第1章:1.5 楓林古道の小雨と、沈香木車内の酒香
特製の沈香木馬車は、六頭の汗血馬に引かれながら、京郊の名高き楓林古道へと足を踏み入れた。
まだ早春であるため、楓の葉は深紅には染まっていないが、小雨に洗われた若葉の緑は、どこまでも鮮やかに瑞々しく輝いている。
古道の両側から漂う土と草木の芳香が、チリン、チリンと響く黄金の鈴の音色と重なり合い、馬車の内側を世俗から切り離されたかのような、心地よい移動宮殿へと仕立て上げていた。
車内には二重の断熱と防振の仕掛けが施されているため、山道の険しい揺れは微塵も伝わってこない。
沈香木が放つ高貴な香りと、奥で焚かれたほのかな果実の香りが混ざり合い、誰をも自然とリラックスさせる空間を作り出していた。
黒狐の大氅を脱ぎ捨てた闕恆遠は、青と赤の地に金糸で竜の文様が描かれた細身の装いに身を包んでいた。
薄暗い車内であっても、その衣服は高貴な光沢を放っている。
彼は雪狐の毛皮が積み重なる柔らかなクッションにゆったりと体を預け、片手を沈若汐の細い腰元へと無造作に回していた。
今日の若汐は、淡い紫色の短襖に、首元へ白い兎の毛皮があしらわれた装いをしており、その愛らしい顔立ちが一層引き立って見える。
「公子、この葡萄は甘いですか?」
沈若汐はくすくすと笑いながら、氷室から取り出したばかりの紫色の葡萄を指先でつまみ上げた。
薄い皮の表面には、細やかな冷水の水滴がキラキラと光っている。
彼女はその葡萄を闕恆遠の唇へとそっと差し出し、悪戯っぽく瞳をきらめかせた。
闕恆遠は軽く口を開けてそれを捉えた。
冷たい果汁が口の中で弾け、その爽やかな甘みが、午前中から続いた出巡りの疲れをすっきりと洗い流してくれる。
彼はそのままの勢いで若汐の指先を軽く包み込み、舌先でわずかに戯れてみせた。
突然のことに若汐の身体がぴくりと震え、子猫のような甘い嬌声を漏らしながら、そのまま彼の厚い胸板へと倒れ込む。
「葡萄も甘いが、若汐が差し出してくれたものの方が、ずっと甘いさ」
低く響くその声は、微かな酔いと深い愛しさを帯びていた。
反対側の席では、上官婉が膝の上に広げられた羊皮の地図に目を落としていた。
車内の光の中で、彼女の纏う鮮やかな紅衣が炎のように揺らめいている。
これほどまでに艶めかしい空気が満ちていながらも、彼女はいつもの気高さを崩さなかった。
ただ、その耳たぶに浮かんだほんのりとした朱色が、彼女の心中の波立ちを物語っていた。
「公子、あと半刻ほどで『酔楓酒肆』を通過いたします」
上官婉は顔を上げ、闕恆遠と沈若汐の親密な様子をひと目見てから、落ち着いた、しかし細やかな気配りの感じられる声で告げた。
「あそこは京城に出入りする者が必ず通る場所ゆえ、人間の質もさまざまです」
「先ほど、子瑜が外から知らせてきたのですが」
「前方の古道に、どこからともなく現れた正体不明の一団が」
「すでに一里ほど、私たちをつけ回しているそうです」
それを聞いた闕恆遠は、それまで気だるげだった表情の奥から、底知れぬ鋭い光をちらりと覗かせた。
ふっと冷笑を浮かべると、沈若汐の背中を優しくぽんぽんと叩き、一度体を離すように促す。
「皇叔殿も、我が大皇兄も、結局は待ちきれなかったらしいな」
彼はぐっと上半身を起こし、青と赤の気高い装いを整えると、指先で衣の襟元に走る金糸をなぞった。
「婉兒、奴らはこの沈香木の馬車が重すぎるとでも思って、軽くしてやろうと親切心を出したのかな」
「それとも、朕の九人の可愛いお供たちが目障りだから、一人か二人もらってやろうとでも思ったか」
「ふざけた真似を!」
沈若汐は美しい眉を吊り上げ、愛らしい顔立ちにふっと勝ち気な気迫が宿る。
彼女は反射的に腰に隠した短刃へと手を伸ばし、その瞳には鋭い殺意が走った。
「慌てるな」
闕恆遠は手をひらひらと振って制し、あくまで優雅な姿勢を崩さない。
「まだ都を出たばかりだ。ここでいきなり手を出してしまっては、興ざめというものさ」
「婉兒、子瑜と子瑄に伝えなさい」
「相手に気付かれないよう、馬車の速度を三分の一ほど落とせとね」
「奴らがこの古道で襲いかかってくるのか、それとも酒肆の酒にでも毒を盛るつもりなのか」
「この目でじっくりと確かめてやろうじゃないか」
「かしこまりました」
上官婉はうなずくと、車内の前方にある伝声筒に向かって、静かな声で的確な指示を飛ばした。
外では変わらず黄金の鈴が清らかに鳴り響いていたが、六頭の汗血馬の蹄の音は明らかに緩やかで、重厚な響きへと変わっていく。
裴子瑜と裴子瑄の緑衣の騎士ふたりは、小雨の降る中、鞍の上で微動だにせず、鷹のように鋭い眼光で周囲の深い木立を舐め回すように見据えていた。
車内では、闕恆遠が再び寝転がっていたが、今度は目を閉じて休むことはしなかった。
隠し棚から取り出した精巧な白玉の酒壺を傾け、自らの杯に酒を注ぐ。
揺らめく水面に映り込んでいるのは、どこか不真面目な色気を帯びながらも、圧倒的な知性を秘めた彼の顔立ちだった。
「若汐、さあ、もう一杯付き合えよ」
「この道の先の芝居は、まだ幕を開けたばかりなのだからな」
彼は沈若汐を手招きし、その口調にはすべてを手の内で転がしている者の絶対的な自信が満ちていた。
沈若汐は頬を赤らめながらも、言われた通りに彼の胸元へと身を寄せる。
狭くも贅を尽くした空間の中で二人の吐息が絡み合い、銘酒の芳香と沈香木の香りが混ざり合って、独特の張り詰めた緊張感を生み出していた。
しかし、その穏やかな甘さの裏側では、天子の命を狙う殺意が、楓林古道の深まりとともに着々とその牙を研ぎ澄ましていた。
馬車の中で、沈若汐は体勢を変え、骨抜きにされたかのように闕恆遠の腕の中へとすっぽりと丸まった。
紫色の短襖に包まれたその曲線美はしなやかで、馬車の微かな揺れに合わせて、高貴な青と赤の勁装に柔らかく擦れ合う。
車内に漂う濃厚な沈香の香りは、酒の余韻に触発されていっそう人を酔わせる色香を放っていた。
「公子、後ろを嗅ぎ回っているあの連中は」
「公子の命が欲しいのでしょうか、それとも私たち奴婢の命が欲しいのでしょうか」
沈若汐は顔を上げ、潤んだ大きな瞳で問いかける。そこに恐怖の色など微塵もなく、面白そうな見世物を待つような茶目っ気が浮かんでいた。
小さな赤い舌で、唇に残った葡萄の甘露をそっと舐め取る。その無防備な仕掛けは、艶やかな光の中でこの上なく挑発的だった。
闕恆遠は腕の中でじっとしていない小悪魔を見下ろし、その細い腰の柔らかい肉を強すぎず弱すぎずの力加減でぐっと掴んだ。またしても甘い嬌声がこぼれる。
「お前たちの命を狙うというなら、朕が許さないさ」
闕恆遠は杯に残っていた百花醸をあおり干した。その瞳に浮かぶ酔いはどこか気だるげでありながら、その奥底に潜む知性は恐ろしいほど冴えわたっている。
「朕が長年大切に育ててきたお前たちを」
「あんな雑魚どものせいで、この旅の興を削がれてたまるものか」
その時、それまで静かに控えていた上官婉が、手元の羊皮の地図をそっと折りたたんで置いた。
炎のように鮮やかな紅の衣が、ほの暗い車内で彼女の肌を上質な羊脂玉のように白く際立たせる。
しなやかな指先で白玉の酒壺を持ち上げ、闕恆遠の空いた杯に再び酒を注ぎ足した。その一連の動作は、まるで神聖な儀式のように気高く美しい。
「公子、子瑜から先ほど連絡が」
「追跡者たちが速度を上げたとのことです」
上官婉の声には、澄んだ響きの中にわずかな緊張が混ざっていた。普段は穏やかなその瞳が、今はわずかに細められている。
「どうやら、楓林の奥深く、地形が最も狭まる場所で仕掛けるつもりのようです」
「あそこには断崖絶壁がございます。もしそこで馬を驚かされたりでもすれば……」
「馬を驚かすだと?」
闕恆遠は冷ややかな鼻息を漏らすと、手元にあった白玉の杯を傍らの沈香木の小机へと無造作に置いた。コツリと澄んだ音が響く。
彼は顔を窓へと向けた。琉璃の嵌め込まれた窓と、半ば下ろされた重厚な錦の幕の隙間から、糸のように細い微雨が織りなす景色が見える。
「朕のこの六頭の汗血馬はな」
「西域の数万頭の中から選び抜かれた、まぎれもない馬の王たちだ」
「ただの脅しごときに馬を驚かされるものか」
「たとえ目の前で天雷が轟こうとも、その蹄の乱れなど一歩たりとも生じやしないさ」
闕恆遠はふっと腰を浮かせた。車内の天井は低いが、その身に宿る生まれながらの圧倒的な覇気が、空間そのものを狭苦しく感じさせる。
彼は手を伸ばし、沈香木の嵌め板の奥に隠された秘密の隠し棚を開け放った。
棚の中には、精巧な作りで漆黒の光を放つ幾筋もの弩弓が、美しい錦の上に静まり返っている。それは左氏の姉妹が独自に改良を重ねた「連環追風弩」であった。
「婉兒、子瑜に伝えなさい。こちらから仕掛けるまで待つ必要はない、と」
闕恆遠の指先が冷たい弩の筐体をなぞり、その口元に危険な弧を描く。
「朕はこの巡幸を」
「花嫁を迎えに行くためのものと言ったが、最初に少しばかり血を見ておくのも悪くない」
「都に巣食うあの老いぼれ狐どもに、よく思い知らせてやらなくてはな」
「朕が京を空けている間に、この門を勝手にまたいでいい人間など一人もいない、とな」
「かしこまりました」
上官婉はスッと立ち上がると、車内の前方へと通じる伝声管に向かって冷徹な指示を飛ばした。
その指示が下された瞬間、馬車の外の世界が一変する。
それまで心地よく響いていた黄金の鈴の音色に紛れ、鋭い呼笛の音が幾重にも切り裂くように轟いた。
シュッ――!
凍てついた刃が鞘走る鋭い音が響き渡る。
それまで馬車の両翼を護衛していた裴子瑜と裴子瑄の二人の緑衣の影が、まるで林を渡る疾風の如く、一瞬にして車列から飛び出した。
それに続くように、深い木立の向こう側から短く絶叫する声と、何かが重く地面に崩れ落ちる音が響く。
車内では、沈若汐相変わらず闕恆遠の膝に身を預けたままで、気だるげにあくびを噛み殺していた。外で起きたばかりの殺戮など、今彼女の手にある葡萄の甘みよりも取るに足りないと言わんばかりである。
「公子」
「あんな雑魚どもを片付けたんですから」
「『酔楓酒肆』に着いた暁には、若汐にたっぷりとご褒美をくださいね」
甘えるような声を漏らしながら、彼女の指先が闕恆遠の胸元をくるくると軽くなぞっていく。
「ご褒美はもちろん用意してやるさ」
「だが、そのお前がそれを最後まで受け止めるだけの体力を持っているかどうか、だな」
闕恆遠は豪快に笑い声を上げると、再び雪狐の毛皮が敷かれた軟椅子のなかにゆったりと身を預けた。
眉をひそめて少しばかり険しい面持ちを見せる上官婉の腰を引き寄せ、そのまま自分のもう片方の腕へと抱え込む。
左には紫衣の美女、右には紅衣の麗人。
沈香木の馬車は微雨に濡れる楓の古道を淡々と進み続ける。あたかも、先ほど奪われた数つの命など、旅の途中で通り過ぎる一陣の風にすぎないと言わんばかりに。
そしてその前方。
雨と霧の向こうにひっそりと佇む「酔楓酒肆」の影には、この若き天子を待ち構える、真の殺意とさらに巨大な陰謀の罠が、静かに息を潜めていた。




