第一三話
31
マリリオンのアタックはすこぶる付きで強烈だった。郁弥は頭のてっぺんまで走り抜けた衝撃に眩暈を覚える。すぐにたてなおさなければ第二弾が襲って来ることは明白だった。郁弥は胃液が込み上げて来る意識なんか放ったまま体を動かす。マリリオンの巨体が目の前を掠めた。そのボディが稲妻に煌めいてさながら鬼火のようだとどこかで思った。
「鬼火ってのは青白いんだっけ、な! 」
叫びながら今度は郁弥がぶつけたがスピードの乗り切らないエミリオのアタックは十分なものではない。それでも無駄ではなかった。その牽制によりポジションをキープすることができたのだ。郁弥は喘ぎ舌打ちしながらも続けて小突き回してやろうとアクセルを器用に開閉する。しかし津々木が対応して速度を調節しながらアベレージを落としていったので殆ど何の効果も上げられなかった。そうしながらも津々木はコーナーではガッチリスロットルを開けるのだ。マシンコントロールに絶対の自信を持った、思い切りの良いライディングだった。
郁弥は自分の目のなさをふがいないと思いながらついて行くのに手を焼いているような有様だった。というのもマリリオンの巨体が郁弥の視界を遮る上に、障害物を巧みに使って走ろうとするからだ。いつしか郁弥はアタックのタイミングをつかむのさえ難しくなってしまう。
業を煮やした郁弥は僅かなストレートでガバッとアクセルを全開にした。超ロングホイールベースにもかかわらず盛り上がるパワーと力強いリアタイヤの踏破力に前輪を持ち上げたエミリオはそのままマリリオンに挑みかかった。郁弥はステップの上で体を起こしてその目にターゲットを捉えようとする。体を動かしていたずらにマシンのバランスが崩れるようなことはない。エミリオは一匹の巨大な獣だった。
津々木は気付いていた。そしてその指が、ブレーキレバーを握って力を込めるのを郁弥は見た。
エミリオはマリリオンの真後ろにいた。
「畜生! … 俺が使ったのと同じ手じゃないか!」激昂しながら郁弥に何ができただろうか。
ガツンッ!!
稲妻の光が郁弥の開いた瞳孔を灼いた。ビルの窓に一斉に映り込んだ光の亀裂がぐるぐると回った。手を放してはダメだ、… 放すな! …… あたかも本能の声が聞こえたかのように郁弥は全身をこわばらせマシンにしがみつこうとする。顎を引け、頭を低く、腰を押しつけて! 、グリップを放すな! 、…… 。
マシンは立て続けに横転し、ボディを固いアスファルトに叩き付けた。跳ね上がったマシンは今度は違う角度から路面に落ちた。地球が相手ではさしものリベラライザーもたまらなかった。シールドは砕け、ボディはひしゃげた。道路を抉りながら擦過し、何転もした挙げ句、エミリオは地響きをあげて止まった。
激突する瞬間、スピードメーターの針が二〇五キロを指していたのを郁弥は覚えている。T
シャツ一枚にジーンズ、ノーヘルで生きているのが郁弥には信じられなかった。ゆっくり頭をもたげて見るとエミリオは一〇メーターあまり先に転がっていた。半分車の残骸の中にめり込んでいる。あくまでウエイトコントロールは強力にマシンをガードしようとしていたのだ。郁弥はビモータを潰したときのことを思い出した。
動こうとすると右側の背中に激しい痛みがあった。郁弥は血を吐くように呷く。地面に腹這った俯せの姿勢のまま喘ぎ、後ろから左手を回して恐る恐る触れてみると、ひたっと指を濡らす液体が流れていた。痺れているようだ。腫物に触るようにしながら脇腹の方へその手を伸ばすと、肋骨が途中で欠損しているようだった。刃物を突っ込まれるような痛みが心臓を貫いた。
郁弥は呼吸を落ち着かせながら両方の手のひらで前後から体を支えるようにして慎重に上体を起こした。首をめぐらして見当をつけてから足をそうっと伸ばし、崩折れて道路に突き刺さったビルの大きな建材に凭れ掛かると、深い息を吐いた。己の体重が傷にのしかかり、ちょっとでも動こうものなら電撃のような痛みが走った。雷の鳴る音が耳の底に響いた。
不思議な気分だった。不安はない。もう死ぬような目に合うのは絶対に御免だと思っていた。どうせそうなるのだったら苦痛を覚えずにあっという間に死ぬのがいいとさえ考えていた。しかし、郁弥は助かったのだった。九死に一生を得て、郁弥には不安よりも喜びの方が大きかったのに違いない。それはじっとしてさえいれば痛みの少ない傷のせいかもしれなかったが、兎に角彼には命を脅かすような不安はなかった。少なくとも今は、だ。
深い呼吸をしても動き以上には胸は痛まなかった。大丈夫だ。俺は死なない。郁弥は無表情に辺りを見渡した。どこかに津々木がいる筈だった。
郁弥の視線を待っていたように低い排気音が地を這った。ライトは無い。空を縦横に駆け巡る稲妻をバックに赤く輝くリベラライザーの上に跨がった長身の人影があった。
郁弥は座り込んだまま黙って彼を見上げた。
死の恐怖は感じなかった。何故だろう 、郁弥は自分で不思議に思う。絶体絶命だというのに。死の淵はそこまで来ていた。
マリリオンのエンジンが身震いした。カタンと音がしてゆっくりマシンは前進する。太いタイヤに弾かれる小石一つの音までが聞き取れるようだ。バイクは徐々にスピードを上げ、真っ直ぐ郁弥の方へやって来る。郁弥はじっとそれを見ていた。
郁弥は覚悟を決めていたのかもしれない。ただ本人にその意志が無かっただけのことだ。命を投げたわけではなかった。そうしてじっとしていることが何故か気持ちよく感じられたからじっとしていたのだった。死ぬわけがないという妙な自負があった。身を護るためには行動しなければならないという最も基本的な事実さえ、意識の外だったのだ。
総重量数百キロのモンスターはゆっくり、しかし確実に、郁弥の命を奪うべく彼に迫っていた。低く唸るエンジンのくぐもった声が空気を揺らすのが伝わって来る。投げ出した両足の間に前輪が割って入っても郁弥は動かなかった。しかしそのいかめしいサイドウオールが郁弥の内股を踏むにあたって漸く郁弥はショック状態から抜け出かかった。タイヤはジリジリと進み、突き出たフロントマスクの先端は郁弥の喉に迫る。鋭い痛みに郁弥は絶叫した。
もはやどうあがいても逃れることはできなかった。郁弥が完全に正気を取り戻さないのはそれを知っている彼自身がどこかでブレーキをかけているからだろうか。虚ろな瞳は苦しげな音を上げながらマリリオンの不気味なヘッドライトの羅列を映す。
最後の一歩だった。マリリオンのV6が轟然と吼えた。
ビシッと弾け飛んだコンクリの破片が郁弥の右頬を抉るようにして掠め、郁弥は正気に返った。
うがああああっ!! …………
一際激しい電光が走った。落雷は駅ビルの最上階の一角を吹き飛ばし、フロアは床が抜け、崩れ落ちた。
郁弥の振り上げた両腕はマリリオンのフロントと彼の額の間で痙攣していた。血が雫となって滴り落ちてゆく。めり込むように押しつけられた頭の後ろでコンクリートの白い壁が軋んだ。
ガキン! … と音を立ててマリリオンが揺れた。ギアがバックに入ったのだ。マシンは遠慮の無い響きを上げて身を引いた。空がまた光った。
津々木はマシンの傍らに降り立ち、その亀裂から鮮血を吹き上げる腕をだらりと下げて動かない郁弥を凝視していた。頭の中で何かが渦巻くようだった。でたらめに反響する思考が頭蓋骨にぶち当たって砕けた。郁弥は親友だった。まさにその瞬間、津々木は迷いに決別してギアを抜いてブレーキをかけたのだったが、どうやらあまりにも遅すぎた判断だったようだ。彼は迷い、苦しんでいたのだ。呑み込む一滴の唾がどす黒い血の塊のような気がした。
「郁弥… 」
無意識に声をかけた親友の屍は何の反応も示さなかった。津々木は頬を伝う熱い液体を拭おうとしなかった。流れるままにしておくことが多騎郁弥への手向けになるような気がした。
津々木はアスファルトを咬む車輪の音を聞いて後ろを振り返った。そこに近付いて来るトレーラーを認めた彼は濡れたままの顔を上げ、毅然として足を踏み出した。高峰の指令車だった。
32
「君が勝つとはね」
高峰はそう言った。瓦礫に遮られて奥まで入ってこれずに少し離れて停車したトレーラーの一〇メートル程手前で正対した津々木は血を吐くように叫んだ。
「葉月を返せ! 」
高峰は苦笑で応えた。かっとした津々木は歯を剥き出しにする。
「俺は約束を守った! 葉月を返せ! 」
「落ちつけよ、津々木君。展開が僕の予想を裏切ったんだ。予定通りというわけにはいかないさ」
「なにっ! 」津々木は髪を逆立てた。怒りと憎悪が彼を総毛立たせた。
「返してやってもいいんだが、君には今暫くそいつに乗っていてもらいたいんだ。なかなか相性がいいようじゃないか。その肉弾戦専用車とは。意外なもんだ。初めて乗ったなんて信じられないよ」
高峰はせせら笑うように鼻を鳴らした。挑発しているのだ。
「葉月はどこにいるんだ! 」
答が得られなかったら飛びかからんばかりの勢いだった。高峰はそれを察して助手席に拘束されて転がっていた身体を片手で引き起こした。細い切り揃えられた髪がぱらぱらと額を滑った。
「葉月! 」
少女は気を失っていた。親友を殺してまで彼が護ろうとした人だった。津々木の表情がふっと和らいだ。
「葉月に何をした! 」
「何もしやしないよ。ただ二人で君のバイクをモニターしていただけさ。多騎君を圧し潰したシーンは迫力だったな」
津々木の顔から血の気が引いた。葉月が何故気を失ったのかが分かったからだ。心の底からこの男を殺してやりたいと思った。意味も無く持ち上げた両腕の先で指が空をかきむしった。無意識に近付こうとする津々木達也に高峰は制止をかけた。
「多騎君のいない今、その代役には君がなるんだ。今の段階で生き残っているマシンはまだ十九台もいる。安心してくれよ、全部が君の敵というわけじゃないさ。君が勝ち残れることを祈るよ。だが死んだら途中でも彼女は返してやろう」
そう言って笑う高峰を色を失った顔で見上げる津々木は、ようやっとこの男がどんな奴なのかを知った。
達也は呆然と立ち尽くしていた。高峰の声はもはや耳に届かなかった。
「早く行け、お前のマシンに戻れ! 」高峰はトレーラーの高い座席の上から繰り返した。
「乗らないと言うならこのまま踏み潰すだけだ。さあ… 」
高峰は目の前で突っ立っている少年に向けてシフトレバーに手を掛けた。車がゴキゴキと音を立ててゆっくり車輪を回し始めた。
そのときだ。
高峰は飛行機のような金属音が風を裂く音を聞いたような気がした。
-------------ッ! ……………
衝撃が襲った。
高峰の乗ったコックピットは瞬時にして数メーターも跳ね上がった。そして肩から落ちるような格好で軋みを巻き上げながら怒涛のごとく崩れ落ちる。ぶっ飛ばされてしたたかに頭をぶつけた高峰は今度はステアリングとドアの間で地面に叩き付けられた。空を引っ繰り返すような雷にも負けない雪崩のような地響きが轟いた。
頭が疼くようだった。ゲエゲエと呷き、高峰は身体を起こしながら、毒蜘蛛の巣を思わせる真っ白い亀裂が一面に走ったフロントガラスの外に、彼の流す血のように赤いリベラライザーを見た。目の前にフロントの車軸がへし折れて突き立っていた。反対側に浮いたドアを開けようとする物音も聞こえた。
津々木は突然横合いをすっ飛んで来た赤い弾丸を認知し得なかった。気が付いたときにはトレーラーは運転席側の前輪をもぎ取られ、もんどりうって自らの吹き上げるオイルと砂のような金属粉の最中へ崩れ落ちて行くところだったのだ。彼の足が宙に浮く程の衝撃が大地を揺るがした。
凄まじいアタックをかけて駆け抜けた深紅のリベラライザーは砂の浮いたような状況になっている路面を適当にスピンすると、テールを大破した四輪にぶつけて止まった。ぶつけられた車の方は吹っ飛んでその背後にあった車諸共に潰れ、激しい金属の軋み音を立てた。郁弥のエミリオが転がっている辺りだった。
無意識だったが津々木は走った。僅かな距離だったが、永劫の彼方のように感じられた。歪んだボディに高く跳ね上げられた車輪に取りすがったときなど、その巨大なホイールの上げるキーキー音が葉月の悲鳴に聞こえたほどだ。
ドアは開かなかった。かまわず窓を蹴り破った。破片がキラキラと舞い散って深い穴の中へ落ちて行った。
「葉月ぃ! 」
達也は叫んだ。喉から声の出る限り叫びたかった。
だが彼はすぐに知ったのだ。間に合わなかったという事実を。
「葉月ぃ! … 畜生っ! 」
津々木は認めた人影に向かって飛び降りた。できることなら首の骨を叩き折ってやりたかった。
「止まれっ! 」
そいつは言った。
「動かないでくれよ」太い腕を回された喉から空気がひゅーひゅーと苦しげな音を立てるのを聞いて津々木は一歩も動けなくなった。葉月は意識を取り戻していた。うっすらと開けた瞼の下から達也の姿を認めたかもしれない。高峰は額を伝う赤い血の一筋の下で白い歯を見せて笑っていた。
「月並みな台詞を吐くんじゃねぇよ! 」
「俺を月並みだと思っているのか… 」高峰の腕に力が入りそうになったのを見て、達也は慌てて口ごもった。
爆音がした。振り向く間もなくトレーラーの反対側を回り込んで来た中貝のリベラライザー、オクサナだった。
中貝は静かにその言葉を継いだ。
「月並みじゃねぇな」
高峰は微笑しながら二人に向かって身体を開いた。トレーラーを背負ってだ。
「久し振りだね、中貝君。何時間ぶりかな。君らの動きをモニターできなかったのはずっと心残りだったんだ、君がカメラを壊したりするから。君はいい乗り手だったのにな」
「ふん… 」中貝は鼻で笑って高峰を見据えた。
「こそこそ逃げ回りやがって、やっと会えて嬉しいぜ」
「人聞きの悪い、テレビを見終るまで待っててくれたっていいだろう? 」
高峰はモニターのことを言っている。それは彼にとって何より優先すべきものだった。
中貝は吐き捨てるように言った。
「ショータイムは終わりさ。てめえの出番もな」
高峰はあいかわらず薄笑いを浮かべている。
「女の子を放しな」中貝は冷たく言い放った。高峰は黙って中貝を見ている。
「多騎を助けられなかったのは残念だった。それというのもあんたのセンサーがやたら大雑把だからだぜ。役に立たねぇよ」
「新宿の街にいることは分かっただろう? …それでいいんだよ。俺のマシンはスナイパーじゃないんだ」
「そうかい…。さあ、見苦しい真似はするな。彼女を放せ」
「見苦しいか… 」
呟きながら高峰は二、三歩後ろに下がった。喉を絞め上げられたまま引き摺られて葉月が苦しそうに喘ぐ。じりっと近付こうとした達也の動きに素早く目を走らせた高峰は顔を達也に向けた。
「見苦しいといえば君が多騎君を殺したシーンはちょっとしたスプラッタだったね。俺のマシンにはああいう使い方もあるもんかと感心したよ」
「止めろ! 」
達也は身を震わせて叫んだ。心臓を抉られるような言葉だった。
「君には才能があるよ」
達也は絶叫した。腕が空をかきむしり、トレーラーの鉄板を血が出るまで叩き付けた。がっくりと膝を折った彼は嗚咽をこらえることができなかった。どうしようもない涙だった。
うなだれる彼の方へ高峰はじりじりと少女の身体を引き摺っていく。中貝にも見ているしかなかった。威嚇するようにアクセルを上下させ、砂につっ伏している少年を立ち上がらそうとするだけだ。津々木達也の心の傷は遂に彼をバーストさせてしまったのだった。今の彼は殆ど気が狂ったも同然だった。
高峰はトレーラーの連結部にまで移動した。津々木から二メーターも離れていない。片手で探った一本のレバーを握って力を込める。モーターの回る音がした。彼はもう一本のレバーを
引いた。
ガキッ--- 。
ロックが外れたようだ。モーターが不気味に唸った。引っかかったらしい。高峰は手にしたレバーを何度も力を入れて揺り動かした。やがて金属が削れるような音を立てて歪んだボックスが軋み、モーターは正常に回り始めた。
中貝の目の前で、トレーラーに連結された巨大なアルミのボックスが開いてゆく。表には清涼飲料水の商標がペイントされていたが、中身がそんなものでないことは明白だった。銀色の巨大な側蓋が開く。その大仕掛けはどこか荘厳でさえあった。下側のレーンをヒンジにして、がっぱりと横腹が跳ね橋を下ろすように下がって来るのだ。箱頂部のエッジから扉を吊るチェーンがガラガラとえげつない音を立てた。
今、クラッチをつなげば、オクサナはこの大きなアルミの板を引き剥し、高峰はどんな間も与えられずに真っ二つになるだろう。中貝はどんなにかその小さなレバーを放したかったか知れなかった。しかし、そうすれば確実に少女の細い身体も血の海に沈むのだ。高峰と同じことはできなかった。
巨大な箱の蓋は音を立ててアスファルトに接地して震えた。立っていた二人の男の視線がその中身に集中した。一つは誇らしげに、そしてもう一つは憎悪と恐怖をもって。
二人の目が合ったとき、中貝は呷いた。そして高峰は口元に笑いを禁じ得なかった。
高峰はもう一度レバーに手を伸ばした。
ボックスの中で分厚い床が、激しく内部破壊を起こす金属の悲鳴を響かせながらスライドを始めた。
息のできないような長い時間だった。中貝の頬を冷たい汗が滴り落ちる。いつしか暗い空を走る稲妻は激しさを増し、その光の明滅さえ気にならないほどになっていた。空気は蒸さなかった。
ボックスの床からせり出した厚さ二〇センチを上回るスペース鋼板が、その上に載った重みを推し量るように自虐的な破壊音を発しながら開いた扉のラックを下りきり、地響きを立てて無限の彼方とも思われた地面に到着した。ひん曲がったアルミ合金の扉材が堅い路面に突き刺さっている。伸び切った四本のチェーンは切れる寸前だった。
達也は顔を上げた。もうどんなに泣いても涙は出なかった。無意識に誰かの姿を探すようだった。
彼女はいた。大きな男に抱きすくめられながら達也の目の前で泣いていた。
彼は立ちたいと思った。しかし何かが彼の身体を上から押さえ付けていて、身動きもままならないのだった。
目の前に金属の壁があった。真っ赤な口を開けて笑い、達也を揶揄するように睨みつけていた。
それは実に大きなリベラライザーだった。全身を灼鉄色の厚い鋼板が被い、巨大なフロントカウルは前輪を完全に下に隠していた。ところどころに設けられたエアインテークが強大な肺活量を物語る。マスクにシャークティースがペイントされたボディは鮫というよりも猛牛に近いと中貝は思った。右手は凍りついたように動かなくなっていた。
雷光が走った。津々木の瞳孔の奥にもそれは照り返ったことだろう。彼はあがいていた。目の前で今、耐え難い陵辱を受けているのは彼が何にもまして護りたかった人なのだった。彼は自分を押さえ付けているのは親友の亡霊だと悟った。
「つぅづきいぃ …… 」
亡霊は叫んだ。苦しみの淵から彼を捕まえようと手を伸ばしているような声だった。達也はビクリと身震いした。
呪縛は一瞬のうちに解けた。
高峰が、葉月が、そして中貝が、信じられないものを見たというような蒼白な面持ちで彼の背後を見ていた。
空が光った。
時間が止まった、… それはさながら魔の刻とでもいうようだった。
「馬鹿 …な … 」
高峰が白くなった唇の端を震わせて呟いた。
葉月がその腕を振り払って叫んだ。
「------------------ッ! 」
達也はがばっと振り返った。望むべきでなかったようなものを願ったのかもしれなかった。
「多騎ぃいいぃっ! 」
瓦礫に凭れかかって、苦しい息の下、確かに二本の足で立ち上がって、多騎郁弥はそこにいた。
郁弥は鉄仮面を見た。中世の騎士のようなそれだ。あれが、翔子の言っていた、動かぬ証拠なのだとぼんやり思った。そしてそこに射すくめられているのが津々木だということはすぐに分かった。郁弥は大声で津々木の名を呼んだ。
肺が割れるような気がした。それ以上声は出なかった。
勝ち誇ったように笑っていた高峰がこちらを見ていた。そして腕の中に女がいた。津々木の想った、彼女だ。
郁弥は津々木を赦したわけではなかった。これから先どんな未来があったとしても、彼を完全に赦すことは難しいだろう。だが郁弥には彼の気持ちを今そのまま受け入れることができたのだった。郁弥は自分が死ぬかもしれないと思っていた。死にきれなかったのが恨めしいくらい苦しかった。もがいても突き放しても這い上がって離れない死の苦しみだった。ただ、それだけは死ぬ前に津々木に伝えたいと思ったのだ。津々木がぎりぎりでかけたブレーキが、郁弥に彼の苦悩を知らしめたのかもしれなかった。それは郁弥自身にも定かではなかったが、そこに認めた葉月の姿をもって、はっきりとした形を彼に示すまでになったのだ。
四人の人間は彼を振り向いた。誰しもが信じられないという顔をしていた。その瞬間に、生に対する激しい欲望が生まれたのかもしれなかった。
そのとき 、郁弥は高峰を殺したいと思ったのだ。
葉月が高峰の手を一瞬逃れた。郁弥はもう声が出せなかったので腕を振り上げて津々木を焚き付けた。津々木はバネ仕掛けのように飛び上がった。何をすべきかは彼にも分かりすぎるほど分かっていた。そしてそうすることは郁弥の意志でもあった。もう金縛りは無かった。
達也の長身が全体重をのせて高峰に体当たりをかませた。少女を捕らえようとバランスを崩していた高峰は彼よりもずっと細い少年のタックルにたたらを踏み、厚い背が砂を噛む。腕は当然空を切った。達也が起き上がって葉月に走ったのが早かった。それを見てとった高峰はリベラライザー ”クレイジーボンバー” に飛びつく。中貝がオクサナを鋭くターンさせる音が、ごく近かった雷鳴に交錯した。オクサナがアタックを敢行するには、達也と葉月を避けてコースを選ばなければならなかったのだ。それが高峰に猶予を与えてしまった。
クレイジーボンバーはフェラーリの咆哮を上げて発進した。
その出際のアクセルターンが二人を掠めたが津々木は落ち着いていた。咄嗟に葉月をかばってこれをやり過ごした津々木に一瞥をくれて高峰のマシンは北へ走ってゆく。中貝のオクサナが凄まじいダッシュでそれを追った。
この世のものとは思えないエキゾーストノートが遠ざかって行く。それを地を這う雷だと誤認したのか、稲妻までが後を追っていくように見えた。




