第九話
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高峰を追うか迷った郁弥が結局そのまま踵を返したのは、それが他ならぬ翔子の願いだったからだ。彼女を連れて危険な真似はできなかった。首都高を降りて行きながら郁弥はふと有坂は死んだだろうかと思ったが、自分の腰に回された白い腕を見ると全てが良かったような気がした。
羽田まで来てしまっていた。この世のものとは思えない… その有様を見て、二人は唖然としてエミリオを止めた。柱は折れ、一面に広がって崩れ落ちた高架道路が真っ黒に焼け焦げた何十台という車や家々を押し潰している。そして辺りいっぱいに斃れ折り重なっているのは、今はただの鉄屑となった夥しい車の骸だった。ぽつりぽつりと僅かに残ったポールの灯りは黒い路面に滴り落ちる液体をじっとりと照らしている。遠くを走っていくサイレンが聞こえる。気がつくとそれは多かれ少なかれどの方向からも聞こえてくる物音だった。
地響きもしていた。見上げると空が赤く染まっている。きな臭い匂いがした。
郁弥はマシンを降りようとしたが、翔子はその身体をぎゅっと押さえて許さなかった。人影は殆ど見受けられなかった。これだけの大惨事なのに何故だろう、郁弥はあきらめて再びバイクに火を入れた。心なしかエミリオは静かに目覚めた。ここで、確実に、大勢の誰かが死んだのだ。耳をよく澄ませば呻き声に満ちているのが分かるのかもしれない。郁弥は足下を濡らす液体が赤く染まっているように見えて怖気にぞっと身震いした。郁弥のTシャツをつかんだ翔子の息が荒いでいた。
幹線道路は殆ど麻痺状態だった。放棄された車、散らばったスクラップ。だが郁弥が走ってきた首都高と同じように真ん中を通れる空間が開いている。そいつが、そいつらが、抉っていった爪痕だ。郁弥は目を背けることもできずにエミリオをゆっくり進める。まるでこの日本が内戦の最中の国のようだ。渋滞しているところへ何台ものリベラライザーが殴り込んだようだった。その稲妻のようなアタックから咄嗟に逃げられるだけの鋭い判断力を持った人間が、いったいどれだけいただろうか。延々と続いているのは墓標以外の何物でもなかった。立ち木が焼け、ガスの焼け
る臭いがまだ鼻を突く。沿道の家々が炎上し、崩れ落ちる光景も何度も見た。ヒトの姿が見えないのは自分の錯覚だろうか、呆然としている場合ではないと郁弥は頭を軽く振る。風の吹き抜ける音が聞こえるほど静かな街の中を、路面を濡らしたオイルや
潰れた車の残骸の間をとろとろと進みながら郁弥は翔子に話しかけた。
「とりあえず、うちへ行っていいかい 母さんがすごく心配してる。そしたらダッシュで桜沢さんちへ行くから」
この超自然的な風景の中ならば、これまでにあった全てのことが夢のように自然に納得できた。だから背後に彼女はいたのだ。その温かみは郁弥にはまるで非現実的なもののようだった。
翔子は答えた。
「いいわ。うちへは行かなくて」
「何でさ、心配してる人がいるんじゃないか 」
「い・な・い・の・よ。うちにはね」
「…… 」
「もう何年も前に親は死んだわ。事故でね。一人だけいたお兄ちゃんも一昨年の暮れに死んじゃった。近い付き合いの親戚もいない、養い親もいない。さっぱりしたもんだわ」
初めて知ったことだった。こんな時に翔子が口にしたそんな言葉が嘘や冗談である筈がなかった。死、……それは郁弥にとってつい今まですぐ傍らにあった現実だった。仮にそれが冗談だったにしても、彼はそうは取らなかっただろう。郁弥は何と云っていいか分からなかったが、ただ、恥ずかしく、そして本当に悲しいと思った。それを上手く表現する方法が分からなくて、郁弥は暫く黙ってバイクを操作するのに集中している振りをしていた。
「その、…元気出せよ。うまく云えないけど、…桜沢さんのためなら、俺が命を張ってやるから」
「ありがとう」
それがわかったから、こうしてここにいるんじゃん。翔子はそう思った。好きとか嫌いとかじゃなくて、彼女は心のどこかで本当にそれが嬉しかったのだ。兄弟二人が利子だけで暮らしていけるほどの遺産のあった彼女は不自由のない生活を送ってきたかもしれなかったが、幸福な子供時代の思い出を膨らませて糧とするしかなかったハングリーな自らの生きざまを思うようになったこの頃だった。とくに事実上天涯孤独になってからだ。それは熱中するものがなければ壊れてしまいそうな、苦しみの連続する毎日だった。彼女はそうしてよりピュアなものを求めて音楽を聴いていた。
「ごめん」
唐突に郁弥はそう言った。咄嗟に意味が分からずに後ろの翔子は目をぱちくりさせる。
「もしかしたら、いや、多分。桜沢さんがこんな目にあってるのは俺のせいだ」
「どうして、… 」と言いかけて翔子は口をつぐんだ。その理由は郁弥が手にしたこのバイクを一目見たときから彼女には分かっていた筈だった。
「ごめん」郁弥はもう一度謝った。
翔子はため息を吐いた。出し抜けに現実に引き戻されたような気分だった。
「謝ることじゃないわ。ねぇ、電話したいからちょっと停めて」
「OK」
「そう、多騎君が謝ることじゃないのよ。今証明してあげる」
耳元でそうっといった彼女の小さな言葉は郁弥に聞こえたかどうか。
リベラライザーとの遭遇を危惧して郁弥は静かさの幾分保たれた脇道に入り、小さな公園の脇にエミリオを停めた。バイクの上で翔子は携帯端末を操作する。
それらしい喧騒はここにはなかったが、硝煙の匂いがうっすらと空気を染める街には走り去ったそれが悪夢だったような、恐怖と苦しみと微妙な安堵が未だ立ち込めている。魔の夜は終わったのだろうか。それともリベラライザーは、まだどこかで殺戮を続けているのだろうか。郁弥が見ただけならば街に出た狂いマシンは有坂とリッキともう一台、そしてこのエミリオの四台だった。郁弥には呆然と時の過ぎるのを待つことしかできないのだろうか。しかし、少なくともやらねばならないことはあった。郁弥はバランスを崩さないようエミリオを支えたまま、背後の翔子を見やった。それは大切な人、人達を守ること。この腕の下のエミリオは力を貸してくれるだろう。
翔子の不安げな顔つきがぱっと動いた。電話はようやっとつながったようだった。
翔子が早口に呼びかけている。自分でも何故だかは分からなかったが全く興味のなかった郁弥には、通話の内容までは頭に入ってこない。
郁弥は気の抜けたような顔をして可愛らしい十八の少女の真摯な表情を見つめていたが、その翔子の動きに郁弥ははっと体を起こした。
翔子は大声で電話の向こうへ呼び掛けを続けたが、あきらめたようにがっくり肩を落とした。郁弥と目が合うと、彼女は手のひらを上へ向けて、だめだと言うように首を振った。
「だあめ。切れちゃったわ。殆ど何も話せなかった」
「そう… 」
郁弥の肩に手をかけながら、彼女は郁弥が思いもかけなかったことを口にした。
「ただ一つはっきりしたわ。どっちにしろ、この事件はあなたの、と言うより、もともとは私の事件だったのよ」
「え… 」
思わず問い返してしまう。
「あなたには聞いてもらわなくちゃならないわ」
赤黒い匂いのする深い夜の中、横合いから街頭の灯りを受けながら、散々風に弄ばれて乱れた髪をかきあげる少女は恐ろしいまでに真剣な目をしていた。その瞳の光は真っ直ぐに心臓を射抜き、郁弥は息をするのすら忘れてしまう。翔子は場所を選ばなかった。
「一昨年の暮れのことよ。覚えがあるかしら。福島の陸上自衛隊駐屯地が何かの襲撃を受けて殆ど壊滅状態になったことがあったわ」
「一昨年の暮れ… 」
「そう。未だに犯人、あるいは犯行グループの正体は定かではない、それがこれまでの当局の正式発表よ。でも今の段階で犯人は殆ど限定されるまで絞り込まれていたの。ただ執行に至るだけの確証が得られなかったので当局は動けなかったわ」
翔子はちゃんと聞いているかと言うように郁弥の目を見つめた。郁弥はハンドルから手を放し、彼女に向き合おうと上体で振り返る。彼女の思いに応えようと微かな記憶の糸を真剣にまさぐり、かつて学校でも話題になったある記事を思い出しかけていた。それは写真週刊誌に掲載された場面のあまりの凄じさに皆が超現実を感じた事件だった。あられもなく踏み潰された戦車や装甲車両の様子は映画顔負けだったのだ。巨大ロボットの仕業に違いないと言った奴がいたのを郁弥は思い出した。
「いい…?、発表にはなかったけれど、基地を襲ったのはバイクだったの」
「バイクが襲ったって…、 ……え、……じゃあ! 」
ようやっと郁弥にもつながりが見え始めた。
「そう、バイクだったのよ。装甲車を簡単に押し潰すようなね。そして当局が犯人だと半ば断定したのが、ギガホーネット・エンタープライズという会社組織だったわ。もっぱら商社的な活動をしている会社なんだけど、特徴的なのはいろいろな基礎研究機関に莫大な資金援助をしていること。分野は限定されいて、当然目的あってのことだったらしいけど、基礎研究にお金をかける商
社なんて珍しいんだって。一〇年先を見ても直接お金にならない研究だから。普通は。」
「うん」よく分かったわけではなかったが郁弥は相槌を打った。翔子は満足して先を続ける。
「ギガホーネットはね、そうやって集めた基礎研究の成果をまとめあげて活用する技術組織を会社の中に持っていたのよ。いろんなところから引き抜いた人達でつくられたその組織はすごく優秀だったらしいわ。会社の命令に従ってその力を結集すれば何だってつくれた。…分かる? …ギガホーネットは親族で固められた会社で、事実上、…高峰直哉のワンマン会社なの」
郁弥は額に手を当てて目を閉じた。
話はつながった。彼らが今跨がっているのはそうやってもともと自衛隊員たちの屍の上に成り立った血塗れのマシンなのだ。
妙な気分だった。
「自衛隊を襲ったのは何の為だったんだ」
「分からないわ。考えられるのは、資材の調達と、実践テスト…ね」
「それを何で、…桜沢さん、が… 」
最後まで言えなかった。彼女の顔を見たからだった。
「そこで死んだ人の中に、あたしのお兄ちゃんもいたの」
そう言った彼女の頬に大きな滴がつたっていた。
「変ね。…なんでだろう、もうずっと、済んだことなのに。…… 」
手の甲で拭った微笑みに、郁弥は胸が息もできないほど締め付けられるのを感じた。
咄嗟に郁弥は翔子を抱き寄せた。
彼女の為なら何だってできる。
翔子の体は吹き抜ける風に熱かった。