サクラソウ
最近、私は時間の流れがとても気になる。朝、昼、晩。その時その時で空は色を変える。虚ろな季節はその瞬間瞬間で姿を変えて私達の元へとやって来る。私はきっと探しているのだ。小説を貸してくれた男の子を……。
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まだ朝なのに眩しく照りつける太陽は私に冬の終わりを強く印象付けた。前を向くといつも通いなれた駅舎が私の視線へ入ってくる。結局、あの日私は彼の名前を聞かなかった。本当は聞くべきだったんだと思う。しかし『彼もこの駅を利用する』という現実が私にその行動を躊躇させた。また会えるよね。あの日、私はそう思った。
しかし、現実は不思議なものだ。あの日以来彼とはこの駅で会わなくなった。そうなってからもう一週間になる。またお話したい――。そんな私の淡い想いは徐々に空の彼方に消えていった。
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その日はまるで星が落ちてきそうな夜だった。満天の夜空に輝く星たちは見上げるだけでどこか儚い気持ちになる。私は人気の疎らな駅のプラットフォームをゆっくりと降りて、家へと帰ろうとした時だった。
「あれ……」
駅の駐輪場横に置かれている自動販売機の小さな光の下にどこかで見た人がいる。その人はアスファルトの上に深く座り込んで夜空をみている。間違いない。私に小説を貸してくれたあの男の子だ。
「こんばんは」
意外にも最初に話しかけてきたのは彼の方だった。まさかこんなとこで会うなんて。それ以上に驚いたことは私が住む地域に彼も住んでいるということだ。意外と世界というのは狭いものなんだな。その時、そんな感想をもった。
「サクラソウ」
彼は今にも消えそうなロウソクのような声でそう言った。
「えっ!? サクラソウ?」
「うん、君の足元に咲いてる花。それサクラソウっていうんだ」
「へぇ……。そうなんだ。花詳しいんですね」
足元を見るとたしかに一輪の花が咲いている。この男の子にそう言われなかったらきっと私はこの小さな花の存在なんてきっと気がつかなかっただろう。
「あの――。いろいろと話したいことあるけど……。まずは小説貸してくれてありがとうございます!最後まで読んだら必ず返しますから。だから連絡先教えてもらえますか?」
「ごめん。俺、携帯持ってないから。それにいいよ、本あげるよ。もう俺には必要ないから」
一言そう言うと彼はむくりと立ち上がり歩きだした。
「じゃあ、せめて名前だけでも! 私、水瀬明子といいます!」
その言葉を聞いて彼はピタリと足を止めた。
「俺は東藤光一。また会えたらいいね」
その時の私は彼のどこか寂しそうな背中を見送るしかなかった。
誰もいなくなった駅の駐輪場。
私の足元には寂しそうにしている一輪のサクラソウがただ健気に咲いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少し時代背景を説明しますとこの話の舞台は1996年のある田舎町でして、携帯はあるけどあまり普及していないという設定です。
よろしくお願いします。