第35話 148
部室の外では、しとしとと雨が降っていた。
制服が夏服の白いセーラー服に変わって、三週間が過ぎた。すっかり慣れた新しい制服を着て、QK部の一年生たちはカードを出し合っていた。
珍しく部室に顔を出した津々実が、素数判定員を務めている。その横で、伊緒菜が札譜を書いていた。
「443」
「2Q9」
「A7^3=49K。私の勝ち」
「ええっ!?」
慧の出したカードに、みぞれが目を丸くする。津々実がスマホで判定した。
「うわ、すごい、合ってる。覚えてたの?」
「ううん、計算したの。A37が素数だから、もし49Kが素数なら手札を使いきれるな、と思って49Kの素数判定をしてたら」
「運が良かったわね」札譜を書き終えた伊緒菜が、赤フレームの眼鏡を上げた。「明後日も、その調子で行きましょう」
「はい」
慧が固い声で答えた。みぞれも緊張していた。
中間試験が終わると、あっという間に一か月が過ぎてしまった。みぞれ達は来る日も来る日もQKの練習に明け暮れ、素数を覚え、計算力を上げていた。
そして、ついにその日が迫ってきていた。
全国高校QK大会、その地区予選の日が。
地区予選は、全国を八地区に分けて行われる。千葉県にある萌葱高校は、南関東地区に属していた。
この地区には、東京、神奈川、千葉、埼玉の一都三県が属する。ここから全国へ行けるのは、たったの五人だ。決して広い門ではない。
今年の地区予選は、日曜日に開催される。今日は金曜日なので、明日は一日休み、明後日への英気を養うつもりでいた。
伊緒菜は時計を見て、「遅いわね」とつぶやいた。
「何がですか?」
みぞれが上目遣いで聞く。
「先生」
「先生?」
いったい誰が――と聞きかけたとき、部室の扉がノックされた。
「入るぞー」
返事を待たずに扉が開かれる。白髪を蓄えた、しかし女子大生のように若々しい老人が入ってきた。国語を教えている石破教諭だった。
「いしちゃん? なんでここに?」
津々実が振り返った。
「なんでって、顧問だからに決まってるだろう」
「顧問!?」
一年生たちの声がハモった。三人が詰め寄るように伊緒菜に聞く。
「うち、顧問なんていたんですか!?」
「そりゃいるわよ、部活なんだし」
「でも、今まで見たことありませんでしたよ」
「書道部と兼任してるから、いつもはあっちに付きっ切りなのよ」
その様子を、石破教諭はやれやれと呆れながら見ていた。
「宝崎、言ってなかったのか?」
「……」伊緒菜は視線を上に向けた後、「そういえば言ってなかったかもしれません。すみません」
石破教諭は改まって、
「授業で既に知ってる子もいるね。QK部の顧問の石破光子だ。いつもは書道部を……と言ってもあっちもほとんど放ったらかしにしているんだが……指導している」
それから慧の顔を見た。
「君は授業で教えたことはないな。えーと、1年3組の剣持慧かな」
「はい」慧は頷いてから、「あれ。どうしてご存知なんですか?」
「部員名簿は見ているし……それに君は有名人だからね」
慧はキョトンとした。石破教諭は笑顔で、
「数学が得意らしいじゃないか。数学科の教員の間で話題になってるぞ」
「そ、そうなんですか」
慧は嬉しいやら恥ずかしいやらで、うつむいた。伊緒菜がにやりと笑いながら肩を叩く。
「良かったじゃない」
「べ、別に」
とそっぽを向いた。
「宝崎も教えてもらったらどうだ? 君は君で有名人なんだからな」
伊緒菜もバツが悪そうにそっぽを向いた。
「先日の中間テストのときは教えて頂きました」
と、抑揚のない声で答えた。
「あの、それで」津々実が小さく手を挙げる。「どうして突然、いしちゃんが来たんですか?」
「生徒が学外で部活動をするときは、顧問が引率する決まりなんだ。君たち、明後日大会なんだろう? 私も同行するから、予定を確認しようと思ってね」
「……ん?」
津々実は伊緒菜を見た。学外での部活動……ということは、合宿はともかく、柳高校での練習試合には石破教諭を連れて行かねばならなかったのでは?
伊緒菜は小刻みに首を振った。「言うな」とアイコンタクトを送る。
「なんだ、どうした」と石破教諭が訝しむ。
「いえ、なんでもないです。で、スケジュールですか。伊緒菜先輩、そういえばどこ集合とか、まだ決めてなかったですね」
「ええ、そうね。とっとと決めましょう」
伊緒菜は机の上のスマホを取って、カレンダーを開いた。
「去年と同じで、駅に集合して電車で行きましょう。今年の会場は……」
会場は都内の文化会館だった。音楽ホールや体育ホールがある大きな施設である。大会は、体育ホールにテーブルを並べて開催される。
萌葱高校の最寄り駅からは、一時間半ほどで着く。大会は9時からなので、余裕を見て7時に集合することにした。
「丸一日……なんですよね?」
とみぞれが確認する。
「そうよ。午前は団体戦、午後は個人戦を行うわ。都内だし、近くにコンビニくらいはあると思うけど……念のためお弁当を用意してね」
「あ、ならあたしが作りましょうか?」
津々実が小さく手を挙げて提案した。
「そう? ならお願いしようかしら」
「倉藤、料理できるのか?」
意外そうに石破教諭が尋ねる。
「よく言われます」と津々実は笑った。「これでも家庭科部と兼部してるんですよ。自分のお弁当も、時々作ってます」
へえ、と石破教諭は笑顔になった。
「交通費は部費から出るから、あとで石破先生にたかるように」
「言い方」
石破教諭が諫めると、伊緒菜はいたずらっぽく笑った。
「服は制服の方がいいですか?」
津々実がセーラー服の襟をつまんで言った。
「そうね、そうしましょう」
あとは……と呟いてから、思い出したように手を打った。
「そうだ、これも言っとかないと。当日じゃ心の準備が間に合わないだろうし」
「なんの話ですか?」
「団体戦の順番よ」
伊緒菜は、改めて団体戦のルールを確認した。
QK大会での団体戦は、星取合戦形式で行われる。1チームの人数は3人。試合前に先鋒、中堅、大将を決め、それぞれが相手チームの先鋒、中堅、大将と戦う。先に二勝したチームの勝利だ。各対戦は一局ずつしか行わないため、チーム単位で三本先取を行うようなものだ。
このルールだと、大将戦が行われないこともある。先鋒、中堅に強いメンバーを配置して一気に勝利をもぎ取ってもよい。しかしQKの性質上、一局しか行わないと運で負けることもある。強い選手が必ず勝てるとも限らないのだ。
「試合ごとに相手チームの出方を予想して順番を決めてもいいんだけど、今回は初めての大会だし、事前に決めておいた方が良い気がするわ」
「どうやって決めるんですか?」
「もう決めてあるわ」
そう言って伊緒菜は、慧とみぞれを見た。
「先鋒は慧、中堅はみぞれ。大将が私よ」
「私が一番手ですか……」慧は急に緊張した口調になった。「理由を聞いてもいいですか?」
不服なのかなと伊緒菜は思ったが、表情を見る限りそうではなさそうだ。自分がどう評価されているのかが、純粋に気になるのだろう。
「基本的に、大将には一番強い選手を配置するわ。大将戦は、勝敗を決する重要な試合だからね。で、中堅と先鋒だけど、考え方は色々あるわ」
先鋒に強い選手を配置し、まず一勝をもぎ取ってチームの士気を上げる、という考え方がひとつ。この場合、たとえ負けても、勝てそうだという雰囲気を作れるムードメーカーが望ましい。
「でも、みぞれも慧も、そういうタイプじゃなさそうだから……ここはオーソドックスに、中堅に勝負強い選手を配置する作戦にしたわ」
「わたし、勝負強いんですか?」
みぞれが小首を傾げる。伊緒菜は力強く頷いた。
「これまでの札譜を見る限り、あなたは追い詰められたときの勘や判断力が優れているように思えるわ」
「そういえば」
と、津々実がこれまでの試合を思い出して言った。みぞれは、妙なところで勝負強いことがあった。
「中堅は、先鋒が勝っても負けてもプレッシャーがかかる。先鋒が勝った場合は、自分が勝てばチームが勝利する。先鋒が負けた場合は、自分が勝たなきゃチームが負ける。この状況で普段通り戦えるのは、たぶんみぞれの方よ」
それから慧を見て、まじめな顔で続けた。
「この場合、先鋒には多少のブレがあっても、勢いよく勝てる選手が望ましい。あなたはよく、合成数出しで意表を突いた勝ち方をするでしょ? もしそれが決まれば、相手チームへのプレッシャーになるわ」
「……わかりました」
慧は頷き、気合を入れた。
「二人とも、そこまで気負う必要はないわ。普段通りやればたぶん勝てるし、仮にどちらかが負けても、私が勝てるから」
自信満々に言い切る。二人は少しだけ、緊張が解けた気がした。
津々実が小さく手を挙げる。
「そういえば、個人戦は上位五人が全国に行けるって話ですけど、団体戦は?」
「1チームだけよ。地区予選で優勝したチームだけが、全国へ行けるわ」
狭き門だ。せっかく解けた緊張が、また頭をもたげる。
「一回でも負けたら、ダメなんですね」
伊緒菜は腕を組み、
「そもそも優勝を目指すなら、一敗も許されないわよ。敗者復活戦はないんだから」
その通りだ。自分たちはこれから優勝を……全国で一番強いプレイヤーになることを、目指しているのだ。敗北は許されない。
「……あ、でも、個人戦では事実上の敗者復活戦があるわ。地区予選だけだけど」
「そうなんですか?」
「事実上って、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。地区予選はトーナメント方式で行われるんだけど、トーナメントだと五位が決められないでしょ?」
トーナメント戦で決められるのは、一位と二位、ベスト4、ベスト8などだ。三位や五位は決まらない。
「それで、準々決勝で敗退した選手四人で、五位決定戦をやるのよ。これもトーナメント形式で、優勝した一人だけが全国へ行けるってわけ。場合によっては、こっちの方が盛り上がるらしいわ」
地区ベスト4は全員全国へ行けるので、準決勝以降は言わば消化試合だ。五位決定戦の決勝の方が、全国行きを決する重要な試合だった。
それからいくつか細かい事項を確認して、今日は解散となった。
学校を出て、駅までの坂道を四人で下りる。雨模様の空を見上げ、明後日は晴れるといいな、とみぞれは思った。
駅で伊緒菜、慧と別れ、津々実と二人で電車に乗る。車内は混んでいた。冷房は回っているが、湿度が高い。
「明後日のお弁当、何が良い?」と津々実。「お菓子なら糖分多めのチョコとかだけど、ご飯となると何が良いかな」
「ううん……。長い時間、ずっと頭使って、ずっと緊張するみたいだから……」
「腹持ちする物の方が良さそうだね。お肉かな。でもこの時期にお肉はまずいかな」
二人で献立を相談しているうちに、駅に着いた。
雨はまだ降っていた。傘を差して、屋根の下から出る。
「ねえ、みぞれ」
振り返ると、津々実はにこりと微笑んで、折り畳み傘をこちらに向けた。
「古井丸みぞれ選手、大会に向けての意気込みをどうぞ」
突然のことに、みぞれはちょっと面食らった。
「つ、つーちゃん、まだ予選だよ?」
「でも、ここから始まるんだからさ」
津々実の笑顔は爽やかだ。みぞれは恥ずかしそうに顔を赤らめる。
それから、かしこまって答えた。
「わ、わたしは……大好きな人に追いつきたくて、追い抜きたくて、それでQKを始めました。何かひとつで良いから、一番になれれば、その人を追い越せるかなって。だから……」
みぞれは津々実の目を見つめた。
「絶対に、優勝します」
津々実は照れ臭そうに頬をかいた。
「大好きって、みぞれ……」
みぞれはハッとして、さらに顔を赤くした。
「やっ、そのっ、えっと、そ、そういう意味じゃなくってっ、あのっ!」
「そっかー、みぞれあたし大好きかー」
「だ、だからー!」
みぞれはぽかぽかと津々実を叩いた。




