第二話 皇帝の傷と、光の祈り
帝城での生活が始まって、ひと月が過ぎた。
アリアに与えられた部屋は、客間から正式な皇帝付き魔法師の部屋へと移っていた。「聖女候補」ではなく、「光魔法師」という肩書きで。王国時代とは違う立場だったが、アリアにはむしろそちらの方が性に合っていた。聖女という言葉は重く、常にそれに見合う振る舞いを求められた。魔法師であれば、ただ力を尽くすだけでいい。
毎日、皇帝の執務室に呼ばれた。アドリアンの右腕に手を当て、三十分ほど光を注ぐ。それだけだった。会話はほとんどない。皇帝は書類を読み続け、アリアは静かに祈り続ける。
最初はその沈黙が重かった。けれど日を重ねるうちに、アリアは気づいてきた。この人は、恐ろしいのではない。ただ孤独なのだと。
廷臣たちは誰も、皇帝の目を真剣に見なかった。目線は常に地面か宙かで、正面を向くことを避けていた。皇帝が笑わないから、誰も笑わない。皇帝が感情を見せないから、誰も感情を見せない。そういう城だった。
ある夜、アリアが書き物をしていると、戸を叩く音がした。
こんな時間に誰だろう、と思いながら扉を開けると、皇帝が立っていた。手に、小さな本を持っている。
「母の日記だ。光魔法の制御について書かれた記録がある。読むか」
アリアは目を見開いた。
「……よろしいのですか」
「お前が読まなければ、誰も読まない」
差し出された本は、革の装丁が古びていたが丁寧に保管されていた。アリアはそっと受け取り、表紙を指先でなぞった。
「……大切にします」
「構わない。お前のものにしろ」
皇帝はそれだけ言って踵を返した。しかし三歩歩いたところで、足を止めた。振り返らずに、静かに言った。
「母も、お前みたいに笑う人だった」
それだけ言って、また歩き出した。遠ざかる足音を聞きながら、アリアは本を胸に抱いた。涙が出そうで、でも温かかった。
ある夜、アリアは廊下で迷子になった。夕食後、散歩のつもりが方向を見失い、気づけば使われていない翼棟に迷い込んでいた。燭台の明かりが少なく、廊下の空気はひんやりしている。
古い肖像画が並ぶ廊下を歩いていると、突然声がした。
「何故ここにいる」
振り返ると、皇帝が立っていた。夜会服ではなく、簡素な黒のシャツ姿で。侍従もつけず、一人だった。いつもの完璧な威厳が少し、剥げて見えた。
「迷子になってしまいました。申し訳ありません」
「……ここは、亡くなった皇后の翼棟だ」
アリアはハッとして、改めて廊下を見渡した。飾られた肖像画の一枚に、淡い金髪の美しい女性が描かれていた。穏やかな微笑みを浮かべた、どこか儚げな人。目元に皇帝と似た形を見て、アリアは確信した。
「あの方が……」
「私の母だ。六年前に亡くなった」
皇帝はそう言って、母の肖像画を見上げた。その横顔に、いつもの冷たさとは違う何かが滲んだ。人が死者を偲ぶとき特有の、静かな悲しみ。
アリアはしばらく待った。急かすことなく、ただそこに立っていた。
「魔法の力を、使い果たして死んだ。人々を癒すために」
アリアは息を飲んだ。
「皇后陛下も……光の魔法使いだったのですか」
「そうだ。お前とよく似た力を持っていた」
沈黙が落ちた。アリアは何も言えなかった。ただ静かに、母の肖像画を見上げ続けた。絵の中の皇后は微笑んでいる。優しい笑みだ。その目元が、アドリアンによく似ていた。
「……お前は怖くないのか。私が」
唐突な問いだった。アリアは少し考えてから、正直に答えた。
「最初は怖かったです。でも今は……孤独な方だと思っています」
皇帝の目が細くなった。怒りかと思ったが、違った。
「生意気なことを言う」
「申し訳ありません」
「……謝るな。お前が謝ると、本当にそう思われているみたいで鬱陶しい」
その言葉の矛盾に、アリアは思わずくすりと笑った。皇帝が怪訝な顔をした。
「何がおかしい」
「いえ。謝るなと言いながら謝られるのが嫌とは、なかなか難しいですね、と思いまして」
「……」
アドリアンは数秒黙った後、視線を逸らした。「戻れ」とだけ言って、先に歩き始めた。
翌日から、執務室での三十分に、少し変化が生まれた。書類を読みながら、皇帝がぽつりと話すようになった。
「今日、南方の伯爵が陳情に来た。例年より農作物の収穫が減ったと言う」
「それは大変ですね。光魔法には土地を浄化する効果もあります。もしよろしければ、南方へ赴くことも……」
「その必要はない。お前はここにいろ」
断定的な言葉だったが、アリアは不快に感じなかった。むしろ不思議と、「ここにいて欲しい」という気持ちが滲み出ているように聞こえた。
別の日には、こんなことも。
「北の国境で小競り合いがあった。死者は出ていない」
「それはよかったです」
「なぜお前がほっとしている」
「戦争は嫌いなので。陛下が戦に出られるのも心配ですし」
一瞬の沈黙。
「……私を心配するのか」
「当然ではないですか。毎日お会いしている方ですから」
皇帝はまた黙った。でも今度は、不快な沈黙ではなかった。どちらかというと、戸惑っているような、そんな間だった。
また別の日。アリアが光を注ぎながら、ぼんやりと窓の外を見ていると、皇帝が口を開いた。
「何を見ている」
「雲が、龍の形に見えて」
「……くだらない」
「そうですか?では陛下には何に見えますか」
長い沈黙があった。アリアはもう諦めようと思ったころ、ぼそりと声がした。
「猫だ」
アリアは笑いをこらえた。必死にこらえた。
「陛下も見るんですね、雲の形」
「……昔の話だ」
「それでも今日も見えたんですよね?」
返事はなかった。でも皇帝の目が、ほんの一瞬、窓の外に向いた気がした。そしてまたすぐ書類に戻った。アリアはこっそりと微笑んだ。
こういう瞬間が、アリアには嬉しかった。「鉄血の皇帝」の鎧の隙間から、少しずつ、本当の顔が見え始める。その積み重ねが、アリアにとって何よりも大切なものになっていた。
二ヶ月目に入ったある日、驚くことが起きた。
アドリアンの右腕の傷跡が、ほとんど見えなくなっていた。滑らかな肌に戻りつつある。三年間、いかなる魔法使いも匙を投げた傷が。
「……陛下、傷が」
「ああ」
「完治しています!」
「そうだな」
皇帝は淡々と言ったが、かすかに、本当にかすかに、その口元が緩んだ気がした。アリアはそれが嬉しくて、思わず両手を握りしめた。
「よかった……!本当によかった……!」
「なんだ、なぜお前が泣く」
「だって、三年間ずっと痛かったんでしょう?それが……」
アリアは涙をこらえながら見上げた。皇帝の銀灰色の目が、間近にあった。立ち上がって傷を確かめようとしたアリアが、気づけば皇帝の目と同じ高さに近づいていた。
しばらくの間、二人は向かい合ったまま動かなかった。距離は、腕一本分もなかった。皇帝の呼吸が聞こえた。アリアの心臓が速くなった。
やがて皇帝は視線を逸らし、低く言った。
「……今夜、夕食を共にしろ」
それが、二人の間に変化が生まれた瞬間だった。
夕食の席で、皇帝はアリアにラインハルト王国のことを尋ねた。追放される前の生活。聖女候補としての修行。エドワードとの婚約。
アリアは包み隠さず話した。怒りも悔しさも、できるだけ排して、ただ事実として。
「レナの力は本物です。傷を瞬時に癒す、素晴らしい力です。私とは全く違う」
「違うが、劣るわけではない」
皇帝の言葉に、アリアは目を見開いた。
「急速に癒す力と、じっくりと回復させる力。どちらも必要だ。お前たちの王太子は愚かだな。片方があれば十分だと思っている」
「……」
「戦場に出れば分かる。すぐに治せる力は即座の対応に使える。だが体が根本から回復するには時間がかかる。お前の力は後者を担う。それがなければ、兵士たちは永遠に本調子に戻れない」
それは、アリアが聞きたかった言葉だった。誰かに「お前は劣っていない」と言って欲しかった。けれど、よりにもよってそれを言ったのが、「鉄血の皇帝」だとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
「礼は不要だ。事実を述べただけだ」
そっぽを向いてそう言う皇帝の横顔を、アリアはこっそりと見つめた。頬に、わずかに赤みが差している気がした。気のせいだろうか。
この人は、怖い人なんかじゃない。ただ、不器用なだけなのだ。そして多分、ひどく優しい。その優しさを、うまく表現する言葉を知らないだけで。
その夜、アリアは久しぶりに、心から眠れた。
光の夢を見た。広い野原に溢れる、暖かい光の夢を。




