兄の帰宅
手紙に書かれていた通り、クリステッド=ウォルスターは次の日の昼には公爵邸に帰ってきた。
夕方に仕事を終えたアルベルトが公爵邸に顔を出すと、書斎ではなくクリステッドがメリーナと一緒に寛いでいるところへと案内された。
「兄さん、おかえりなさい」
「ただいま。私がいない間仕事を代わってくれて助かったよ」
紅茶を飲みながら旅の疲れを癒すように寛いでいる兄は、少し顔色が悪いように見えた。
「疲れているなら、今日の書類整理は俺がやっておくよ。兄さんはゆっくり休んでいて構わないから」
領地から王都まで馬車に揺られること3日。普段の兄なら平気な顔をしているところだが、今回は何か疲れるようなことが領地で起こったのかもしれない。
気を遣って提案すると、クリステッドは苦笑した。
「今日のところは休ませてもらうことにするよ。領地では特に異常はなかったんだが、帰ってくる途中で馬車が盗賊に襲われたんだ」
「怪我は?」
初めて聞く話に驚くと、クリステッドは苦笑を深くした。
「大丈夫だ。どこも怪我はしていない。騎士たちが追い払ってくれたからな」
襲撃を受けた際、護衛を務める騎士たちが対応してくれた。クリステッド自身も剣に覚えがあるので、盗賊程度ならば劣ることはない。
「賊の1人が何かこちらに投げてきたんだが、当たることもなかったから問題ない」
はっきりと何かまでは把握できなかったようだが、黒い物体を投げられた。それは肩のあたりに当たったように思ったが、ぶつかった感触がなく、逸れたと思って周囲を確認したがそれらしきものが見つからなかったという。体に異常もないため、特に気に留めることなく盗賊たちを追い払った。
「久しぶりに剣を持った緊張感が今頃になって疲れに変わったのかもしれない。年を取ったと思うべきかな」
「まだ32歳でしょう。老いを感じるには早いわよ」
呆れたようにメリーナが言うと、クリステッドは穏やかに笑った。それでも顔色が冴えないのは変わらないため、できるだけ早く休むように勧めておくことにする。
「もうしばらくここから城に通うことはできるし、俺でできることなら手伝うよ」
「弟に心配されているようでは、私も駄目だな」
お茶を飲んだら休むというので、アルベルトは書斎に移動することにした。せっかくの夫婦の時間をこれ以上邪魔しない方がいいだろうという配慮だった。
部屋を出ようと扉に手が触れた瞬間、背後で呻くような声が聞こえた。それと同時にばたんと何かが倒れる音に驚いて振り返った。
ソファに座っているメリーナが両目を見開いて固まっている。その横に座っていたはずの兄の姿が消えていた。
視線を落とせば、兄はソファではなく床にうずくまるように倒れこんでいたのだ。
「兄さん!」
何が起こったのかわからないまま、アルベルトが駆け寄ると、メリーナが悲鳴に近い声を上げた。
「旦那様!」
その声を聞きつけて部屋の扉が勢いよく開かれる。廊下で待機していた執事が何事かと入ってきたのだ。
アルベルトは駆け寄るとクリステッドの体に触れた。その瞬間背中を悪寒が走った。
触れた手を勢いよく退くと、ソファから降りて身体に触れようとしたメリーナも慌てた様子で体ごと退いた。
2人はクリステッドの体から立ち上る黒い影をはっきりと見たのだ。それが魔気だということを頭で理解するよりも早く体が反応していた。
どうしてこうなった?
何が起きている?
離れなければ。
頭の中は混乱しているが、それよりも先に近づいてきた執事を止めて部屋から出るように指示を出していた。その間にメリーナが両手をクリステッドにかざして呪文を唱える。
刹那、クリステッドを囲うように結界が張られたのがわかった。
「急いで聖物の準備を」
メリーナの叫びに廊下に追い出された執事が慌てた様子で走っていく。
「義姉さん」
「結界を張って閉じ込めたわ。しばらく持つでしょうけど、旦那様自身の体が魔気に侵食され続けることになる。このままでは魔物化してしまうわ」
魔物化という言葉に背筋に冷たいものが駆け抜けていった。
「そんな・・・」
「聖物でとりあえず進行を遅らせることはできるでしょう。その間に浄化師を手配しましょう」
メリーナの方が冷静に先を見据えていたようだ。公爵家には聖の力を宿した道具が保管されている。
魔術師が魔石に魔力を注ぐことで魔法を使える魔道具を作るように、浄化師も魔石に浄化の力を注ぐことで聖石を作ることができる。その聖石を宿した道具を聖物と総称する。
滅多に手に入る物ではないが、この国の公爵家は王家の血筋が少なからず含まれている。そのため王家より聖物を賜っているのだ。使い道がほとんどないため普段は大事に保管されているはずだ。
聖物は浄化の力を魔石の中に宿しているが、魔気を完全に浄化させるほどの力はない。せいぜい魔気の進行を抑制し遅らせるのが限界だ。浄化は浄化師でなければできない。
今から神殿に行けばすぐに対応してくれるだろう。そう考えて部屋を出ようとしたアルベルトだったが、足を止めるとメリーナに声をかけた。
「神殿に申請して、すぐに浄化師を手配することはできると思う。浄化師が来たら、おそらく王家や他の公爵家にも知られることになる」
アルベルトの言葉に背中を向けていたメリーナの肩が大きく跳ねたのがわかった。言っている意味が理解できたのだろう。
浄化師は人数が少なく貴重な存在だ。神殿に所属している者がほとんどで浄化師の手配をする時は、いつ誰がどういった理由で申請してきたのか報告しなければならない。その内容は王家に伝わり、他の公爵家にも情報が洩れる可能性が大きかった。
ウォルスター公爵が倒れて浄化師が手配された。それだけの事実が流れるだけならまだいいだろう。だが貴族たちはそこで終わらせることなく、あることないこと噂を流すのが得意な人種だ。
公爵の体の不調による公爵家の今後や、誰かに恨まれて魔気を体に埋め込まれたのだという噂も出てくる可能性は十分にある。とにかく公爵家の上げ足を取ってくる者は必ずいる。
この国には公爵家が5つ存在し、お互いの力のバランスを維持して成り立っている。ウォルスター公爵と仲が良い公爵家もあるが、あまりいい関係とは言えない家もある。下手にクリステッドが倒れたことを公にすると、後々問題が大きくなっていく可能性があった。
メリーナもそのことに思い至ったのだろう。すぐに返事をすることができず、じっと蹲るクリステッドを見つめていた。
「・・・旦那様の命には代えられないわ」
黙って待っていると、喉の奥から苦しそうに言葉が紡がれた。
「出来るだけ内密に動いてもらえるように頼むしかないでしょうね」
「わかった」
浄化師には目立たないように公爵家へ来てもらえるように頼むしかないだろう。
そう考えた時、脳裏に1人の浄化師の姿が浮かんだ。それと同時に否定する気持ちも沸く。
彼女は駄目だ。
浮かんだ姿をすぐに打ち消すように頭を振る。隠さなければいけない浄化師をここへ連れてくることはできない。
わかっていても脳裏に浮かんだ姿が消えてくれることはなかった。
その存在を浮かべながらも否定し続けて、アルベルトは急いで部屋を出た。
神殿に向かって浄化師を手配してもらう。そう考えながら急ぎ足で公爵邸を離れるのだった。




