第1話『兆し』
……深い、深い水底にいるような感覚がある。
視界が青く濁る闇。ぼんやりとした青緑の光の向こうに、抜けるような青空が見える。
肺が焼けるように熱いのに、呼吸をする必要がないという奇妙な静寂。
『…………』
誰かの、泣き声にも似た泡の音が、耳の奥ではなく、心臓の鼓動と重なって響く。
手を伸ばすと、その手は自分のものとは思えないほど白く、そして淡い燐光を放っていた。
その光は、まるで水の中に溶けていく命の灯火のようで――。
『……そこは、温かい?』
ハッとして目覚めると、剣谷仁の胸は激しく波打ち、額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
「……また、あの夢か。気持ちわりい」
仁は震える右手を見つめた。心臓のあたりが、得体の知れない熱を持っている。それはまるで、自分ではない何かがそこに居座っているようだった。
中庭で、悪夢でじっとりとにじんだ汗を井戸水で一息に洗い流し、ふと空を見上げる。
東から差し込む早朝の日差しが誰もいない道場を照らしている。
「……497……498……499……500っ!」
日課の素振りを終えると、仁は床に落ちた汗を拭い、使い込んだ竹刀と木剣を一振りずつ磨いて壁へ戻した。
道場の引き戸を静かに閉め、茶の間の神棚に手を合わせる。
台所からは焼けた魚と味噌汁のいい匂いが漂っている。
「ちょっと仁! 昨日の夕飯、コンビニのバカ高いお弁当で済ませたでしょ!」
「うわっ」
エプロン姿の女性が、頬を膨らませながら茶の間に駆け込んでくる。
天野深雪。ひとつ年下の彼女は物心ついた頃からここ「剣谷流剣術道場」の隣家に住んでいる。
「夜勤で大変なのはわかるけど、今月のバイト代、道場の維持費で消えかけてるんだからね!先月の電気代、また上がってたよ!?」
仁は深雪の小言を聞き、今日も一日が始まったことを実感する。
「——仁。最近ちゃんと寝てる?」
「なんだよ急に。ちゃんと寝てるよ」
「昨日は?」
「えーと…工事現場が夕方に終わってからファミレスの夜勤だったから…2時間くらいかな?」
「寝てないじゃん!」
はは、と力なく笑う仁に、深雪は唇を噛んだ。
「ねえ、仁。道場、閉めちゃってもいいんだよ?響さんがいなくなってから門下生も減っちゃって…もう半年もゼロなんだよ。このままじゃ仁、壊れちゃうよ」
仁は今にも泣きだしそうな深雪の頭に軽く手を載せ、にっと笑って見せる。
「心配すんな。俺、昔から異常に体が頑丈なのは深雪もよく知ってるだろ?それに、兄さんと冴子さんがいつ帰ってきてもいいようにここは残しておかなきゃな。」
「仁…」
「そんなことより朝飯にしようぜ。今日は鮭か~?」
そう言って仁は何事もなかったように鼻歌交じりに台所へ向かっていく。
「……バカ。食いしん坊」
あまりにいつもと変わらない仁の様子に、深雪は笑うしかなかった。
二人は朝食を終え、テレビを見ながら一息ついていた。
テレビでは、今日も同じ『エネルギー枯渇問題』のニュースが流れている。画面の隅には、首都圏のO.G.E供給率が赤い数字で表示されていた。
「またこれ? 毎日同じニュースばっかり!」
深雪が画面を消す。
「仁、そろそろバイトでしょ」
「へいへい。お前は?」
「教授に頼まれてたアプリのコード送ったら、午後から面接1件だけ。お父さんが迎えに来てくれるから早いし、今晩はカレーにしよっか」
「お、いいなカレー!」
「あ、そういえば仁!如月のおじ様から預かってた、今月の仕送りの書類! ちゃんと確認しといてよね」
「…げ。忘れてた。じいさんも毎月毎月マメだよなあ…」
「失礼なこと言わないの!」
如月博士から届いた書類を深雪に押しつけられ、仁は顔をしかめた。両親を亡くして以来、博士には世話になりっぱなしだ。
「じんー!ぶんぶん!ぶんぶん!」
玄関から出ると、近所の子供たちが木の枝を手に駆け寄ってきた。
「お、草太に結衣か!今日も元気だなー。でも今日はちょっと急いでるんでな、チャンバラはまた今度な!」
「ええ~。けち!けち!」
「いてて…勘弁してくれよ!また今度な!」
子供たちは木の棒で仁をぺちぺちと叩く。
仁は子供たちの髪をくしゃくしゃと撫で、工事現場へ向かい駆け出そうとする。
その時だった。
街の平穏を塗り替えるように、防空警報が響き渡った。
「な、何!?」
突然の異音に、深雪が駆け出してくる。
その瞬間、耳をつんざく爆発音とともに地面が揺れる。
仁は泣き叫ぶ子供たちに覆いかぶさりながら周囲の状況をうかがう。
ふと、日常の風景からはあまりにかけ離れたモノが視界に飛び込んだ。
「なんだ…ありゃあ…」
丘の下に覗く港湾の水平線から現れたのは、鈍色に光る鉄の異形だった。
冷たい装甲を纏った、巨大な狼型の機動兵器。
眼下の街では避難の喧騒の中、怪物の接近に呼応するように、街のO.G.Eインフラが一斉に出力を低下させ、光を失っていく。
同時に、仁の胸の奥が不気味に熱を持った。
(……っ! なんだ、この感覚は。あの夢みたいに胸が…熱い……!)
心臓が、内側から焼けつくように激しく脈打つ。




