第97話 1216
みぞれは、第一希望を理系にして提出した。第二は文理で、第三は情報だ。
記入欄は第三まであるが、よほど成績が悪くない限り第一希望に通ると聞いている。みぞれの理系進級は、もう決まったようなものだ。
「でも理系って、何するのかな?」
「何って、数学とか理科とかでしょ」
三日間の期末試験が終わり、あとは冬休みを待つだけとなった土曜日。みぞれは津々実と一緒に、伊緒菜の家へ向かっていた。その道中の電車の中で、みぞれはぽつりとそう言った。
「なんか勢いで書いちゃったけど、だんだん不安になってきた……わたしにできるかな」
「ここまできたら、もう自分を信じていくしかないでしょ。伊緒菜先輩もそう言ってたんでしょ?」
津々実の言う通りだ。みぞれが歩く道はもう決まった。みぞれは、自分が正しいと思うことをする。それは数学だ。
電車が駅に着くと、改札の向こうで伊緒菜が待っていた。その周りに、既に三人もいる。慧と、柳高校QK部の一年生、遠海美沙と遠海美衣だ。
「あ、来た来た。おーい!」
遠海姉妹がみぞれを目ざとく見つけ、大きく手を振った。鏡写しのようにそっくりな双子が、鏡のように左右逆の手を振っていた。
「久しぶりだね、遠海姉妹。元気だった?」
津々実は子供に話しかけるような口振りだった。この双子の仕草は、どこか子供っぽさがあった。
「元気だよ、史先輩に呆れられるくらい」
「史先輩は全然元気じゃないけどね」
と言って双子は笑った。
「今日は吉井さんは……」
「あの人は受験勉強があるから」と伊緒菜。「最初の試験まであと一ヶ月切ってるから、遊んでる暇はないでしょうね」
つまり、悪戯好きの双子を止める人がいない。みぞれは早速何かされやしないかと身構えた……が、そういえば遠海姉妹は常識的な挨拶しかしていない。
「今日は私が保護者だから大丈夫よ、みぞれ」
と伊緒菜は双子の肩を叩いた。この双子の人間観察力は高い。伊緒菜には逆らわない方がいいと理解しているようだった。
今日は「お疲れ様会」だった。期末試験が終わり、長い二学期もあとは試験返却と終業式を待つだけとなった。そこで伊緒菜が提案したのである。パーティをやろう、と。
そしてこれは、QK部の恒例行事でもあるらしかった。毎年この日に、柳高校のメンバーも集め、朝まで大いに遊ぶという。
伊緒菜の部屋に着くと、六人はバッグから思い思いにお菓子を取り出し、ローテーブルに並べた。さらに、伊緒菜の母親が持ってきてくれたジュースを、人数分コップに注ぐ。
その横で、伊緒菜はノートパソコンでビデオ通話を始めた。
「こんにちは、吉井さん」
『やあ久しぶり。宝崎さん』
通話相手は吉井史だった。自室で勉強中のようだ。
「遊ぶ暇なかったんじゃ」と津々実。
『ないよ。全然ないよ。でも気分転換も必要だからね』
指でペンを回しながら、史はそう言い訳した。
「飲み物は行き届いたわね」と伊緒菜が確認する。「それじゃ、二校合同お疲れ様会、始めましょう。カンパーイ!」
「「かんぱ〜い!」」
みぞれ達は高々とコップを打ち鳴らした。
「吉井さんは、どこの大学受けるんですか?」
『かなり悩んだんだけどね』
史は大学名をいくつか挙げた。
「そのラインナップは、語学系ですか?」
文系大学を中心に調べていた伊緒菜は、すぐにピンときた。
『うん。前までは経済系とか、就職に有利そうな学部にしようと思ってたけど、夏以降いろいろと考えたんだ。それで私、語学が好きだなと思って、その方面に行くことにした』
「結果的に、就職にも有利そうですね」
『かもね。ただ、大学以降のことはまだ何も考えてないよ』
「前と変わったようで変わってないよね」と美沙が笑う。
「先延ばしする癖はそのまんま」と美衣も笑う。
『いや、でもさ、人の考えなんて変わるんだから、あんまり先のことまで考えてても意味なくない?』
「その場その場での最適解を選ぶという点では、私も同じですね」
と伊緒菜は同意を示した。
その意味では、みぞれもそうだ。今回の進路のことは、先のことまで考えての決定ではなかった。やはり少し、不安になる。
それを見透かしたかのように、伊緒菜が言った。
「ところで、そろそろ聞こうかしら。みぞれは進路希望、どうしたの?」
伊緒菜や慧には、まだ話していなかった。話す機会がなかったのだ。
「進路希望?」と疑問を挟む遠海姉妹に、津々実が簡単に説明した。
「うちの学校は、二年に上がるときに文理選択するんだよ」
「へー、早いね」
「というかうち、そういうのないよね」
「そうなの?」
「うん。選択科目があるだけ」
「それも決めるのは三学期の終わりだし」
「で、古井丸さんはどっちを選んだの?」
双子までみぞれに注目し始めてしまった。史もしっかり聞いているだろう。
みんな驚くだろうか。みぞれはどきどきしながら打ち明けた。
「理系にしました」
へぇ、と伊緒菜は少し驚いていた。そして慧は、目を輝かせた。
「じゃあ、来年は一緒のクラスかもね」
「うん。よろしくね、慧ちゃん」
微笑む二人を見ながら、伊緒菜が言った。
「適当に決めた感じじゃないわね。どうして理系にしたの?」
「……どうやって決めたらいいかもわからなくて、すごく悩んだんですが」とみぞれは前置きした。「つーちゃんの苦手なことをやってみようと思ったんです。それで、つーちゃんはひとつの問題をずっと考えるのが苦手って言ったから、それをやってみたんです。『どうして六つ子素数はないんだろう?』って」
「六つ子素数?」
「一枚目に、A、3、7、9、J、Kのどれをつけても素数になるような数です。四つ子と五つ子があるんだから、六つ子もあっていいのに、と思ったんです」
伊緒菜は腕を組んだ。
「ないことは知ってるけど、理由は知らないわね。慧は知ってる?」
「知ってますし、証明できます」
「やっぱり慧ちゃんにはわかるんだね……わたしはこうかなって思ったの。四つ子素数の親は、1、3、7、9のどれをつけても3の倍数にならない数。だから、どれを足しても、各桁の和が3の倍数になっちゃいけない。そういう数は3の倍数に1を足した数しかないけど、ここにJを足すと各桁の和が3の倍数になってしまう。だから、六つ子素数は存在しない」
頭の中で何度も繰り返した論理だったため、みぞれは暗唱するように喋った。
「あってる」
慧はとても喜んでいた。数学の話ができる相手が身近に現れたからだ。
「これを見つけたとき、思ったの。これって、絶対に正しいことだなって。わたしはずっと、どうしたら自分を『正しい』と言えるか悩んでたんだけど……数学には、そのヒントがある気がして。だから理系に行って、数学を学ぼうと思ったの」
みぞれはそう締めくくった。
「良いと思う」慧は興奮気味だった。「でも数学における『正しさ』も、実は何百年も議論されていることなの」
「え、そうなの? だって、今の証明は正しいでしょ?」
「うん。だけどね、数学のもっと深いところに行くとね、何をもって正しいと呼ぶかが議論の的になっていくの」
津々実が小さく手を上げた。
「それって、数学の正しさも曖昧ってこと?」
「ううん、そうじゃない。いえ、そうとも言えるかもしれないけど、どちらかというと『ここからは正しい』と宣言するための線引きを行なっているのよ。そうやって数学の『正しさ』をより強いものにしているの。それって、絶対に楽しいわ」
慧は早口でみぞれにまくし立てた。そういえば数学の話題になるとよく喋る人だったな、とみぞれは思い出していた。
「なんにせよ、みぞれの進路が決まってよかったわ」
伊緒菜はお菓子を食べながら安心しきった表情で言った。
「伊緒菜先輩は、進路どうすることにしたんですか?」
「まだ未定」
と言いつつも、伊緒菜は楽観的に続けた。
「この間は歴史とか経済とかに興味があると言ったけど——まぁそれも嘘じゃないけど、私が一番やりたいのは、やっぱりゲームなのよね」
「ゲーム」
伊緒菜の言う「ゲーム」とは、テレビゲームもアナログゲームも、スポーツすら含めた、あらゆるゲームのことだろう。
「そう、ゲーム。特に、相手プレイヤーと勝敗をつける対戦ゲーム。それを生業にする最善策は何かなって考えているところよ」
「棋士とか?」と美沙。
「チェスプレイヤーとか?」と美衣。
「そんなところね」と伊緒菜は答えた。
「夢みたいなこと言いますね」
「悪い?」
「いえ、意外だなと思っただけです」
津々実の言う通りだ。伊緒菜はもっと、堅実で現実的な将来設計をしていると思っていた。しかし、伊緒菜はQKの全国大会で優勝したし、部内でやった他のどんなゲームでも負け知らずだった。伊緒菜にとっては、現実的な選択肢なのかもしれない。
「あれ? QKのプレイヤーにはならないんですか?」とみぞれは聞いた。
「QKにプロリーグはないもの。どこまでいっても遊びの一環よ。今はまだ」
「あ、そうなんですか……」
遊びと言われてしまうと、ちょっぴり凹む。たしかに遊びには違いないが、みぞれ達はこれでも真剣にやってきたのだ。
「あ、プロリーグといえば、言い忘れてたことがあったわ」
と、伊緒菜がノートパソコンを操作し始めた。
「そもそも、どうして今日集まることにしたのかって話」
「試験の後だからじゃないんですか?」
「それもあるけど、メインは別よ」
「メインを言い忘れないでください」
と津々実が突っ込んだが、伊緒菜は気にしなかった。
「今日は12月13日の直後の土曜日でしょ? 実は毎年この日に、大会が開かれるのよ。もう何十年も続いてる、伝統ある大会が」
「それって、まさか」
「ええ。QKの大会よ」
パソコンの画面には、その大会の公式HPが表示されていた。
「大会開始は、午後十一時」
「なんでそんな真夜中に」
「知らないけど、そういう伝統らしいわ。こんな時間だから十八歳未満は参加できないんだけど、オンラインで配信はされているの。今日のメインイベントは、これを見ることよ。朝までね」
「朝、まで?」
「そりゃそうでしょ。私たちの全国大会も八時間くらいかかったのよ? 夜十一時から始まったら、終わるのは朝よ」
つまり今夜は、徹夜でQKの大会を観戦するというわけだ。みぞれはパジャマパーティでもするのかと思っていたが、なかなかにハードなイベントが待っていた。
「ということで、メインディッシュまでは時間があるし、何かしましょう。ゲームなら色々あるわよ。この人数なら、色んなゲームができるわ」
伊緒菜がうきうきと、棚に掛かっていたカーテンを開ける。そこにはずらりと、ボードゲームが並んでいた。伊緒菜にとっては、こちらの方がメインに違いなかった。




