女は強く反論してから、うなだれた。
「本当、あたしが馬鹿だったのよね……」
「全然。百歩、いやいや千歩も万歩も譲って、仮にそうだったとしても、女の子は少しお馬鹿なくらいでも可愛いよ」
「いつまでが女の子なの。あたし二十二よ」
「おれは二十八だよ。女性は生まれてから死ぬまでずっと女の子だ」
生真面目な口調に、ザフラはようやく小さく吹き出した。
「ああ、笑われた。いつもはもっと洒落た感じで口説くんだけどね」
とても隠れ潜んでいるとは思えないほどの陽気さで、彼はそううそぶいたのだ。
◇ ◇ ◇
門番に告げ、取り次ぎの役人に告げ、侍従に告げ、侍女に告げ、そうしてファリーヤは、セフィアに同じ台詞を告げた。
「タリクの使いで、ラシード様ご所望の書籍を持参いたしました」
ファリーヤの背後に荷物持ちとして付き添っているのはマディウだ。
本来、荷物持ちなどはもっと年少の見習いがするべき役目だが、挨拶をするのがファリーヤである以上、ここは正しい人選だろう。
さすがにタリクもそこまで無謀なことはしなかった。
「まあ、大きくおなりだこと。タリクの孫娘のファリーヤでしょう? ラシードがあなたに会ったと言っていたの。懐かしいわ」
穏やかに微笑むセフィアに、記憶が蘇ってくる。
以前はもっと儚げに笑うひとだったが、随分明るくなったと思う。
王宮で本来の地位に戻り、落ち着いたのに違いない。
セフィアがおもむろに寄ってきて、ファリーヤの手を取った
「昔のことだけれど、あの子の目を、あなたは綺麗だと言ってくれたのですってね?」
「はい、本当に、そう思ったので。失礼だったでしょうか……?」
「いいえ。とても感謝しているの。ありがとう」
この女性は、ラシードにひどく負い目を感じているに違いない。
セフィアは目元をそっとぬぐって微笑んだ。
「ごめんなさいね。久し振りだというのに。もっと早く来ていただけばよかったわ」
「も、申し訳ございません。別の店からもう書を手に入れられたということでしょうか?」
昨日の今日だと思っていたが、それならば無駄足を踏んだ上に、上客を逃がしたことになる。
祖父はがっかりするだろうかと、様々考えていると、セフィアがおっとりと首を振った。
「いいえ、違うの。ラシードが出かけてしまったのよ。引き留めたのだけど、ひと足違いだったわ。なんだか祭が近いのでばたばたしてしまっていて」
「そ、そうですか……」
ラシードの不在に少々気の抜けたファリーヤとしては、曖昧に応じるしかない。
きっと壺を探すのに動き回っているのだろう。
そんなやりとりのあいだにも、マディウがセフィアの前に本を並べていく。
「わたくしでは書はよくわからないけれど……」
「であれば、恐れながら王太后様。こちらに装飾品などもご用意しております。ちょうど昨日、主人が仕入れ先から戻りまして、珍しいものも多く入手してございます。よろしければご披露したいと思いますが、いかがでございましょう?」
侍女たちはマディウの言葉に、早くもそわそわと浮き足立っている。
セフィアはあまり身を飾るようなことはないが、侍女たちの気持ちはわかる。
「そうね。では、見せてちょうだい」
「かしこまりました」
ファリーヤは呆気に取られたふうに、マディウの手際を眺めていた。
◇ ◇ ◇
すっかり荷が軽くなってご機嫌のマディウに、ファリーヤは感心するしかない。
「そういえば、お祖父様もあんな感じだったわ」
ひとつ売り込みながら、次を考えている。
相手の欲しいもの、一歩も二歩も先を読みながらでなければ、商売を大きくなどできなかったに違いない。
王宮からの大通りを西に向かい、ファリーヤたちは北隊商宿に戻ろうとしていた。
マディウは新たな商品の注文も受けてきたのだ。在庫の確認と、なければ発注する必要がある。
「あら、ファリーヤ!」
向かいから歩いてきたのは、侍女をひとり従えた同い年の友人――シャムサだった。薄絹を被り、首飾りを揺らし、楚々と近寄ってくる。
「久し振りね、シャムサ」
「ええ、本当に。こんにちは、マディウさん」
「こんにちは、シャムサお嬢さん」
シャムサはやはり商人の娘だった。
もっとも、タリクほど手広く商品を扱っている問屋ではなく、香料を専門に扱っている小売り商人だ。
それでも品質のいいものを扱うと評判であり、様々な香料を混ぜ合わせ新しい香りを作るなどして、都でも人気の店となっている。
シャムサは気取ったところのない美人だった。
男装をはじめたファリーヤに少々首を傾げたものの、止めることはなかった。
ファリーヤにもファリーヤの考えがあり、口出しをするべきではないと思ったからだと、シャムサは以前言っていた。
「珍しいわね、あなたが男装じゃないなんて。それこそ久し振りに見たわ。帽子にいつも押し込んでいるからわからなかったけど、髪も随分伸びたのね」
「でもやっぱり動きにくいわよ?」
これにシャムサはくすくすと笑った。
「あなたは活動的だものね。タリク様のお仕事を手伝っているんでしょう? わたしも最近、家の仕事を手伝っているの。いまも少し足りない材料を、店まで選びに行っていたのよ」
「香料の仕事?」
「そう。色々な香りを試しているところなの。あなたに合う香りも作ってみたいわ」
そしてこっそり耳を寄せる。
「男性を虜にする香り――なんていうのも、異国にはあるんですって。その研究をしてみたいのよ」
思わずファリーヤは絶句する。
「シャ、シャムサ――」
「わたしにお見合いの話がいくつか来ているって、父は言うのよ。もう十六だから、そろそろ考えなさいって。だったら、少しでも条件のいい殿方をって、思うでしょう?」
幼馴染みの口から出た思わぬ発言に、ファリーヤは戸惑いを隠せない。もう十六。まだ十六だ。
「ああ、でも、あなたはイータグ様がいいのかしら」
「ちょっと、やめてよね! シャムサまで!」
鳥肌を立てたファリーヤに、吹き出すのを堪えながらシャムサが謝る。
「ごめんなさい、わかっているわ。だって、わたしのところにも話を持ってきているのよ、イータグ様」
ファリーヤは嫌悪感もあらわに顔をしかめる。
「イータグ様はそれほど色々考えてないのよ。たぶん、ご両親が必死なんじゃないかしらね。妻は三人まで持てるし、少しでも裕福な結婚相手が欲しいんでしょう。ね、ファリーヤ? 嫌われる香りっていうのにも、興味あるでしょう?」
「そ、それはまぁ、ちょっとは」
つきない話に焦れたのか、侍女がそっとシャムサを促す。
「わかったわ。帰ります。またね、ファリーヤ」
そうして優雅に歩み去る。
「シャムサお嬢さんは、なんていうか、すっかり女性っていう感じですねえ」
しみじみそう言って、ファリーヤを見る。
「何よ、マディウさん。言いたいことがあるなら、はっきり言ってちょうだい」
「いえいえ。うちのお嬢様は、やっぱりファリーヤお嬢様じゃないとね」
釈然としないながらも、往来に突っ立っているわけにはいかないので歩き出す。
十六歳というのは、そういう年齢なのかとなんとなく思っていると、マディウが口を開いた。
「お嬢様にも、来てるんですよ、お見合い話。上は五十代から下は九歳だったかな。旦那様が全部断ってますけどね」
ファリーヤは心の底から祖父に感謝した。
「あたしは結婚なんかしないわ。だって想像つかないもの」
「若いうちは、具体的な自分の将来像っていうのは、なかなか想像しにくいですよねえ。ところで、お嬢様、どこに行くんですか?」
隊商宿を通り過ぎ、市場の一角に向かおうとしていたのだが、そこはタリクの店の方角ではない。
咎められて、先に立って歩いていたファリーヤは可愛らしくねだる。
「ちょ、ちょっと遠回りしない?」
「ダレイスさんの店へ、ですか? 駄目です。商売のあとは真っ直ぐ帰ります。店に帰るまでが商売です」
「……はぁい」
結局、自宅にいるタリクへの報告はファリーヤに任せて、マディウは後宮からの注文品についての諸事をこなすため店へ仕事に戻っていった。
基本的に水曜日と土曜日に投稿しています。
よろしくお願いします。