第一四話
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激しい電気のフラッシュがそれぞれの瞳に悽惨な光景を灼き付けた。達也は、滴り落ちる血に塗れながら立ち上がる郁弥を見つめて葉月を抱き締めていた。いかに郁弥がタフだとはいえ、その命を奪うには十分な深手である筈だった。
「郁弥ぃ …… 」
枯れ果てたと思った涙が溢れて後から後から頬を濡らした。このまま郁弥の命が尽きてしまうなら、最後まで迷わずに完全にあのとき轢き殺してしまっていた方がましだったとさえ思った。そうして葉月を助けたら、自分も死のう。達也は悲惨な運命を呪い、嘆いた。凍りついたように視線を離れない郁弥の顔を見ることが、自らの死の淵を見るように恐ろしかった。
郁弥は暫く津々木の顔を見ていたがどういうわけか何も言うことができなかった。自分の気持ちを伝える言葉が見つからなかったのだ。真っ直ぐに言おうとすればするほど彼を苦しめるだけのような気がした。それに、郁弥には時間が無かった。
恐ろしいものを見るかのように葉月が郁弥と津々木を交互に見ていた。津々木を支えてやってくれ、そう郁弥は少し笑いかけると、支えにしていた瓦礫から身体を離した。電撃を受けたような痛みが走った。まるでこの地面に立ち上がった残骸から身体を剥ぐようだった。苦痛に呷きながら二、三歩あるく。血が目に流れ込んで視界が真っ赤に染まった。
「郁弥… 」
津々木が倒れかかった体を支えてくれた。
「じっとしていてくれよぉ、医者を呼んで来るょぉ、俺… 」
涙声を聞きながら郁弥はその手をぐっと握った。自分でも意外なくらい力があった。身体がまだ保っていたというより、コントロールが効かなくなっていたのかもしれない。郁弥は一言一言はっきり言おうと努力したが、ぜいぜい言うばかりであまり声にならなかった。
「どうしても、やん… なくちゃいけないことが、あるんだ」
「なんだって… 郁弥ぃ、もうどこにも行くんじゃねぇよ。ここにいろよ」
「いや、… 俺のバイクのとこへ、連れ 連れ、てってくれ… 」
「分かった、分かったからじっとしててくれ、バイクは今持って来てやる」
津々木は郁弥を葉月に預けて、倒れているエミリオの方へ走って行った。
今、葉月が傍らにいる。郁弥は何か言おうと思った。ハンカチが目に押し当てられる。血が拭き取られ、視界が少し戻って来た。まばたきして視線を横へ投げた。
「 … し、…… 翔子、…… 」
彼女が涙を流して笑っていた。
輝くような笑顔だった。郁弥の心からすうっと何かが流れ落ちたようだ。溜飲が下がったというのかもしれない。
郁弥はにっこりと笑った。世は全てこともなし、そんな微笑みだった。
達也が満身の力を込めてバイクを引き摺るようにして戻って来ると、葉月が崩折れた郁弥を必死で抱え、真っ青になっていた。達也はバイクを放り出し、音を立ててその傍らに膝をついた。
郁弥は至福の微笑みを浮かべてこと切れていた。
雷鳴がまた轟いた。
ピ---------- ッ。
もう今更流す涙も無い二人の耳に冷たい電子音が響いた。呆けたような面持ちで達也が頭を向ける方向にポツンと立つマリリオンの通信機だった。コールは何度も繰り返した。達也はようやっと腰を上げる。ゆっくりと、何度もつまづきながらバイクに辿り着くと、エミリオに比べずっとシンプルなコックピットの中でマリリオン専用受信回線を開いた。
中貝の声だった。画像は入らない。それは達也が画面のスイッチを入れなかったからだが、受信回線と同調しているカメラによって、こちらの映像は条件さえ良ければ届いている筈だった。
「俺だ、中貝だ。津々木君か … 多騎はどうだ? 」
激しい走行音を背景にした立て続けの問いかけだったが、達也は答えなかった。答えられなかったのだ。しかし中貝はかまわないというように続けた。
「手短に言うぞ、今自衛隊と連絡が取れた。救助ヘリが行く筈だからそこで待ってろ。無理して動こうとするんじゃないぞ、じっとしてるんだ。また連絡する。--- 」
エンジンの咆哮に混ざって通信は途絶えた。途端に静寂が襲って来たような気がする。雷の騒ぐ空はもう耳に入らなかった。
暫くぼうっとしていたが、達也は俯いて足を引き摺りながら葉月と郁弥のところへ戻った。葉月のすすり泣きが頭の奥で空になった涙腺を引っ掻くような感じがした。
「救助ヘリが来るって。…… 」
「 …… もう遅いわ」
ずきりと胸に刺さる言葉だった。達也は彼女にかける言葉が無かった。いっそのことこの場で腹でも切りたかったくらいだ。しかしそれでは何の意味もないじゃないか、冷たくなっていく郁弥の口元がそう語りかけていた。郁弥が笑っていたのが何よりも救いだった。
--------------- ッ
今度は反射的に振り返った。ずっと近かったせいもあるだろう。コールしているのは固いアスファルトの路面に砂利と瓦礫に混じって影を映し、横たわっている郁弥のバイクだった。立っていた達也は引き寄せられるように足を踏み出す。何かが頭の奥で止めろと叫んでいるようだったが、それは彼に聞き取れる声ではなかった。
そして実際それは地獄からのコールだったのだ。
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丁度、現在の兵器に求められる戦闘力と、レーシングマシンに求められるそれとの融合だ。研究員の一人は結論づけるようにそう言った。
「マス・コントロール・デバイスはまさに魔法のスプーンだね」
その表現は高田警視監の神経を逆撫でしたが、彼は黙っていた。時間が無いのだ。彼は今それを切実に感じていた。自衛隊はすでにところどころで火口を切っている。その結果はまだ出ていなかったが、彼の直感は一昨年と同じになるのではないかと危ぶんでいた。全ては東京中に散らばっていった工作部隊の働きいかんにかかっているだろう。自衛隊の連中は今度こそと息巻いていたが東京で戦争を始められては困る。自分の首を絞めるよりも辛い結果を生むことが火を見るより明らかだ。問題はいかに騒ぎを静めるかではなく、いかに被害を食い止めるかだった。
研究室の脇ではただ一つほぼ完全なかたちでカメラに納められたリベラライザーのアタックの瞬間の映像が繰り返し解析されていた。
突っ込んで来るのは十数コマ前まで黒い点にしか見えなかったオレンジ色のリベラライザーだ。画面左端から対向車線を走る砂利トラが入って来る。それを手前から黒い乗用車が追い越そうとする。絵の中で大きくなる車の陰に、対向して来るバイクの姿は見えなくなる。画面いっぱいにその影が広がった瞬間、黒い影は破裂するのだ。あたかも鉄でできた風船のように。トラックは右脇を大きく抉り取られスローモーションで崩れ落ち、遥か先で接地の火花を上げてボロ雑巾のように目茶苦茶に潰れた。引火した。
何度見ても目を覆いたくなる。そして見るごとに何度も頭を抱え込んでしまう映像だった。解析によると激突直後のリベラライザーのスピードは時速二一〇キロから二三〇キロということだった。トラックの速度を五〇前後、乗用車の速度を約八〇キロと解析班は見ていた。あれがオートバイのしたことだなどと誰が信じようか。そして特筆されるべきだったのは、その時に見せたリベラライザーの信じ難い運動性だった。
ある技術者が数時間前に、リベラライザーが二五〇キロで走るとき、そのエネルギーは六〇ノットで進む大型原潜に匹敵すると計算した。六〇ノットといえば時速一一〇キロだ。そんなスピードで突っ走る潜水艦が何故曲がる、何故止まれる。それは誰もが抱いた疑問だっただろう。その鍵はやはりウエイト・コントロールにあった。
若い研究員に問題のデバイスを魔法のスプーンと形容せしめたのは、いうまでもなくそのアタックの凄じさだったが、それ以前に両輪のステアリングなどを含めた基本構成の点においての破天荒だというほどに斬新ながらも突出したその好バランスが、このマシンを二輪車として見つめるとき語られるべきだったかもしれない。そして状況に応じて連続的に絶妙にバランスされたそのアライメントを可能にしたのは、バネ上とバネ下にかかる負荷量、そして路面とタイヤの接地状態を、原子レベルでよりアクティヴに操作するウエイト・コントロール・デバイスの手だったのだ。接地する路面にまで差し伸べられたエネルギーの手は、いかなる状態においてもマシン本体を順応にバランスさせる。憶測の域を未だ出ないが、さらに突っ込んで優れた点としてあげられそうだったのは、そのバランスが常にコントローラビリティを持っているらしいという点だった。そしてそれらを実現するベースとなったのは、蓄積された二輪テクノロジーの結晶という頭脳だったのだ。もうどれほどの路面に撒き散らされたか知れないオイルの波が彼らに対して何の障害にもならなかったのは不思議でも何でもないらしかった。
二つの意味の戦闘力を併せ持つ。それは素晴らしく高次元な二輪車テクノロジーと、人類の歴史を覆すほどのエポック・メイキングの調和の上に築かれた金字塔だった。
もっとましな使い方はなかったのか 。警視監の嘆きと怒りはとどまるところを知らなかった。
彼は叫ぶようにしてデータの収集を急いているギガホーネットの研究員の汗のこびりついた顔を見た。まだ年若い男だった。彼が涙を流しながらここに到着したときのことを覚えている。自分達のつくったものが何に使われるのか考えもせずに研究に没頭した彼のような男達の気持ちが、少しは分かるような気がした。
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小伝馬町、本町の交差路で第六十五戦車部隊はリベラライザーと接触した。自衛隊が送り込んだ最大規模の兵力を擁した部隊の一つだった。七十四式戦車十四両を主体とする部隊は先を行くAH-1S戦闘ヘリと連携をとる。この戦闘ヘリコプター コブラ 単機でも十分であると思われた作戦内容だったが、陸上自衛隊には苦い経験があった。圧倒する戦力で相手の戦意を削ぐことで実際の戦闘を抑えることができると考えていたのだ。
習志野を出た自衛隊の動きは超迅速だった。可能な限り早く、使う使わないは別にして火器の使用可能な都心の奥へと駒を進める必要があったからだ。小伝馬で出会ってしまったのは不運だったが、超高速で都内を我がものに走り回っている彼らに接触せずに侵入するというのは所詮無理な話だった。哨戒ヘリによって得た情報は既に使い物にならなかったのだ。
部隊を率いる塩山一佐は展開を指示した。輸送用の特大型トレーラーからタンクの巨大な体躯が身震いとともに降ろされる。勿論ここでは戦車の主砲は使うことができない。どんなに切り詰めた見方をしても、まだ人々の生活圏のど真ん中だった。一佐は道路を封鎖するよう車体を位置させよと命じた。ただそれからどうやって止めるか、という問題になると彼にもまだ確固たる手段がなかった。リベラライザーによって踏み潰された装甲車両の残骸を写真でではあったが彼は見ていたからだ。だからこそこうして車長として今彼は狭苦しい七十四式の中にいる。歩兵さえも連れていない。トレーラーを運転して来た輸送科部隊の連中には背後の建物の中に避難していろと命じた。福島の現場には戦車の変わり果てた姿もあったと聞く。おそらく、そのとき持ち去られた車両のなれの果てがあの驚異の二輪車なのだ。暗に指示された落とし穴の作戦は有効かもしれない。しかし、その作戦に必要なだけの道路幅員がここにはなかった。もし敢行すればその行為はリベラライザーを葬るためではなく、街を叩き潰すための行為に終始してしまうに違いないだろう。一佐にしてみればタンクの使い方を知らない者の考えだといわざるをえない。勿論命令ならばやるしかないが街を破壊しろといわれたわけではなかった。
上空から目標をホールドオンしたAH-1の前席より、ターゲットが刻々と近付いて来る様子が伝えられて来る。一個飛行隊、総勢八機のコブラは一機を残し、更に広範囲へ目を光らせるべく散っている。今までのところそれらよりの通報はなかった。悪天候で確認の難しいことを考えれば言い切ることはできなかったが、ただ一台のマシンが時速一六〇キロで近付いて来ているのだった。
一佐は短い口ひげに触れながら、ヘリに牽制をかけてみるよう命じた。ターゲットは少なくとも頭上のヘリには気付いている筈だった。稲妻の舞う、飛行条件としては最悪の空の中に機体は紛れて見えないが、残存距離はもう五キロばかりになっていた。一佐はそれでバイクが方向を変えてくれることを願ったのかもしれなかった。
コブラのパイロットは一刻も早く帰投したいと思っていた。空模様はどんどん悪くなるばかりで、脇の下を流れる冷や汗は乾くことがなかった。最初からこんな天候だったらけっして飛ばなかったのに、とコ・パイと呷いているときに運悪くこの忌ま忌ましいターゲットに鉢合わせてしまったのだ。早急に帰れる望みは絶えた。そこへ牽制せよとの命令だった。彼らがことを急いたとしても不思議ではなかった。
コブラはその痩身を捻ると道路に沿って立ち並ぶビルの間に割って入った。高度をすれすれまで下げる。道路がクリアな状態だったらこの視界でももっと低く飛ぶことができただろう。目的はちっぽけなバイクの牽制だった。機首を気を配りながら振ると、視界に捉えた。後ろからローパスする。短い距離だったが二五〇キロ弱のスピードでバイクを擦った。風圧を受けて奴はどうしただろうか。あるいはあっけなく片がついているかもしれない。パイロットは身を翻すようにしていったん高度を取ろうとした。
その途端だった。
信じられないような衝撃が機体を揺さぶった。あっという間もなかった。機体は安定を失い、ローターをビル壁に引っ掛けたかと思うともんどりうって大地に突っ込んだ。キャノピーを横殴りに叩き潰してヘリは粉々に砕け散る。高出力ガスタービンの燃料に引火した。
パイロットは落雷だと思ったかもしれない。全てを知っていたのはそのリベラライザーのライダーただ一人だった。
華々しいその爆発を身構えた隊員の全てが目撃したにちがいなかった。動揺が走ったのを一佐は肌で感じる。AH-1にはAU-一九四ロケット弾ポッドが左右に各一基装備されていた。高々と揚がる花火を見て戦闘ヘリの最期を想像するのは難しいことではなかったのだ。空を引き裂くような轟音は暫く続いた。そしてその音がおさまり始めるが早いか、聞き慣れない甲高い雄叫びが一佐の耳の奥で鼓膜を刺激する。塩山一佐にはもう判断の猶予が与えられていなかった。
一瞬の出遅れが致命的になった。未知の力に対する恐怖が分厚い装甲に護られている筈の隊員達の平常心を凌駕するのに、障害のない隙があったのだ。一二・七ミリの重機関銃が気違いのように乾いた雄叫びを上げた。パニックはたちどころに連鎖した。すぐ傍で一〇五ミリ砲が火を吹いた。装填されているのは超過激な破壊力を誇るAPDS弾だ。大地を揺るがした砲声は何台も離れた戦車の中にいるものの聴力さえ奪おうとする。それが最初だった。瞬く間に距離を詰めるターゲットに竹槍のように切っ先を向けて居並んだ砲身が、一瞬のときも置かず次々に吼えた。充満した発弾の熱気が外板を赤く染め、ビルや路面のアスファルト合材が立て続けに蜃気楼のように白い光の中に融けていく。狂気のなせる破壊作業だった。しかし高速で真っ直ぐに突進して来るターゲット程命中しにくいものはない。全力で加速するリベラライザーは灼熱の大気の中を難なく戦車部隊の鼻面に達した。
ガバッツツッ----------------------------------------------------------- ッ
声になる半ばで立ち切られた悲鳴と怒号が谺した。三十八トンの装甲があたかも紙のように引き千切られ、剥ぎ取られる。引きむしられた金属の軋みが飛び散った。七十四式戦車がまるでプラスチックのおもちゃだ。
塩山一佐はハンマーで叩かれるような衝撃を受け、崩れるばかりに倒れた。狭い室内で天井がやけに高かった。血を滝のように吹き出しながらねじくれて視界を過ぎっていく首の無い身体を見て気が遠くなる。それは彼の身体だった。目を閉じた一佐は二度とその目を開けなかった。
駆け抜けたバイクは十分な距離を取って転回すると、再びアクセルを捻った。
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達也は半ば無意識にエミリオの受信スイッチを入れようとして探したが、スイッチは入ったままになっていた。結局その甲斐はなかったのだったが郁弥が中貝と連絡を絶やさないようにするためと同時に、またその仲間から入って来るかもしれない情報に備えるため回線を開けておいたからだった。達也は画面に映った少年を見て一瞬どきりと心臓が身を捩るのを覚えた。普通ならば愛らしく見えただろう顔を悽惨な面持ちに歪めた金髪の少年がこちらを見ていた。カメラが画面のすぐ傍にあったのであまり感覚のずれがなかったのだ。
少年はそこに現れたのが郁弥でなかったのを意外に思ったようだった。
「多騎じゃないのか…? 」開口一番そう言った。
達也はその口ぶりからか、敵意を覚えて身を強張らせた。
「どうしたんだ、エミリオは倒れているようだな。おい、多騎はそこにいるか? …まさかくたばっちまったんじゃねぇだろうな」
生理的嫌悪感を覚える外観と言葉のギャップだった。達也は無意識にかぶりを振った。画面の中の少年はそれを勘違いしたようだった。ふん、と鼻で片づけて再び雑言を継ぐ。
「出せよ、面白いもん見せてやるってな」
そのとき達也は気付いた。ずっと通信の奥に絶えない、まだ大人になりきらない少女の恐怖に喘ぐ悲鳴。その顔色を窺って金髪の少年は身体を少しカメラから離した。レンズの視野が広く取れるように…。
リッキは鬼だった。翔子は殴られ、切れた口の中に血が溢れるのを待たずにまた何度も殴られた。固いバイクのトップブリッジに叩き付けられた額がざっくりと割れて血が止まらなかった。完膚なきまでに恐怖を植えつけるやり方だった。
翔子は痛みよりもむしろ恐ろしさに涙を流していた。身体の震えが止まらなかった。荒い息をしながら目を開けると白い街灯の無表情な光が差していた。バイクは停まっていて、リッキは画面に向かって笑っていた。いかなる抵抗も許さないというように強い腕が身体を押えつけている。もっとももう彼女にはそんな気力は残されていなかったかもしれない。
リッキが上体を起こした。翔子を口元に引き寄せて心臓に突き刺さるような声で呟いた。
「多騎に見せてやろうぜ、これからが本番だ… 」
翔子の細い身体の全身の肌がざわめいた。郁弥の名が耳の奥に届いたとき、全てがもう一度振り出しから始まるような気持ちになった。吐き気を覚える恐怖が翔子の全身を突き抜けた。
「郁弥、…助けて …助けて! ---!! 」
長い間にわたって彼女を護ってくれたにちがいなかった黒のジャケットが、背中の合い目から引き裂かれ、身も凍るような悲鳴を上げた。リッキの目的を知って翔子の身体はビクンと弾け飛んだ。咄嗟に組んだ腕の間をくぐって手が胸に触れる。どんな僅かな隙をも逃さない、獲物に襲いかかる豹のような動きだった。瞬間にかけるほどに素早く、力強い。薄いブラウスは何の抵抗力も持たなかった。翔子の咬み絞めた唇の間から流れる血が額を伝う鮮血とあいまって、苦しみに歪められた蒼白な顔は傍目には世にも美しく見えたかもしれなかった。
「畜生--------------っ!! やぁめろ--------------!!っつつっ!!! 」
達也は声を限りに叫んだ。喉の奥から血が出るようだった。目を背けたくとも釘付けになった身体は動かなかった。達也は地獄を知ってしまったのだ。ぶるぶると震えるのは怒りのためなのか、それとも遺恨のためなのか、あるいは恐れなのか、彼には分からなかったが、言いようのない衝動が殺そうとするほどに心を締め付けていることこそが全てだった。
露にされた翔子の白い乳房は青春の匂いがした。リッキの腕がジーンズの下へ滑っていく。達也は歯を立てていた唇を咬み切った。
「てめぇっ! どこだっ、どこにいるっ!! 」
リッキはゆっくりその弾力を楽しむように手を動かしながら答えた。
「その気になったか? … ここは、そうだなぁ、渋谷が近いよ。あとはセンサーを見て来な。今、こっちから信号を送ってやるから」
翔子の首筋から顔を上げてリッキは画面の方へ手を伸ばした。
「どっかのスクリーンに赤い点が出ただろう、方位計の形になってる奴だ。そいつの教える方に進んで来ればいい」
「畜生… 」
リッキは相手が誰かということになどもうかまっていなかった。達也はエミリオのコックピットの左下隅にそれを認めた。
「今行くぞ、捻り殺してやる!」
「楽しみにしてるよ。けど早くしな、さもないとこの子、生きてないかもしれないぜ」
達也は何度目かの腑が絞り出す罵声を浴びせたが相手は意に介さなかった。達也は画面を消した。振り返ると葉月が郁弥の頭を膝に抱えて不安げな目で彼を見ていた。
「… 翔子なの? 」
答えにくかった。しかし話の内容は彼女にもよく聞こえたことだろう。達也は濡れて光る目でうなづいた。
「俺は行く」
達也は言った。
今、心に迷いがなかったと言えば嘘になろう。でも行かなければならないと思った。自分は葉月のために郁弥を殺してしまった。そして郁弥は翔子のためになら達也を殺したかもしれなかった。
やりきれない気分を抱えて達也はエミリオを起こした。力任せでは絶対に上がらない重さだったが、さっきやったので要領は分かっていた。三度目に成功した。バッテリーの補助動力源が生きている。途中からスタンドのモーターの協力を得ることができた。
スタンドをかけたまま、そのままエミリオに跨がった達也は葉月に視線を向けた。
切り揃えたショートの美しかった髪が、乱れて埃にまみれていた。汚れと涙と郁弥の血にすっかり黒くなった顔が、ものいいたげに彼を見ていた。
達也は本当は残りたかったのかもしれなかった。
「じゃあな」
彼はそう言ってエンジンをかけた。キーを何度か回して、アクセルを捻った。いくらか不機嫌な音を立ててバイクが目覚めると、暫く静かだった雷までが復活したようだった。爆音は雷雲と共鳴した。
達也はマシンの鼓動に郁弥の身震いを覚える。郁弥の方に目を向けると、葉月がじっと達也を見ていた。これが見納めかもしれなかった。
愛してるぜ ---------- その一言が言えたなら、いくらか心が楽になったかもしれない。
達也はかぶりを振ってエンジンの回転を上げていった。何も言えなかった。桜沢翔子が苦しんでいる。体を張ってでも助けたいのも本当だったのだ。郁弥のバイクが身体の下で気勢をあげていた。
気配を感じて空を振り仰いだ。黒いヘリコプターの影が、機位を示すランプに囲まれて近付いて来ていた。
もう留まっていてはいけなかった。達也は一気に回転を引き上げると機械的にクラッチレバーを解放した。タンクの上に伏せるようにして強い前傾姿勢を取った達也を乗せて後輪は力強く路面を蹴った。
ありがとう ------------ 葉月のその小さな言葉が達也に聞こえた筈はなかった。




