第12章 半分水晶
第12章 半分水晶
手のひらで、かすかな熱を帯びた『半分水晶』。
あの頃の記憶が、よみがえった。
「……そうだ、川で紗和と水晶を見つけたんだ」
「彼女のは全部が透き通った『水晶』だったが、俺のは半分が白い『半分水晶』だった」
「……思い出してくれましたか」
——俺も全部が透き通った水晶がほしくて、ひとりで川の上流へ行った。
——深い山に迷い込み、泥だらけになって、あの祠を見つけた。
——そして『半分水晶』を祠の扉の隙間にねじ込んで言ったんだ。
——カエシテクダサイ。
そうだ、あの時、俺は家に帰れた。
今、目の前には、紗和の器を持つ、産土神の使いがいる。
本当は水底に沈んでいるはずの、供えた『半分水晶』が、今俺の手にある。
時を隔て。
……願いは、歪な形で叶っていた。
「……俺は何とか家に帰れたが、紗和は戻ってこなかったんだ」
「きっと、彼女はあの後も、俺の分も探してくれてたんだ」
俺は自分の記憶を書き換え、忘れようとしていたんだ。
人の死に無関心になり、自分の命の価値も分からなくなっていたのかもしれない。
「そろそろ、来ます」
彼女の表情が険しくなった。
空気に、湿った泥の匂いが混ざり始めた。
「あいつらは、一体何なんだ」
「……昔に神に捧げられたものです」
「そんな……あれは、生贄にされた牛や馬や鶏だっていうのか!」
「力の弱った龍神様のもとを離れ、産子たちの姿を器にした……わたしと同じものなのです」
「そんなの納得できない!」
「急いで、それを祠に! その水晶を、産土神が欲しています」
泥の匂いが強くなった。
ガードレールの向こう側、湖面に続く崖から、重たい泥を撒き散らし、何かが這い上がってきた。
俺は祠の扉を開けた。
真新しい祠の中は、形ばかりの器が並んでいるだけで、神の気配はなく、空っぽだった。
手を伸ばし石を置こうとして、手が止まった。
「君はどうなるんだ」
俺の問いに、彼女は少しだけ視線を伏せた。
その横顔に、一瞬だけ、かつて川辺で笑っていた10歳の紗和の面影が重なった。
「役目を終え、龍神様のもとに戻るだけです」
「……それでいいのか」
「わたしは、ずっと昔に受け入れています」
「……受け入れたって」
自分が役に立てるなら、静かな絶望の中で運命を受け入れられたのか?
そんな風習は、俺には分からなかった。
祠の中で、石を握りしめた手が開かなかった。
ガードレールが嫌な音を立てて撓った。
周囲の木々の間から、ざわざわとした気配に囲まれた。
その中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
「……湊谷くん、順番だよ」
「……君の番だよ、真一くん」
その時、彼女が叫んだ。
「真一、早く!」
彼女が、紗和の顔で、かつての紗和の声で俺の名を呼んだ。
俺は、握りしめた拳を開き、石を押し込んだ。
祠の奥で小さな音がした。
「……みんな、ごめんよ」
目を閉じ、彼女の顔……紗和の顔を思い浮かべた。
——誰も救えなかった。
無力さを感じ、涙が溢れ出た。
祠の台座に両手をつき、咽び泣く俺の頬に、ふわりと誰かの手が触れた。
固く閉じた瞼は、開くことができなかった。
しかし、その手が誰のものか、……俺はわかっていた。
あの夢の中で俺の頬に触れた、優しい手だった。
*
周囲が明るくなり、鳥の声や木々が風に揺れる音が聞こえた。
目を開けると、そこにはもう誰もいなかった。
ガードレールを軋ませていた泥の指跡も、背後を埋め尽くしていた亡者たちの気配も、朝の光がすべてを白く塗りつぶしていた。
俺の手のひらには、もう石の重みはなかった。
ただ、頬に触れたあの微かな熱だけが、幻のように残っていた。
俺はガードレールに手をつき、湖面を眺めた。
波立った湖面が、一瞬鏡のように凪いだ。
透明な水の中。
細く長い木の柱。
その上に小さな祠。
その祠に続く長い階段。
あの祠が、水の中を漂い、湖のさらに深く暗い水底へと消えていった。
役目を終えたかのように。
—— 終 ——




