16
「じゃ、行ってくるね。終わるのは夕方ってはなしだから、日が暮れる前に戻れると思う」
ティセは片手を軽く上げ、ひとりで屋敷を出て行った。リュイは玄関でそれを見送り、そのまま本を手に庭園の東屋へ向かった。朝の澄んだ日差しが注ぐ庭の植物園は、さまざまな鳥たちが競い合うように歌っている。東屋の長椅子に腰を下ろして本を開く。
ティセは今日から給仕係の研修が始まった。数日かけて、その作法や心得を学ぶのだ。機関部の簡単な説明会は昨日あったが、火夫や石炭夫には研修がないため、リュイは屋敷でティセの帰りを待つだけだ。鳥のさえずりと時折聞こえる汽笛の音に耳を傾けながら、ひたすら活字を目で追った。
ふいにアズハーの声がかかった。
「おはよう」
出勤はしないのか、伝統衣装を身につけている。
「おはようございます。今日はお休みですか」
アズハーは向かいの長椅子に腰を下ろし、
「いや、昼前には出るよ。ティセはどうした?」
「今日から研修なんです。例の船の……」
「ああそうか、研修があるって話していたね。きみは?」
「僕は火夫か石炭夫なので研修はありません」
一瞬絶句したように、アズハーは口をつぐんだ。
「…………きみが火夫というのも……なんともねえ……」
リュイはわずかに笑んで、
「給仕より力仕事のほうがずっと向いていると思います。これまでも人足の仕事以外はしたことがありません」
アズハーは初めて思い至ったように、
「……そうか、旅先で短期労働をして旅費を稼いでいるんだね」
蒼い豺虎の件を知らないのでそう言った。労働するのは旅費のためではないが、リュイは否定も肯定もせず、曖昧に微笑んだ。
暫し、アズハーは庭園にそびえる椰子の木を黙って見上げ、なにか考えているようだった。やがて、おもむろに視線を下げて、穏やかな笑みを浮かべつつも妙に真面目な言葉つきで語り始めた。
「私は医学を専攻していたし、父親の地位の関係もあって入隊はしていない。この国の男子なら避けては通れない〝洗礼〟をあっさりと免れた」
軍隊の話を始めたので、リュイはにわかに緊張した。このひとは罪を知っている…………その事実が頭をもたげて目の前に迫る気がする。同時に、セレイの家族に感じたあの思い――――リュイの胸にかえって罪を浮かび上がらせる、さりげなさを装った気遣いとでもいうべき負担――――それはアズハーと再会してからつねに感じているが、彼の穏やかな笑みはその煩わしい思いをいっそう色濃くさせるようだった。
暗緑の瞳にうっすらと翳が差し、顔つきを硬くさせたことに、アズハーはおそらく気づいている。それでも変わらぬ調子で話を続ける。
「世間では入隊しないのを恥と見るそうだが、正直、たとえ恥だとしても私は幸運だったと思っている…………それでもね、人並みの苦労を知らないのだと引け目に思うことがなきにしも非ず、だ。意外だろう?」
と、少しだけ戯けて自嘲する。
「軍隊も知らず、親のおかげで生活の苦労も知らず、好きなことばかりにかまけている私のような者など、きみから見ればさぞのらくらな極楽とんぼに見えるだろうね……」
こんなときどう返したらいいものか、リュイは分からなかった。少し悩んだのち、戸惑いの滲む声音で思うことを述べた。
「……けれど、入隊はしていなくても、中立部隊に加わって北部を回ったでしょう。普通に徴兵されるより、そのほうが危険だし苦労も多いはずです」
当時のことが脳裏を過ったのだろう、アズハーは遠い目をして束の間黙っていた。
「そう…………確かに、あのときはつねに危険と隣り合わせで、きついことの多い旅だった」
伏し目になって、もういちど口をつぐんだ。自分の盾になって落命した兄シューナに思いを馳せているのだろう。顔を上げると、どこかしんみりとした様子でリュイを見た。兄を重ねて見ているのだとひと目で分かる眼差しだ。
そっと語りかけるように問う。
「リュイ、きみは一年も騙されていたというが…………いまはティセを好いているだろう」
思いがけない問いかけに少し驚いたが、隠す必要もないので、リュイは素直にうなずいた。アズハーは何故かとても嬉しそうに微笑んだ。
「そうか……ティセのほうでも、きっときみを好きだろう」
「…………そう言ってくれましたから、たぶん……」
アズハーはいっそう微笑みを深くした。未来を見つめるように眼差しを遠くして、語り続ける。
「…………きみたちはとても若い。この先まだまだたくさんの出会いがあるだろうし、先のことを決めてしまうにはまだ早い…………しかしね、きみたちほどの相棒がいるだろうかと私は思うよ。次に再会するときも、その次に会うときも、ふたりでいてくれたらいいと思っている」
「…………」
視線を戻し、アズハーはリュイの瞳をまっすぐに見て続ける。
「きみには誰よりも幸せになってほしいと私は願っている…………それはむろん、兄の分も…………といった気持ちなのだが……。なによりそれはシューナがもっとも喜ぶことだろうし、それが私の喜びでもある」
笛を譲ったことを深く悔いていたシューナの願いをそう推し量り、亡き友の願いの成就を自らの喜びだと語った。
途端、リュイは胸のなかが急速に冷えたのを感じた。アズハーの口にした幸せという言葉が、これまでもたびたびそうであったように、内側で雪塊となり冷気を放ったのだ。返す言葉を失って、リュイは口を閉ざしてうつむいた。
そんなリュイの様子を、急にこんな話題を振られてはにかんでいるのだと思い違いをしたのだろう、アズハーは温かい目で見守るように眺めている。
…………過去を知るひとびとの誰もが、僕にその言葉を突きつける…………
かつてセレイの義兄に言われたこと――――幸せになって犠牲に意味を与える義務がある――――が胸にくり返される。けれど幸せを思うたびに、罪と嫌悪が頭をもたげてリュイに異議を唱えるのだった。
ティセの研修も終わり、いよいよランタリア周遊号の出航日が近づいてきた。船はすでに船渠から出されて港に停泊し、燃料の石炭や客をもてなすための物資などの積み込み作業が続いている。食堂が軒を連ねる港の一角、とある茶屋の広縁席で、ふたりはふたり掛けの椅子に並んで座り、まもなく乗り込む大きな船と作業の様子を遠目に眺めている。
蒸気クレーンに吊り上げられた貨物が、甲板の倉口からゆっくりと降ろされていく。ティセは不思議でしかたがないといった顔つきでそれを眺めながら、
「あんな大きな鉄の塊が浮いていられるのも不思議なのに、そのうえあんなにたくさん荷物積んで大丈夫なのかな、沈まない!?」
沈没など、リュイは少しも心配していないが、
「甲板にいくつも小さな船が付いているだろう。沈みそうになったらあの救命艇に乗って逃げるんだ。ただ、全員が乗れるとは限らないようだ」
ティセは「えええっ!?」と恐怖の声を上げて青ざめた。
「前に沈没事故の記事を読んだとき、人数に対して救命艇の数が足りなくて多くのひとが犠牲になったと書いてあった。金持ちや上流のひとびとが真っ先に逃げて、三等客には足りないことを隠したから犠牲者の多くは三等客だったとあった」
「…………ひっでー話だなあ…………」
ふいに、屋内席のほうから誰かを非難するような女のわめき声が聞こえた。ひと呼吸遅れて、二十代半ばと見られる大柄な青年がひとり、屋内席に通じる入り口から慌てたように広縁に飛び出した。それを追うように、ふたたび室内席から女の声が上がる。
「ちょっと待ちなさいよ、アルジュン! 今日は一緒にいるって約束したじゃないの!」
広縁へ出た青年はめんどくさそうにチッと舌打ちをし、辺りを軽く見回した。のち、ひどく急いだ様子でふたりのほうへやって来た。そして、大きな身体を竦ませるように肩を窄めつつ、ふたりに向かって手のひらを合わせ、
「すまねえ、ちょっとの間かくまってくれや」
困った様子でいながら、やに下がったしまりのない顔つきだ。返答を待たず、言ったと同時にふたりの椅子の背もたれの裏側に潜り込む。身体を小さく折りたたんで、驚くほど器用に隠れてしまった。ふたりは呆気に取られて思わず目を見合わせた。
そこへ、わめき声の主である若い女が駆けてきた。辺りをキョロキョロと見回し、広縁席には四組の客が和やかに過ごしているだけなのを確認すると、いちばん手近にいるふたりのほうへ近寄って、
「ねえ、いま身体の大きな男が通らなかった? 赤い首巻して作業用脚衣履いた男」
協力する義理もないが、一期一会、これもなにかの縁だとティセは思ったのだろう。
「ああ、そのひとなら走ってあっちの扉から室内に戻ったみたいですよ」
女はさも憎らしそうに、
「んもう! ほんとに不実な男! 絶対捕まえてやるんだから!」
ありがと、と言い残し、ティセが示した扉のほうへ駆けていった。
「………………」
たっぷりと間を置いて、青年は背もたれの後ろからひょっこりと戯けたふうに頭を出した。少々日に焼けた顔に、不真面目さと愛嬌を半々にしたような笑みを浮かべ、
「ありがとよ、恩に着るぜ」
気さくな人柄を窺わせる素振りと口ぶりだ。ティセは後ろを振り向き、冗談めかしつつ返す。
「どういたしまして。不実さん」
青年はフッと吹き出した。
「とんでもねえ! どんな女にも誠実だぜ? ただ、モテすぎるだけなんだ」
「自分で言ってら」
ティセが呆れ笑いを浮かべると、青年のほうでも同様に笑い、それからリュイに目を向けた。厭でも目に立つ端正なその顔立ちをまじまじと見据え、意味深げにニヤリと口の片端をつり上げる。
「兄ちゃん……おめえ、女難の相が出まくってるぜ?」
思いも寄らない発言を受けて、リュイは思わず真面目に聞き返してしまった。
「え……!?」
それを見て、ティセは盛大に吹き出した。青年はいっそうニヤニヤして、
「女を怒らすなよ? 誠実にな。でないとひどい目に遭うぜ」
ありがとよ、ともういちど言って、青年は入ってきた扉から室内席のほうへ戻っていった。
リュイは呆気に取られたまま、青年が去って行った扉のほうを暫し見据えていた。ティセもシシシと笑い続ける。
訳も分からずティセが怒っていると思い込み、ひどくつらい思いをしていた過日を思い出す。あの苦しみを思いつつ、いま目の前で呑気に女難の相を笑うティセを見ていれば、恨みごとのひとつでも言いたい気分にリュイはなる。
かすかに眉根を寄せて、不満げにつぶやいた。
「ティセ…………もう僕を苦しめないで」
「――――え!? なんのこと???」
まったく心当たりがない、女難など自分には少しも関係がないとばかりに、ティセは目を丸くした。
【第六章 了】
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