第一六話
42
達也はクラッチを切ってマシンをそこに止めた。ニュートラルは探さない。そんな悠長なことはしていられなかった。目の前に認めた黒い影が何だったのかすぐに分かったからだ。
達也は威嚇するようにアクセルを捻った。かまっている時間はない、そこをどけという意味だった。
高峰はそれにやはり空吹かしの轟音で応えた。どこかモーターのようにヒステリックな表情を見せるマイナー・コードのエミリオのそれに対して、腹の底に響き返るような咆哮だった。一歩も退く意志のない相手に対して達也は身構える。東京の谷間で空を舞い降りた電気エネルギーが炸裂した。
達也もヘッドライトを消した。ライトがなくても十分明るかったが、それは空を走る電流がいよいよピークに達しようとしていたからかもしれなかった。
高峰はいつもの調子の声を張り上げた。それだけ世界が騒がしくなっていたからだ。
「まさかこんなところでまた会えるとは思わなかったよ、津々木君」
燐とした、自信に溢れた男の声だった。達也は黙って唇を咬んだ。
「俺のマシンはどうだい? … 気に入ってくれたか? … 大分痛めつけたようだな」
高峰は心の底から楽しそうだった。
「… 君の命は今燃えているか? 」
達也はゆっくりマシンを前へ進めた。目の前にいる高峰を怖いとは思わなかった。
それを見て高峰はおもむろに、達也の死角だったバイクの影からさっと何かを取り上げてかざした。
達也は反射的にマシンを止めて身構えた。だが危害を加える意志はないようだった。いぶかしむ達也に向かって高峰はそれを放ってよこした。そいつはゴンと音を立ててエミリオのタンクの上に落ちた。達也の懐だ。
--------------------------っ!
達也は悲鳴を上げた。
外側の二本が欠落していたが、それは間違いなく、人間の手だった。残った細い指が苦悶を物語るように不自然な様相で折れ曲がっている。泉のように流れ出る鮮血はまだ暖かいに違いなかった。激しい臭いに達也は吐き気を覚えた。
白い、そして折れそうに細い指だった。
「かわいそうにな」
高峰はそう言った。
「その娘はやり殺されてしまったよ」
心臓が止まるようだった。
達也の視線は何度も高峰の楽しそうな憎々しい顔とタンクの上に落ちた腕の間を往復した。指の先がぴくぴくと痙攣しているように見えた。流れ落ちた赤い血がダミータンクを伝って一部はその下のカウルの突端に落ち、ポタンポタンと音を立てた。脳髄の奥に屈強な杭を打ち込まれるような音だった。
感じたのは気配だったかもしれない。あるいは彼自身の激しい憎悪の流れだったかもしれない。達也は顔を上げた。直交する側の道にマシンを進めるべく向きを変えていた高峰の手前に一台のバイクがすっと出て来ると、達也に冷たい一瞥を投げかけた。澄みきったアクアマリンの瞳だった。
ぱくぱくと動くだけだった達也の口がそのときになってようやく彼の意志を表現した。
それは魂の怒りの悲鳴だった。
達也は泣いていたのかもしれない。空気が共鳴するように震え上がった。
リッキの動きは素早かった。重い筈のマッハスコルピオは軽やかにスタートすると高峰がマシンを向ける路地へ消えた。その道はすぐさま二〇メーター道路に直結する。間髪入れずエミリオが後を追った。高峰の跨がったクレイジー・ボンバーにぶつかるほど激しいターンに、千切られた翔子の腕が落ちたが達也はそんな感傷どころではなかった。絶え間ないフラッシュが輝く空の響きの下に、再びソニック・リベラライザーの咆哮が復活する。
空は荒れ狂っていた。その危険性はほんの数時間前の比ではない。これではたとえ飛来したF-一四トムキャットが本当にリベラライザーを駆逐する意志を持っていたとしても、その責を果たすことは到底不可能だっただろう。全天候戦闘機といってもそれは悪天候をものともしないなどという意味では全くない。それは単にいかなる天候でも戦闘ができるその条件の一つとして、そのためのレーダーやミサイルなどの装備を有しているということにすぎないのだ。
この電光をまともに浴びたらコンピュータ制御なしには考えられない現代のデコレーション・ファイターはひとたまりもないだろう。マシンを立て直しながら空を見上げた高峰はそう思った。彼はこの力に満ち溢れた空を人々に与えたのは自分だと考えていたのだろうか。
高峰はそうかもしれないとは思っていた。尋常でないことは誰の目にも明らかだったからだ。しかしそれがどういう事柄にどう起因し、これからどうなるのかということについては彼は何
も知らなかった。彼は二輪車の知識はワークスチームの技術者並だったが、応用したウエイト・コントロールも原理となると殆ど理解していなかったといってよかったのだ。
だが彼にとってそれは何の障害でもなかった。
彼はあらためてエンジンをかけた。彼らを追いかけなければならなかったが、ガスがもうすぐ尽きるかもしれなかった。先に補給できるところを探そうと思った。これまでは住民のゲリラの危険があったがもう粗方片付いてしまっている筈だ。ノーマル・エンジンに近いだけに消費が激しいのが泣き所だった。指揮、というより観戦のために用意したトレーラーを破壊されるまで自らが乗り出さなかった理由の一つがそれだった。リッキの位置はセンサーが把握している。実力の差の歴然とした二人だったが、勝負を見逃すことはできなかった。
43
下着はなかった。砂に汚れていたが、翔子は直接ジーンズを肌に着けた。おろしたてでまだごわごわした生地が、そこに感覚が残っていることを思い出させてくれる。彼女は上には何も着ずに、そのまま地べたに腰を下ろし、冷たい壁に寄りかかった。
精神がばらばらになりそうな痛みと恐怖と屈辱だった。その記憶はありありと残っていたが、どこか現実でないような気もした。いい気なものだ、と彼女は思った。身体が切々と訴えているのにあたしはそれを現実だと認めなくてすむよう思い込もうとしてる。ちよっと自嘲的な視線を空間に投げた彼女だった。
腰の下に異物があるので翔子は手を入れた。石だと思ったのだ。そしてそれがジーンズの生地の内側にあるのだと知ると彼女はちょっと嬉しさを感じたようだった。だが表情は殆ど変わらない。少し腰を浮かせて、コードを傷めないように慎重に取り出した。まるでこの世の中で大事なことはそれだけなのだとでもいうような丁寧な仕草だった。
膝を立てると翔子はそれを膝頭に置き、暫くじっと見ていた。何を考えているふうでもなかった。
空が割れるような音がした。
はっと目を覚ましたような表情を一瞬見せ、顎を引いた彼女はあらためてそれを上目遣いに見た。ひっくり返してスイッチのホールドを解除する。息を整えるような深い呼吸をして、恐る恐る、その指でプレイボタンを押した。
祈るような面持ちで翔子は目を閉じ力を込めた。
その間から… 。
白く光る筋が 伝って降りた。
もう枯れ果てた筈の涙だった。
……… 。
両足がガクガクと揺れる。
痛みが全身を鞭打っている。
恐ろしかった。肉体を傷つけられる恐怖。引き裂かれる恐怖。そして、魂を踏みにじられる恐怖。
なぜ自分が今、正気を保っていられるのか、どこか自分のことでないように見ていられるのか、わけがわからなかった。
そうだったろうか
本当にそうだっただろうか、
自分は… 生きて… いる。助けようと足掻いてくれるヒトがいることを、それでもまだ信じている自分がいた。
彼女の心を何かが揺り動かそうとしていた。
マイク・トランプは唄いかける。
その歌声に、空を振り仰いだ翔子の瞳が光って見えたのは、天を彩る稲妻のせいだけではなかっただろう。涙は後から後から流れ落ちた。
翔子は自分が手近にあったこのジーンズをひっつかんで走ったところから、もう一度思い出そうとしていた。忘れていられれば一番楽だったに違いないが、そこに何か、もっと大事なことがあったような気がしてならなかったのだ。
自分は何もかも失ってそこに倒れていた筈だ。冷たい湿った地面の感触をよく覚えている。では何故地べたにいたんだろう。自分は何かを見なかっただろうか、聞かなかっただろうか。自分は何を思い出せずにこんなに泣くんだろう 。
…… 倒れていたあたしは、誰かがあたしを呼んだのを聞いた…。確かに聞いた。あたしを助けてくれる声だった。解放してくれる声だった。地面が身悶えするように震えたとき、… 誰かがあたしを呼んだ。
誰か…… 、
翔子の瞳がはっと揺れた。
------- 郁弥。
傍にいてくれるって、--- 傍にいてくれるった言ったのに!
あたしのために、その身を抛ってくれるって! ---、
郁弥、……
一瞬崩れ折れるかとも思われた翔子は弾かれたように立ち上がった。ヘッドフォンステレオが転がって落ちた。慌ててそれを拾いながら翔子はまわりを見回した。
ビルとビルの間の細い路地だった。埃っぽい臭いが立ちこめる。翔子は片手で鼻と口を覆った。腫れた唇が熱い。痛みは鈍くゆっくりと伝わった。口の中に砂が入っているのに気付いて吐き出す。裸の腕で拭うと血がなすりついた。
雷でない物音が聞こえた。翔子はびくっと肩をすぼめた。一瞬痛みが走った。彼女は声を上げそうになったがすんでのところで無意識の恐怖が声を消した。音は遠くない。小さな物音だったが彼女がそんなに驚かされたのはどこか人為的なにおいのする音だったからだ。恐る恐る、そっと路地から顔を出すと、ほんの三〇メーターほど向こうに崩れ落ちたビルの瓦礫が道幅一杯に山積みになり、その手前にあのバイクが二台も停まっていた。翔子の心臓はたちまち地獄を思い出した。壁に添えた手のひらに力が入る。自分のまわりをもう一度見回したが、翔子はそこから逃げようとはしなかった。
二人は瓦礫の山を足で掘り返しているようだった。翔子に見られているとは気付かない様子で彼らはそこをふらふらしながら小さな声で話していたが、不意にそろってこちらを振り向く素振りを見せたので翔子は慌てて頭を引っ込めた。もっとも翔子が頭を出した高さで見通しは良くなかったから気付かれはしなかっただろう。そういいように解釈しようとするが、胸の激しい収縮はなかなか止まらなかった。それから翔子も気付いた。その小さなエンジン音に。釈明しながら進んで来るような音だった。
もう一台やって来る。近付いて来るのは達也のリベラライザー、エミリオだったが、そんなことが彼女に分かろう筈もなかった。
44
一人、背の高い方が出て来て大きい方のバイクに跨がった。高峰だった。翔子はそれを確認するのが精一杯で、もう視線を向けることはできない。近すぎる。その代わり、俄かに激しさを増したようないかずちの音に負けじと大声で話す内容はよく聞き取れた。
そして翔子は驚くのだ。何と、そこへ来たのは津々木だというではないか。信じ難かった。声も違うように思った。だが言い切ることはできない。彼は殆ど喋らなかったからだ。高峰の挑発は翔子の耳の底に響いた。
よっくも、…… 。翔子は怒りに震えた。津々木の吼え声が異常に哀しかった。よっぽど飛び出して行こうと思った。思い止まったのは恐ろしさのせいばかりではない、郁弥のことが気がかりだったからだ。何故、津々木がここにいるのだろう。しかもリベラライザーを手にして。
計り知れないほど翔子のハートを震わせた雄叫びの後の展開はあっという間だった。二台のバイクが轟音を上げて彼女の目の前を走り過ぎたのだ。鼓膜が引き千切られそうに震えた。耳を押さえた彼女の姿を、夢中で駆け抜ける二人が認めたとは思い難い。実際、彼らは気付かなかった。もっともリッキの方は予想ぐらいはしていたかも知れないが。
これからどうしたものか、翔子は迷った。彼女には迷う余裕さえ戻っていた。ここから孤軍安全圏まで逃れるのは不可能に近いぐらい危険なことに思われた。もう死体を見るのもごめんだった。やはりどうあっても津々木の前に飛び出すべきだったかも知れない。そしてここにはまだあの高峰がいるではないか。
そもそも自分は何のために街に出たのだったか。郁弥を助けるためだったではないか。逃げて何になるんだろう 。
郁弥は死んだのだろうか。翔子は始めて形にしてそう考えた。あの瓦礫の下にその体が埋まっているのかも分からなかった。そう思えば、確かめるまでは翔子はそこを離れることができなかった。
高峰が動いた。神経質にエンジンの音が上下する。
あの男こそ、諸悪の根源だと翔子は思っていた。リッキは勿論憎い。どんなに酷い殺し方をしてもまだ足りないほど憎い。しかし高峰に比べれば、どこか嘆かわしいものがあるようにも思えた。
----------------------------------------------------------------------
F-一四はただ上空を少し飛び回っただけで離脱した。高田警視監は本部の不穏などよめきを聞きながら、芽生えた不安の芽を摘み取ることができないでいる。解析すれば彼らには最初からリベラライザー掃討の意識はなかった、と見るのが正しい。では何のための危険なフライトだったのか。それは今日本を見つめる世界各国へのアピールだ。結局そう結論せざるをえないのだ。つまり東京を吹っ飛ばす前に、米軍が世界に名だたるこの東京という街を取り戻す努力をしたことをアピールし、ミサイル攻撃を正当化しようという考えだ。東京を地球のキャンサーだと世論が考えるならば目をつぶらせるのは容易い。天候の異常は絶好の隠れ簑になったし、差し迫った危険を訴える強力な材料にもなるだろう。これは真珠湾の焼き直しだ、警視監は疲れた頭でそう思った。
その予想が正しいかどうかは関東近辺の在日米軍の家族の動きを見れば分かる筈だったが、今もって何の連絡もつかなかった。関連した情報も入ってこない。勿論こうなっては米軍の流す情報も役には立たない。確かめる術がないのだった。天候の悪化が無線状態を極めて悪くしていることがやはり大きかった。そのために自衛隊による住民の避難がどの程度進んでいるのかさえ定かではない。ミサイル攻撃が目前なら、今こそ自衛隊の力が求められているのだというのに。
東京圏外の彼らは彼らで手を打ってくれるだろう。それとも地球の平和のために見捨てるだろうか。国防と人類の存続を載せた天秤はどちらに傾くのか。そしてそれをいったい誰が測るのか。ターゲットになっている我々には何もできない。確かめることさえもだ。対策本部とは名ばかり。彼らにはもはや何の力もないのだった。
確かに木村の考案はこの朝霞で奴等をあと一歩のところまで追いつめたかもしれない。しかし成果としては何も残せていない。この本部ビルが地上階をぶち抜かれただけで殆ど無事だったのは単に彼らに興味がなかったからに過ぎない。解放された道路上でどれだけその煙幕作戦が威力を発揮するかは甚だ疑問でもあった。木村は落とし穴作戦と併用すると言っていたが。
警視監はきりきりと痛む胃を抱えて苦しんでいた。心労にうとうととしては東京目がけて飛んで来るミサイルの夢ばかりがちらついた。暗雲留まるところを知らず。彼はそう独りごちる。
----------------------------------------------------------------------
そんな国家の危機が迫っているとは露ほども知らない翔子は、考えようとしていた。自分には今何ができるのだろうか。どうすればいいんだろう。何も思い付かなかった。ただ郁弥がいたかもしれないここから離れることだけはできないのだった。彼女は無力だった。すぐ傍にいる高峰に対していかなる力も持ち合わせなかった。
高峰のバイクの控え目なエンジン音はまだ続いていた。
翔子は歯痒さと悔しさに唇を咬み締めた。高峰とそのリベラライザー 、翔子の瞼の裏で郁弥の顔は兄の笑顔と重なった。彼女は心から大切に思った人を二人も、その男のために失ったのかもしれなかった。
地面を打つ水音が聞こえたような気がした。
それは空をひっきりなしに覆う雷鳴に慣れきった耳がふとした空隙に小さな異音として感じ取った物音だった。錯覚かもしれなかった。
何だろう。雨ではない。翔子は恐る恐る頭を出して様子を窺った。
高峰は上機嫌だった。これから見られる世紀の一戦を前にその膨らんだ心を静めておく必要があったほどだ。準備万端整えてから観戦に臨みたかった。なに、リッキは展開を急いたりはしない。彼は高峰がもっとも可愛がった手駒だった。だからこそ旗艦マッハスコルピオを与えもしたのだ。テストライダーとしてもなかなかの才能があったリッキはリベラライザーを一人前にするためにかなりの仕事をしている。その見返りでもあった。リッキの息のかかっていないマシンはこのクレイジー・ボンバーただ一台だ。彼は高峰の親友だった男の息子だった。
高峰は深く息を吐きながら、向かいのビルの角に向かって放尿していた。寄り掛かる格好で体重をバイクにあずけている。リッキを追って飛び出して行った津々木に引っ掛けられたマシンを支えた際に右足首を傷め、それがひどく痛んだからだ。不自然な姿勢だったが空を見上げた高峰は爽快な気分になった。
その様子を覗き見た十七の少女には、普段なら赤らめた顔のどこかに嫌悪が感じられたことだっただろうが、今は違った。それは翔子にとってまさに千載一遇のチャンスだったのだ。
翔子は迷いもせずに飛び出した。何も考えず、力を込めた足が思いきり大地を蹴った。
高峰は翔子に背を向けていた。当然寄り掛かっているバイクのスタンドがこちら側になる。用を足し終ろうとした高峰がふと腰を落としたとき、その小さな身体に全身全霊を込めて、脇目もふらずに疾走してきた少女は鉄の山のようなリベラライザーにぶち当たった。
肩が裂けるような勢いのアタックを食らってさしものクレイジー・ボンバーもバランスの移動を余儀なくされた。スタンドが地表を離れ、そのまま天を仰いだ。
弾みで宙を舞う翔子の心臓が飛び上がるほどの地響きが轟いた。
ぎゃ-------------っ
魂切る悲鳴が交錯した。
車のボディを飛び越えて壁に向かって突っ込んだ翔子はすぐさま立ち上がって飛びのく。
彼女はそこで呆然とその光景を見据えていた。暫く経ってから恐怖と痛みが襲ってきた。荒い息に鼓動がどんどん速さを増す。息苦しくなって翔子はまた後退った。
ようやっと視界が戻ってきた。ひいひい言うような悲鳴が耳に届いた。
そこに、高峰がバイクの下敷きになって痛みにもがいていた。
腹から下を完全にバイクに挟み込まれている。足が砕けたらしく、妙な具合にはみ出して見えた。
恐ろしい眺めだった。
首を捩じった高峰は何か言ったが、翔子には聞き取れなかった。もっとも聞こうとしていなかったからかもしれない。彼女の頭は別のことでいっぱいだった。血眼の瞳で見つめられても何も感じなかった。高峰は何を言ったのだろうか。それは恨み言だっただろうか。それとも助けを求めたのか、あるいは自嘲だったのだろうか。彼は口からゴボゴボと大量の血を吐いた。胸まで真っ赤に染まった姿を見て、翔子はもう助からないだろうと思う。いずれにしてもこの超重量級の機械の下から生きて出ることはなかったのだ。翔子は裸の胸の前で冷たく十字を切る。切ったこともない十字だった。
翔子は踵を返すとゆっくり道路に散らばった瓦礫の方に向かった。本当は走りたかったが身体がいうことを聞かなかった。
手前で何かにつまづきそうになった。それが何であるかを知った翔子はびくっと半歩後ろへ下がった。
あらためて見回した目にはあちこちに散らばった人間の身体らしき破片が映った。
彼女には助けが必要だった。目を閉じた少女は白いライオンを呼ぶ。彼はいつでもそこにいた。彼女こそがリトル・ファイターだったからだ。
瓦礫の中にすっかりスクラップになり果てた真っ赤なリベラライザーがあった。
45
達也は全霊を傾けてエミリオを駆った。前を逃げるリッキは凄まじい殺意を感じたがさっきのように身体が硬直するような恐怖はなかった。撃ち抜かれた腕や足の傷が生々しく痛んでいた。出血も止まらない。傷は高峰が考えた以上に深かった。彼がまだショック状態に陥らないのは緊張の連続が支えになっているからだろう。ウエイト・コントロールの影響もあるかもしれない。だがリッキは苦しんでいた。翔子を犯すのに使ってしまった体力の減退が否めなかった。マッハスコルピオはよく走ったが、その分乗り手に体力を要求した。リッキは吐き気すら覚える。
眩いちらつきが止まない空にスクリーンは自然にスモークになった。二人はそのシールド越しに前方を睨みつけ、アクセルを振り絞る。
リッキは耐え切れずに後方投擲弾を使った。しかし眼光凄まじい達也の視力はその軌跡をいち早く読んでポジションを変える。爆風は周りの建物の窓を叩き割っただけだった。
達也は目の前に立ち上がっているスティックが何のためのものかとうに知っていたが、使おうという気はまるでなかった。彼がねらった攻撃はただただ体当たり一本。この金髪だけは何としても命を燃え上がらせるアタックで葬りたかったのだ。そのために達也はがんがんスピードを上げた。エンジンの回転を引っ張る。滑らかに回るエンジンは瞬く間にリベラライザー特有の金切り音を撒き散らした。
速度差があればあるほど勝負は簡単になる。リッキもスピードを上げざるをえない。激しい体重移動を伴うマシンコントロールが要求される度に受けた銃創が千切れそうに痛んだ。できることなら道なりにどこまでも突っ走りたかった。だがリッキはリベラライザーが完全に自由ではないことをよく理解していた。そんなことはできなかったのだ。それは自分たちがその力を持ち続けるためには、動かない条件としてこの東京から離れないことが求められていたからだ。だからリッキは苦痛をこらえて疾走するマシンの方向を目まぐるしく変えていかなければならない。発動以来二〇時間近い時が経つ今になっても、オーバー三〇〇キロで走るマシンの活動範囲が東京近辺にとどまっている理由はそこにあった。
随所で落雷が起こっていた。もうすっかり慣らされてしまった二人の耳には自分のマシンのエクゾースト・ノートしか聞こえない。砕け散ったビルから降り注いだ危険な牙のシャワーを浴びながらも彼らは顔を上げなかった。大きな瓦礫の落下をくらったら一巻の終わりだっただろう。それでもリベラライザーは走り続けただろうか。
達也は相手を射程内に捉えるのに、リッキは形成を逆転するチャンスを計るのに全神経を集中させている。だが痛みと疲れに喘ぐリッキと逆上して我を忘れた津々木達也とではそのコンセントレーションにもおのずと差があった。エミリオは次第にターゲットに肉迫する。達也にはリッキの荒い息遣いすら聞こえるのだ。
そしてついに、コーナーでスライド量のコントロールを誤ったリッキを達也はコーナー脱出の直線加速で捕まえた。
透きとおるような淡いラベンダーのボディを踏み潰すべく、彼は間髪入れずに最初のアタックを敢行する。リッキは逃れようと後輪操舵を巧みに使って、加速するマシンにスライドを与えた。マッハスコルピオの底知れぬパワーに音を上げかけているタイヤが白煙を上げ、その空転の分だけ伝達するパワーがロスされる。直前にタイヤの限界に気付いたリッキは咄嗟にアクセルを僅か戻す操作をしたが、そのためにそこでスピードの乗りが損なわれた。それはウエイト・コントロールを念頭に置いたアタックを使う場合、あるいは被る場合、感覚的に捉えた以上のハンデになる。一瞬のもたつきでもタイミングによっては数十キロもの速度差を持ったアタックに相当したのだ。
それを十二分に知っているリッキは無意識に歯を食いしばった。
達也の最初のアタックはマッハスコルピオの右テールサイドに決まった。
激しいショックに胃が突き上げられて裏返りそうになった。身体中の血が全てアタックを被った反対側に慣性で移動したようだ。疲れが眩暈を誘ったのかもしれない。もし歯を食いしばる替わりに舌打ちでもしていたら舌を咬み切っていたところだ。
ふらついたマッハスコルピオを見て達也は強引に、反発して右に動いていくエミリオを左に切り込ませた。フロントがちょっとすくわれるような感覚があったがかまわずアクセルを開ける。疲れてきているタイヤを支えるデバイスの力を過信したわけではない。
エミリオは後輪をスライドさせ、向きを変えながら、マシンにしがみつくような格好で左に寄って行こうとするリッキに突っ込むかたちで再びアタックをかけた。立て続けのアタックだ。常識的な感性ではできない攻撃だった。デバイスを持ったマシン同士の体当たりでは、たとえ大きな差があってもその速度が高ければ、しかけて行った方も肉体に絶対的に大きなダメージを被ることを免れ得ないからだ。マッハスコルピオの速度計は時速二二〇キロを示していた。
俯いてしまったリッキには何が起こったのか理解できなかった。美しい鯨のようなマッハスコルピオは衝撃に宙に飛んだ。ライダーの身体を放り上げる。
タンクカバーに腹を打ちつけたリッキは呷いた。翔子の血の着いたトップブリッジの辺りにぶつけたようだった目の上が深く抉れ、血が吹き出していた。美しい顔が凄惨に歪む。それでも強い握力は手のひらをグリップから解放しなかった。腰を引いた先でスロットルがぐるりと回り、巨大なリベラライザーは太いタイヤから白煙を上げ暴れまわりながら脱兎のごとく飛び出す。意識しない加速に一瞬気を失ったリッキはもんどりうった。ステップから足も外れている。
吹っ飛んだマッハスコルピオが腹を見せなかったのはリッキのテクニックというより奇跡に近かった。バランスを立て直すべく努力しようとしていた矢先に衝撃を受けエマージェンシーがかかったために低い位置に設定を移された重心点が作用しもしたのだろうが、それでもフロントサイドに肩先から突っ込んだエミリオが前輪のフェンダーを引っ掛けてスピンした程だったことを考えればやはりミラクルだったとしか言いようがないではないか。
テールからスピンしたエミリオはそのまま数百メートルの距離を滑走し、街路樹をへし折ってそこから更に荘厳な造りのオフィスビルのウインドウに飛び込んだ。映画の一シーンのように粉々に割れた強化ガラスが空に飛び散りフラッシュに煌めいた。
朦朧となりながらも前進することしか頭にない達也はそれでも追撃を止めようとはしない。磨き込まれた大理石の床にホイールの空転した印を黒々と残して、彼は再び大きな窓を突き破る。その向こうを無茶なホイールスピンにテールを振りながら疾走して行くマッハスコルピオが見えたからだ。エミリオのエネルギーを受け止めた直径三メーターもあるような大理石の柱に大きな穴が残っていた。
不規則に弾かれてスピンのおさまらないまま突っ込んだので達也は身体の方にもかなりのダメージを負っていた。突き刺さったガラス片が背中や腕に光っている。彼は痛みすらも感じなかったのだろうか。
頭を振りながら後ろを振り返ったリッキはそれに気付いて恐怖に戦慄した。
----------------------------------------------------------------------
高田にはその話の意味するところがなかなか理解できなかった。懸命に説明しようとする研究員たちが非常に興奮していたせいもある。それにはれっきとした理由があった。それは言うまでもなく彼らの考察の進展だ。マス・コントロール・デバイス解析班は大きな壁に突き当たっていたが、今、それについて導かれる結論がどうやら絞り込まれようとしていた。
彼らが頭を抱えていた問題は、そのデバイスの作動により生じるエネルギーバランスの崩壊をどうして解消しているのかということだった。
マス・コントロールはバイクを構成するパーツや接する路面の原子核に対して直接作用する。一般に原子核反応が起こる際、その核子の組換えによって生じたエネルギーは質量の欠損によって補われる。しかしそのエネルギーの膨大さに対して欠損量はごく僅かだ。マス・コントロール・デバイスがバイクの重量を人間が扱える程度に軽減するとすれば、そこで発生するエネルギーは想像を絶するほど大きなものになる。そのうえ生成された物質はバイクを形成するに耐えないことが計算されていた。では何故リベラライザーは走るのか。それが彼らが最初に頭を抱えた問題だったが、それにはフランスの重力試験所が提示したアイデアが突破口をつくった。
疑似質量欠損 ・・・ それは画期的と言える考え方の転換だった。疑似、というより一時的と言った方が日本語として適切かもしれない。一時的に反応のエネルギーに相当するエネルギーの情報をデバイスが保留する。それによって物質はもとの性質を失わないまま質量だけをいくらでも減少させることができるというのだ。そこで成り立つ系はデバイスの働くバイクを中心としたごく僅かな範囲だけだから、その外の外界に対しては系全体としてもともとの質量が働くことになるが、コントロールするデバイスに増幅作用を持たせれば外に対して働きかけるときのエネルギーは増大させられる理屈だ。その増幅のためのパワーさえ備えていればリベラライザーは実現するのだったが、そこで技術者たちが頭を悩ませたのは疑似情報を物質に与えるためにはどこかで相当する量のエネルギー欠損がなくてはならないという点だった。それがエネルギー・バランスの崩壊だった。
エネルギー欠損点は存在する。それが彼らの辿って来たルートが正しいとしたときに導かれて来る結論だった。どこにあってどんなものなのかは見当もつかない。真っ暗な夜空を見上げてブラックホールを探すようなものだった。ただここで重要だったのは、それが損なわれれば全てのリベラライザーのマス・コントロール・イフェクトが消失するという点だった。時間の差し迫った今、ようやっと手にした僅かばかりの手がかりだった。
高田警視監はその捜索に全力を挙げるよう指示を出した。リベラライザーが東京圏から出ようとしないわけに説明が付きそうだった。欠損点は東京のどこかにあるのだろう。当然、一番可能性があるのはギガホーネットの筈だったが、リベラライザーの研究機関があったのは実は静岡だという証言があった。東京の支社と双方共吹っ飛ばしてやると高田は歯ぎしりする。だがもう間に合いはしないだろうと思う。連絡網の欠損は致命的だった。どれだけの人員が動けるのかの確認もできない。それに周到な高峰がそんなところに彼の心臓をいつまでも置いておく筈がなかったのだ。世界最強の呼び声も高いアメリカ海軍第七艦隊は間違いなく既に作戦にかかっている。彼らは人間の尊厳をかけて、見通しの危うい上陸作戦を見せるだろうか。それともそれは一発のSLBMなのか。戦いは終わっていた。彼ら研究員たちはよくやってくれた。後は奇跡を待つばかりだ。警視監はデバイスの解明を更に押し進めるべくデスクの方へ向かおうとした主任研究員を呼び止め、感謝とその努力を讃える右手を差し出した。ぶるぶると震えが止まらない右手だった。
----------------------------------------------------------------------
達也は取り憑かれたように過激なアタックを繰り返し敢行しようとした。リッキは死に物狂いで逃げた。リッキはしきりに左目をこすりながら頬をこわばらせている。目の上の傷から流れ出た血が彼の視界を奪おうとしていた。達也の方も腕や背中からかなりの出血をしていた。紅潮する身体の体温が片っ端から奪われていく。肩で息をしながら二人は目をぎらぎらさせて走り続けている。ペースは次第に落ちていったがそれでも平均一八〇キロ前後をキープしていた。落雷は一層間隔を狭め、激しさを増している。ビルは次々に崩れ落ちる。轟音が後を絶たない。あちこちで火災が発生し、路上に撒かれたオイルに引火した。火の海を突っ切る二台の背後で赤い舌が飛び散って花火のように空に伸び上がった。空が今にも割れるような音を立てていた。
目の前に落ちてきた巨大な壁をぶち破ったとき、その衝撃にリッキの脳髄は内膜に激突した。一瞬意識を失ったリッキをすかさずエミリオの体当たりが捉える。マシンごとぶっ飛ばされながらリッキは吐いた。マッハスコルピオのウエイト・コントロールに狂いが生じ始めていたのかもしれない。俯き総毛立った肩を震わせながら、込み上げて来るどす黒い塊にリッキは何度も吐いた。汚物がタンクの表面を伝って自分の腹に流れ着く。最後には胃液が出た。空っぽの胃からはもう何も出なかったが、リッキはそれでも吐き続けた。
達也は地獄の苦しみに喘ぐその姿を見ても何の同情も覚えなかった。自分が赦しても郁弥が赦さなかった。達也はリッキに休む間を与えない。最後のときが近付いて来ているのは確かだった。相応しい舞台を用意するべく、達也はマッハスコルピオにフルスロットルを促す。
あきらめて死を選ぶほどリッキは自信を失ってはいなかったのだろう。あるいは最強のトップライダーの誇りがそれをゆるさなかったのかもしれない。リッキは瓦礫と残骸と砕け散った亡霊の立ち塞がる間隙を目がけてアクセルを振り絞った。
46
翔子は素手で瓦礫の山を掘り返した。かたちのいい手のひらの皮が剥け、華奢な爪が割れたが、どこまでもどこまでも掘り続けた。しかしそれでも郁弥のものと断定させる遺骸は現れなかった。不安に押し潰されそうになっていた彼女はほっとしながらもどこかで確証を得たいと思った。そのとき彼女が取り除いた瓦礫の下に何かがあった。
翔子は悲鳴を上げて飛びすさった。それが何であるかすぐに分かったからだ。勇気を振り起こして確認しようと瞼を開いた彼女は耐え切れなくなり、壁際に走って嘔吐した。肩で大きく息を吐きながら翔子は熱い胸を撫で下ろした。それは醜く潰れて判然としなかったが、郁弥ではなかった。思い出さない、郁弥でなかったことを喜ぼう。そう思った翔子にはもう一度瓦礫の山に望む勇気がなかった。まだ続けなければならないとは感じたが、死んでしまった確証を得るよりは生きていると信じていたかった。
これだけ探してないのだからここには郁弥はいないのだ。これはあたしの感情が言うんじゃない、冷静な判断だ。そう、郁弥は生きているのだ。彼が死んでしまうわけはない。翔子は天に向かってそんな風に叫んだ。
十字路のところまで戻ってみると、高峰は己の吐き出した血の海に沈んで息絶えていた。地面をかきむしった跡があり、腕を振り回したらしくそこら中に血が飛び散っていた。若づくりだった顔に苦悶の表情がこびりついていて、翔子は目を背けた。まだ滔々と赤い水は流れ続けている。完全に横倒しになった状態ではマス・コントロール・デバイスも彼を救わなかったのだ。
そこから二、三歩歩いて翔子は立ち止まった。ゆっくりと怖いものを見るように振り向く。高峰の眼が自分を見ているように思えた。
翔子は先へ進まなかった。じっと立ち止まって高峰の方を見ていた。いや、彼女が見ていたのは高峰の醜い骸ではない。地上に君臨するもっとも巨大なリベラライザー、クレイジー・ボンバーの横たわった体躯だった。
灼鉄色のボディが絶え間ないフラッシュに深く輝き、翔子の網膜にその姿を焼き付けようとしているかのようだ。翔子は無意識にごくりと生唾を呑み込んだ。エンジンはまだ回っていた。
それは高峰が最期にこの世に残した悪魔だった。翔子の兄を殺し、翔子を辱め、殺戮の限りを尽くして人々を恐怖のどん底に追い落とした悪夢の象徴だった。
彼女の傷付いた裸の足がゆっくりと踵を返して動いた。
一歩。一歩。吸い寄せられるように歩いていく。
翔子はマシンを見下ろして立った。目には静かに輝く炎が宿っている。胸の隆起がゆっくりと上下していた。
壊れたガラスに注意を払いながら窓枠を乗り越えて翔子がビルを出て来た。落ち着いていた。もう一度クレイジー・ボンバーに近付くと、先程抜いたキーでタンクキャップをはずした。目は背けなかった。ヒンジの付いた外装の奥にキャップはあった。そうして郁弥が開けるのを一度見ていたし、車と同じようだったので翔子には分かりやすかった。巨大なガスタンクは殆ど空に近かったが給油口が端にオフセットされていたせいもあって、それでもかなり大量のガソリンが流れ出た。ノーマル仕様と大差ない四輪のビッグエンジンのために用意された燃料だったからだ。高峰を潰して倒れたマシンの角度も翔子の目的のためには頃合いだった。虹色の膜が高峰の流した血潮をたちまち覆っていく。血のそれと混じり合った激しい匂いが鼻を突いた。
翔子はその液体がバイクの下を流れてこちらまで来るのを確かめると、ポケットにねじ込んでいたコピー紙を無造作に引き出した。一緒に失敬して来た小さなライターが落ちてアスファルトに跳ねた音を立てた。
彼女は慎重な手つきで火をつける。ビル風が止まず、なかなか簡単にはいかなかった。繰り返す血に汚れた手が痛々しかった。紙をガソリンに浸してやっと燃え上がった炎を無造作に投げると翔子は走って距離を取った。ガソリンがどれぐらい燃えるのか分からない。懸命に走った彼女の後ろでクレイジー・ボンバーは瞬く間に炎に呑まれ、下敷きにした高峰の身体も一緒に舐め上げる。ゴウゴウと音を立てて炎は伸び上がった。
エンジンを止められキーも抜かれていたが、横たわったバイクは焼かれながらそれでもなお息をしていた。クレイジー・ボムはどんなときでもその呼吸を止めることがないのだ。それはこのマシンの特殊性を示すに十分な性格だった。ソニック・リベラライザーの位置付けとして、フラッグシップはマッハスコルピオだったが、母艦はこのクレイジー・ボンバーだった。全てのライダーがその意味を知っていたわけではない。それは超極秘事項の一つだったのだ。
もう言うまでもなかろう。このハイパー・ソニック・リベラライザーは全てのマシンが搭載したウエイト・コントロール・デバイスを統括しているのだ。ずば抜けて大きな車体には対策本部で解析班が指摘したエネルギー欠損点が存在した。リベラライザーは東京から離れられなかったのではなく、クレイジー・ボンバーから離れることができなかったのだ。
そして今、ソニック・リベラライザーが少しずつ失われるにつれ、欠損点との相互バランスに微妙なずれが生じ始めていた。それは次第に展開し、成長する。空に溢れる電気エネルギーは、余剰エネルギーをバランスさせる自然が生んだ新たな欠損点の現れだった。
マシンのシステム温度が臨界点を越える。特異なシステムは通常のデバイスよりも遥かに熱に弱かった。翔子の背後で暴走を始めたエネルギーが爆発した。
47
もしかしたらリッキは生き残るためではなく、死ぬためにアクセルを開けたのかもしれなかった。スピードの乗った二台のスーパー・ソニック・リベラライザーは障害を叩き潰し、あるいは弾き飛ばして疾走した。疲労の激しいタイヤがデバイスの力をもってしても鋭敏な動きを制約したせいもある。最後の勝負に臨もうとしている二人にとっては望むところだった。
そうした走り方をすればするほどマシンの性能の差が顕現した。限界に挑む速度にリッキのマッハスコルピオは達也の駆るエミリオをじりじりと引き離す。蹴散らしながら前を走るリベラライザーに離されるというのはよほどパワーに差があるのだ。達也は必死でスリップにつこうと焦るばかりだ。後方から更に物凄い勢いで迫って来る影があることに彼らは気付かなかった。
突然横合いに現れたバイクに達也は度胆を抜かれた。鋭利な白いカウルに引かれたグリーンとピンクのストライプ。異様に長い細みのボディ。パッシング・ファーだ。
速度計が三一〇を指しているエミリオをさらりと追い抜いていく。スリップ・ストリームを使われた覚えもない。パッシング・ファーはそのまま前へ出て行き、マッハスコルピオに並んでいく。
白いバイクはすぐに下がって来た。今度はアタックをかけて来る気だろう。達也は先に見たこのバイクの走りを思い出して身構えた。緊張が走った。
彼の思った通り攻撃はすぐに始まった。だが一撃必殺というアタックではない。パッシング・ファーは横様にぶつけてきた。
退いていてはダメージが大きい。ここは向かって行かねばならない。
達也は衝撃を受けとめながら考える。何よりも相手にスピードの優位を上手く使わせないことだ。そうすればこの縦に長いためにアタックポイントの多い車に早々やられはすまい。だがアクセルをやたらに動かしていたのでは乗りを失うばかりでなくこのままリッキに逃げられてしまう。歯ぎしりしながら彼はスロットルを調節し、チャンスを待った。
チャンスはすぐ来た。それはコーナリングだ。曲がる素振りを見せたリッキのマシンに気付いて達也は胸を高鳴らせた。パッシング・ファーはまたイン側の角地へ飛び込む走りを見せるだろう。このスピードならばまず間違いない。つまり自分は相手の自由度の狭いライン取りを知っているのだ。これは大きな強みに違いない。チャンスは一度だ。さもないとリッキは視界から消え去ってしまうだろう。そうなったらもう追いようがない。
リッキが右に折れた。
達也はタイミングを見計らって早めにブレーキを握る。苦手なコーナーに備えるパッシング・ファーが入り口でしかけてきはしないだろうと踏んでのことだ。思った通り白い巡航ミサイルはスピードを殺さずにエミリオの右を滑って行く。突入する気だ。達也は不必要にタイヤを滑らせないギリギリまでスロットルを振り絞った。
交差点のライン上に余計な障害がなかったことが幸いした。あるいはリッキが弾き飛ばして行ったのかもしれない。兎に角クリアなラインに乗ってテールのスライド量をコントロールしながらエミリオは奇麗に旋回した。存分な脱出加速ができるところだったが、達也は一瞬アクセルをためた。
ビルのエッジをぶち壊して飛び出して来るパッシング・ファーのロスを計算したのだ。その長いテールが前を過ぎって行く。絶好のアタックポイントになった。
激しいスピンに陥りながら地を離れた後輪が跳ね上がる反動で頭からアスファルトに突っ込んだパッシング・ファーは、ライダーを振り落として水面を引き裂くブーメランのように回りながらスクラップに近付いて行った。砕けたカウルの破片が飛び散るのを横目に、アタックを決めた達也はリッキの後を追って行く。
達也は今更のように彼自身に驚きを感じていた。自分がこんなにタフだとは考えてもいなかった。リッキは安心からか、心なしかアクセルを緩めていたようだった。達也は直にその背後に張り付く。振り出しに戻った。しかし不敵だったリッキの表情はますます苦しみに歪んでいる。蒼白な面持ちに、繰り返し万力に締め付けられるような頭痛と嘔吐感が絶えないことが窺われた。
全開で加速する二台のモンスターの咆哮が天と地の狭間に響き渡っていく。リッキはもうタンクに臥せった頭を上げもしない。視界はモニターに頼っているらしかった。パワーに劣る達也は追いついてからが大変だった。死に物狂いでスロットルを振り絞る。四〇〇キロ近い速度で後方に消えて行く白い路面に二人の影がくっきりと刻み込まれて行くようだ。エンジンはジェット機のような雄叫びを上げる。タイヤのロスが目に見えて酷くなっていることを思えば、あるいは達也はリッキに追いつくのかもしれなかった。
そんなときだったろう。クレイジー・ボンバーのシステムに暴走があったのは。
何の前触れもなかった。出し抜けといってこれ以上恐ろしい出し抜けはなかった。ウエイト・コントロールに細部まで支配されたエンジンにその糸がぷっつりと切れたのだ。通常の許容回転数の一〇倍近いスピードで回っていたクランクが割れて吹き飛び、ミッションは互いの歯を噛み砕いた。二人のライダーの身体は宙に舞い、屈強なアタック用フロントカウルの中に頭から飛び込む。だが超重量級のマシンは止まらない。ロックしたタイヤの吐き出す白煙を引きずりながら、時速四〇〇キロで突っ走って行くのだ。
いかなるマシン・コントロールもままならない。二人の少年を乗せたまま、二台のスーパー・ソニック・リベラライザーはその前に立ちはだかった白い壁に向かって突っ込んでいった。
48
天高く吹き飛んだ分厚い装甲板や金属片の雨を見ながら翔子は呆然としていた。彼女の想像を遥かに凌駕する爆発だった。跡形もなく吹き飛んだその場所には二〇メートルの深さにも達しようかという穴が穿たれているばかりだった。
翔子は長いことそうして立ちつくしていた。金属の雨は止み、幸運だったことにそのどれもが彼女を傷付けようとはしなかった。
彼女が顔を上げたのは素肌に優しい暖かさを感じて暫く経ってからだった。
激しくちらついた光ではなく、足もとにはやわらかな親しい影があった。
黒い雷雲が薄れ、消えて行く。欠損点が消失して行くのだ。それは自然に現れたものとはいえ、単にマッド・ボムのシステムに導かれたものに過ぎなかった。引き金がなくなれば消滅する。定着する性質のものにまで成長していなかった事実が地球を救った。
晴れて行く雲の向こうに午後の日差しが覗こうとしている。
雲の向こうには青い空があった。
翔子は郁弥のことを考えていた。
---------------------------------------------------- 了




