第64章
言われるがまま、僕は連れて行かれた。気まぐれにも程があると思った。
「そこの壁に立って」
姉の部屋に、拓の成長記録コーナーという一角があって、僕の身長の線とその横に体重の数字を、壁にマジックで記してある。
「いや太っただけだろ、こんな」
「しっ。いいから、きをつけ。真っ直ぐ立って、あご引いて」
「あー、はいはい」
「三角定規を当てまして、えー百、七十、あ、うん、六センチある……」
「え?ほ、本当に?」
「なんか最近、拓が大きくなった気がしてたんだ。まだ成長期は終わってなかったのよ。練習頑張りすぎて成長が遅れてたんじゃない?」
「俺、終わってなかった……?」
僕が超えることはない、そう信じていた姉の身長。姉の才能。姉のカリスマ。僕は自覚もないまま、自分の心の中に壁をこしらえてしまっていたんだろうか。
その壁が弾け飛んだように、僕の視界は急に明るくなり、体温が上がるのを感じた。
「あーあ。お姉ちゃん、追い越されちゃったな。やっと、だね」
姉は僕を抱きしめ、そろそろ長くなってきた僕の髪をくしゃくしゃ撫でた。
「姉、俺、まだ」
「うん、諦めるには早かったんじゃない?」
僕のこんな少しだけの言葉で、全てわかってくれる。
「ほら、聖沢大の野球部が待ってるよ。プロの世界だって、拓を待ってる」
「……やれるかな」
「やれるよ。拓なら大丈夫」
「はは……俺、絶対合格しなきゃ」
「拓っ」
「え」
抱きつく力が一段と強くなった。今度はどこか真面目な雰囲気だった。
「拓、お姉ちゃんね、膝を怪我した時すごくショックで……推薦もなくなったし、人生終わった、って思ったよ。
でも落ち込んでたら気づいた、これで良かったんだって。
あの時、怪我したのが拓じゃなくて、私で、私で良かったんだって……」
姉は泣きだしてしまった。こんな顔を見るのは、姉が靱帯を断裂したその時以来だった。
僕は姉の背中をさすった。本当に姉を小さく感じるのは、僕が三センチ伸びたせいなのか?腕の中の姉は別人のようで、それなのに、いつもと変わらない甘い匂い。
「だから、もう自分が身代わりになりたいなんて言わないで。お姉ちゃん、今、すっごく幸せだよ?」
「うん……俺、野球続けてみるよ。それと、大学でスポーツ科学の勉強したい。医者じゃないけどさ、それで姉の膝も治して、また一緒に本気で野球したい。まあそんなこと、できるかわからないけど」
「えへへ、拓、ありがと……ううう」
僕の胸の中、姉の声はもう言葉にならなかった。
後で見たら、僕の服が鼻水まみれになってた。




