【Night 20】神授人(後編?)
「え……?」
ヒカリは戸惑うほかなかった。「神授人」以前に、状況を未だによく理解できていなかったのだ。ショッピングモールに着いたところでナギの前で寝て、起きたらテリカにおぶられていた。しかもそのテリカはまるで別人になっていて、さらに、そこから自分そっくりの影に攫われた。
目の前で次々と変わっていく事象を処理できていなかったのだ。そんな中で、「ぎふてっど」がどうのこうの言われても、理解できるわけがなかった。
「ナギさんは……ヨウタさんは……テリカさんは……どうなったの?」
ヒカリは影に訊いた。質問というより、懇願に似た形だった。
だが、影はそれに答えようとしなかった。
『ふふふ。さすが、神授人だね。自分のことより、まわりのことをかんがえる。そんなかんがえ、ふつうの5さいにはできないよ』
影は満足そうにしていた。自分にそっくりであるにもかかわらず、まるで小学校高学年のお姉さんと話しているようだった。
『……ところで』
すると、そんな大人びたヒカリの影は、ヒカリの顎に手を当て、ゆっくりと持ち上げ、目を合わせた。ヒカリの体が一瞬震えた。
『……漢字、読める?』
「え……?」
影は優しい声で訊いてきた。しかし、ヒカリは何も答えられなかった。影の後ろから何か恐ろしいものが覗いているような───例えば、猛獣や恐竜といった───そんな感じがして、蛇に睨まれた蛙のようになっていたのだ。ヒカリは、質問の内容の代わりに、どうやったら逃げられるのかを、その小さい頭で必死に考えていた。
『……もう一ど、きくね』
『『漢字は読める?』』
すると不思議なことに、ヒカリから恐怖心が完全に除去された。脳内に直接響くような声が、頭痛を一瞬で取り除いたような。ヒカリはそう感じていた。同時に、少し思考が鈍くなった。
「……よめない……ならってないもん」
『……そう? 1つだけ、よめるんじゃない?』
「……わからない」
すると、影はヒカリから手を離した。人ではないのに、本物の人のような動きだった。
『……そう。ざんねんだなぁ。はなしがはやくすすむとおもったのに』
影はかなり大袈裟に言った。
『神授人というのは、かんたんにいうと、すごくあたまがいい人のこと。げんいんはわからないけど、うまれつき、ね』
「ヒカリ、あたまよくない」
『ヒカリちゃん、自かくしてないみたいだね。いっしょにいたあの髪が長い男の子から、なにか言われてない?』
「ヨウタさん……?」
ヒカリは必死に記憶を辿った。ゲッタと名乗る影との激闘、ヨウタに連れ去られる時……。
───君、頭良いね。
───え?
───だって、僕に手を引かれてるときの君は、いろんなことを考えているようだった。小学生にもならないように見えるけど、大人のように、世の中の苦痛、葛藤、嫌悪を思い浮かべているようだった。
「……あ」
『おもいだしたみたいだね。そう、それこそが、神授人のとくちょう。ほかの人よりあたまがよくて、そしてなにより』
すると、影は目を閉じた。
『大人のようなしこうかいろをもつ』
その文だけ、ヒカリの目の奥、頭の中でピリピリと響いた。それをきっかけに、連鎖的に頭の中の記憶が化学反応を起こしていく。懐中電灯、仲間、そして……両親。
『そして、その神授人があらわれたのは……』
「おとーさん! おかーさん!」
『?』
すると、ヒカリは急に自我を取り戻した。これは影にとっても予想外だった。
「うわああああ!」
『ちょっ、ヒカリちゃん!?』
ヒカリはあたりをぐるぐる見渡したかと思うと、影とは反対方向に走り出してしまった。
『ヒカリちゃ……』
影は追いかけようとした。空を飛ぶ準備もできていた。
しかし、やめた。そのかわり、不適な笑みが浮かんでいた。
『……ふふふ。自分をとりもどされちゃった。言おうとおもってたけど、やっぱり自分でりかいした方がいいよね』
影は、ヒカリが走っていった方向とは反対の方に向いた。
『あん心して、ヒカリちゃん。あなたはもうすぐ、気づく。神授人、そしてこの世かいのしんそうに』
ヒカリは走った。何かに動かされていた。それは使命感にも似ていたし、義務感にも近かった。ただ何か大事なものが、ヒカリの心を強く締め付けていた。
(おとーさん、おかーさん……)
もはやヒカリにはそのことしか浮かばなかった。ナギやテリカ、ヨウタのことは脳内から抜け、分散していた。
すると。
「え……?」
そこには、見覚えのある植え込みとすべり台が、闇夜の中に佇んでいた。
懐中電灯で照らしてみる。その結果、古びて色がかなり抜けているベンチと、隅の方にひっそりと、しかし凛とした存在感を持つ木を見つけた。
ヒカリの家の近所の、あの公園だった。
「……!」
ヒカリは公園の乾いた敷地に足を踏み入れた。カサリ、と何かを踏んだ音がした。
間違いなかった。綺麗な石を中に落として泣いた植え込み。その後に泣き疲れて、母親に座らされたベンチ。そして2日前───ずっと前のように感じるが───落ち葉を拾ったあの木。
───すごいね~、ヒカリ……どこで見つけたの?
もう一度、会いたいから。
もう一度、喜んでもらいたいから。
ヒカリは木の根元でしゃがむと、手探りで落ち葉を探した。そして、手の中に軽い感触を確かめると、立ち上がり、公園を出た。
あと少しなんだ。
角を曲がり、住宅の間を走り抜ける。
あと少しなんだ。
コンクリート道の凹凸につまずき、転ぶ。
でも立ち上がる。ヒカリは、何度でも立ち上がる。
あと少しなんだ。
あと少しで、家に帰れるんだ。
頼む。変わるな。
変わるな。
無我夢中で、走り、走り、止まる。
目の前に、黄色い光を放つ、住処があった。
2日間にわたる帰宅が、ようやく終わった。
「ただいま!!」
ヒカリは勢いよくドアを開けた。鍵はかかっていなかった。きっと両親がヒカリの帰りを待っていたに違いない。
そのまま、リビングに走る。廊下と足が触れ合うドタドタとした音が響く。
リビングにつながるドアの前に立つ。
このドアを開けたら、また日常が戻る……。
ヒカリは、そう確信していた。
大きく息を吸い、吐く。
何よりも、両親に抱きつきたかった。そうして、重圧から解放されたかった。
「ぎふてっど」も、もう関係ない。
そして、ついにヒカリはドアを開けた。光が眩しい。
……しかし。
「え……?」
ヒカリが予想していた両親の歓喜の声は、響くことはなかった。
ただ。
「なんで、だれもいないの……?」
まるで泥棒に入られたかのように、部屋が散乱しているだけだった。