第5話 王太子殿下の不祥事
「殿下は……王位をお望みなのではありませんか」
リディアがそう口にすると、部屋の空気がわずかに張りつめた。昨日までなら、自分でも考えすぎだと思ったかもしれない。だが四人が持ち寄った話を並べてみれば、エヴァルトが偶然にしては都合よく、王太子の周囲へ手を伸ばしていることだけは確かだった。
リディアが話したのは、王太子の側近たちが増税を巡って意見を対立させているという話だった。セシリアは、ある有力貴族が投資に失敗して資金繰りに困っていることを話し、マリエルは長雨で被害を受けた地方の復旧と、それを助けようとしている商人たちの話をした。イレーネが口にしたのは、近く王都へ戻る武官と、軍で不足している物資についてである。
どれも、恋人との会話の中で何気なく話したことにすぎない。秘密を売ったつもりなどなく、まして政治の駆け引きに使われるとは考えもしなかった。
「今の段階では、第二王子殿下が王位を望んでいるとは判断できません」
ノア・フェルデンは、四人の期待を裏切るように淡々と答えた。セシリアが不満そうに眉を上げる。
「これだけのことをなさっていても、ですの?」
「人脈を広げていることと、王位を狙っていることは別です。兄君である王太子殿下を支えるために動いている可能性もありますし、将来ご自身が政務を担うために関係を築いているだけかもしれません」
「四人も恋人を作っておいて、皆様のお役に立ちたい善良な王子様でした、では少々無理がありませんこと?」
「恋愛についての評価まで私に求められても困ります。今は職務中ですので」
あまりに真顔で返され、セシリアは口を閉じた。隣でイレーネが小さく笑ったのを見て、「何がおかしいんですの」と睨みつける。以前なら、この四人が同じ男のことで一緒に腹を立て、同じ場で笑うなど考えられなかっただろう。
全員がエヴァルトを愛していた。そして全員、自分だけが愛されていると思っていた。その事実を思えば、今こうして同じ机を囲んでいること自体がひどく奇妙だった。
「では、何を調べればよいのでしょう」
リディアが尋ねると、ノアは机に並べられた四人分の記録へ視線を落とした。
「皆様が第二王子殿下へ話した内容が、その後どこへつながったのかを確認しましょう。公的な記録で追える範囲にはなりますが、何も分からないよりはましです。ただし、一つだけお願いがあります」
「何でしょう」
「先に答えを決めないでください。第二王子殿下が王位を狙っているという結論に合わせて事実を拾えば、何を見てもそう見えてしまいます」
まるで自分だけを注意されたような気がして、リディアは少しむっとした。
「私が結論を急いでいるとおっしゃりたいのですか」
「はい。少なくとも、今は」
迷いのない返事だった。侯爵令嬢に対する言い方としては、もう少し遠回しな表現もあっただろう。それでも不思議と腹は立たなかった。むしろ胸の内にあった焦りを、冷たい水で静かに冷ましてもらったような気がした。
エヴァルトなら、こんな言い方はしなかった。
――君ほど頭のいい女性なら、そう考えるのも当然だ。
きっと先にそう言って、リディアを肯定してくれただろう。そのうえで話しているうちに、いつの間にか彼の望む結論へ誘導され、それを自分自身で選んだ答えだと思ってしまう。
あの人はいつも、欲しい言葉をくれた。だから信じたし、自分は誰より理解され、愛されているのだと思った。
ノアは違う。聞きたい言葉を選んではくれないし、分からないことを分かったようにも言わない。その不器用さが、今はかえって信用できた。
「……承知しました。先に決めつけないようにします」
「素直ですね。先ほどまで王位を狙っているのではないかとおっしゃっていたので、もう少し反論されるかと思いました」
「私を何だと思っていらっしゃったのですか」
「少々、思い込みの強い方かと」
「失礼ですわね」
言い返したものの、ノアの口元がわずかに緩んだのを見て、それ以上は続かなかった。笑うのなら、最初からもう少し愛想よくすればいいのにと思ったが、なぜかその小さな変化が気になった。
▼△▼
翌朝、王宮に一つの噂が広がった。
「王太子殿下の側近に、不正の疑いが出ているそうですわ」
カルヴェイン侯爵家の別邸へ集まるなり、セシリアがいつもの挨拶もそこそこに告げた。増税を強く主張している王太子の側近が、ある商会から多額の金を借りているらしいという。
リディアの胸がざわついた。昨日までなら、増税を巡る意見の対立など珍しい話ではなかった。国の財政を立て直すために税を増やすべきだという者もいれば、これ以上領民へ負担をかけるべきではないという者もいる。それだけなら、ただの政策論争である。
だがセシリアの顔からは、普段の芝居がかった余裕が消えていた。
「その方、私が殿下へお話しした方ですの」
投資に失敗し、金に困っているらしい。最近は社交界にもほとんど姿を見せない。セシリアはそんな噂をエヴァルトへ話したのだという。
「私は、その方が王太子殿下の側近だとは知りませんでしたわ。ただ最近見かけないから、どうなさったのかしらと話しただけですもの。殿下も心配そうになさって、何か助けになれればいいのだけれど、とおっしゃって……」
そこまで言って、セシリアは唇を噛んだ。
「私も同じです。父と兄が、王太子殿下の側近たちが増税を巡って揉めていると話していたので、それを殿下へ話しただけです。名前までは出していません」
リディアとセシリアは顔を見合わせた。リディアは資金難の人物が誰なのか知らず、セシリアはその人物が税制に関わる王太子の側近だとは知らなかった。
「つまり、二人の話を両方聞いていた第二王子だけが、最初からつなげられたということか」
イレーネの一言に、誰も返せなかった。
その日の午後、ノアから四人へ王太子府に来てほしいという連絡が入った。
昨日と同じ面談室へ通されると、机の上には新しい資料が用意されていた。ノアは余計な前置きをせず、今朝から流れている噂には一応の根拠があると説明した。
「ただし、不正が確定したわけではありません。そこは分けて考えてください。問題になっているのは、増税を強く主張している王太子殿下の側近と、その人物へ金を貸している商人たちの関係です」
ノアの説明は簡潔だった。
その側近は税収を増やし、増えた金の一部を長雨で被害を受けた地方の復旧と軍備の更新へ回す案を推している。そして、その仕事を請け負う可能性が高い商人たちの中に、側近へ金を貸している者たちが含まれているという。
マリエルの表情が強張った。
「その商人たちの中に、私の家が地方支援で関わった方もいるのですね」
「います。もちろん、その商人が支援を行ったこと自体は問題ではありません。実際に物資も資金も出している。ただ、増税を主張している人物が彼らから金を借りているとなると、話が変わります」
ノアはそこでイレーネへ向き直った。
「以前、第二王子殿下が王都へ戻る武官へ商人を紹介したとおっしゃいましたね。その商人も同じ一団に属しています」
「つまり、もっと簡単に言えばどうなる」
「増税を進めている王太子殿下の側近が、自分に金を貸している商人たちへ国の仕事を回そうとしているのではないか、と疑われているということです」
それなら難しくない。
税を上げる。国に入る金が増える。その金を地方復旧や軍備に使い、仕事を請け負うのは自分と近い商人たち。もし最初からそれを狙っていたのなら、国のための増税ではなく、身内を儲けさせるための増税ということになる。
「王太子殿下は、このことをご存じだったのですか?」
マリエルの問いに、ノアは首を横に振った。
「少なくとも、今のところその証拠はありません。王太子殿下ご本人が関わっていたとも確認されていない。ただ、側近がそのような疑いを持たれれば、王太子殿下も無傷ではいられません。自分のすぐそばにいる人間の不正すら見抜けなかったのか、と言われるでしょうから」
リディアの背筋が冷たくなった。王太子本人を陥れる必要などない。側近に疑惑が生じ、その管理責任を問われるだけでも十分に傷になる。もしエヴァルトが王位を望んでいるのなら、兄を直接攻撃するよりずっと安全なやり方だった。
「では、殿下がこれを仕組んだのですか」
思わず尋ねると、ノアは昨日と同じ顔で答えた。
「分かりません。第二王子殿下が関与した証拠はありません」
「ですが、私たちが殿下へ話したことばかりです」
「だから疑う理由はあると言っています。ただ、疑う理由があることと、事実であることは同じではありません」
また同じことを言われた。けれど今度は苛立たなかった。
ノアはエヴァルトを庇っているのではない。リディアたちの味方をしたくないわけでもない。ただ、自分たちが傷ついたからという理由で、都合のよい答えへ飛びつくのを止めているだけだ。
「でも……その商人のお話を殿下になさったのは、私です」
マリエルの震える声に、全員がそちらを向いた。
「父が、長雨で困っている地方を助けたいけれど、お金も人も足りないと悩んでいました。それで私、殿下へ相談したのです。殿下はとても親身になって聞いてくださって、『困っている人を放っておけない君のそういうところが好きだ』と……」
最後の方は声がかすれていた。
「私、嬉しかったのです。父の仕事の話なんて、他の方にしても面白くないと思っていました。でも殿下は、ちゃんと聞いてくださったから。なのに、あれも必要だったから聞いていただけなのでしょうか」
その言葉に、リディアの胸が痛んだ。
自分も同じだった。政治や領地経営の話をすると、エヴァルトはいつも楽しそうに聞いてくれた。君と話していると時間を忘れる、君ほど話の合う女性はいない。そう言われるたびに嬉しくなり、自分は顔や家柄だけでなく、中身まで見てもらえているのだと思っていた。
「私もですわ」
セシリアが、いつになく静かな声で続けた。
「私、社交界のお話をするのが好きでしたの。誰と誰が喧嘩をしているとか、どなたの家が困っているとか。普通なら、くだらない噂話ばかりする女だと思われても仕方ありませんわ。でも殿下は、『君は本当によく人を見ている』と褒めてくださった。だから、もっと話したくなりました」
イレーネも少し迷ったあと、低い声で言った。
「私は、軍の話をしても嫌がられなかった。女がそんな話をするなとは、一度も言われなかった。むしろ、もっと聞かせてくれと言われた」
それだけで十分だった。
四人とも、エヴァルトに同じことをされていた。自分が誰かに認めてもらいたかった部分を見つけてもらい、そこを褒められた。理解してもらえたことが嬉しくて、もっと話した。もっと自分を知ってほしいと思った。
「ずるいですわね」
セシリアがぽつりと言った。
「私たち、自分から話したのですもの。秘密を教えろと命令されたわけでも、無理に聞き出されたわけでもありませんわ」
エヴァルトはただ、笑って聞いていた。楽しそうに、嬉しそうに。まるで話の内容ではなく、その話をしている自分自身に興味があるように見えた。
「もし最初から、私たちではなく情報が欲しかったのだとしたら……」
リディアはそこまで言って、続きを口にできなかった。
マリエルが代わりに呟く。
「恋人だったから、こんなに話してしまったのでしょうね」
部屋が静まり返った。
恋人でなければ、父や兄が家で話していたことまで口にはしなかったかもしれない。仕事で聞いた話や、友人から聞いた噂も、好きな相手だからこそ気軽に話した。自分を理解してくれると思ったから、他の人には言わないことまで聞いてほしくなった。
「私たち、殿下に愛されていると思っていました」
リディアの声は、自分で思ったより静かだった。
「でも、殿下が欲しかったのは私たちではなく、私たちが知っていることだったのでしょうか」
ノアが何かを言いかけたが、結局口を閉じた。いつものように、まだ分からないと答えることもできただろう。それを言われても今は慰めにならないと分かってくれたのだと思うと、少しだけありがたかった。
▼△▼
三人が帰ったあとも、リディアは部屋に残っていた。もう調べたいことがあったわけではない。ただ、すぐに立ち上がる気になれず、机の上の資料を眺めたまま考え込んでいた。
ノアは何も聞かなかった。しばらく黙って資料を片づけたあと、喉が渇いていないかと尋ね、水を一杯差し出した。
「フェルデン様は、皆様にこうなさるのですか」
受け取ってから、なぜそんなことを聞いたのだろうと思った。
「水を出すことですか? 喉が渇いていそうなら、誰にでも」
「……そうですか」
あまりにも当たり前の答えで、少しだけ可笑しくなった。
エヴァルトなら、そこに必ず言葉を添えただろう。君が心配だ、無理をしないでほしい、君は大切な人だから。そう言われるたびに胸が温かくなったのに、今はその言葉のどこまでが本当だったのか分からない。
ノアは、水を渡しただけだった。疲れて見えたから、それだけの理由で。
余計な意味がないことが、今はひどく心地よかった。
「私、馬鹿だったのでしょうか」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「殿下に愛されていると思っていました。誰より私を理解してくださっていると思っていたのに、もしかしたら最初から利用されていただけなのかもしれません」
ノアは少し考えたあと、静かに答えた。
「もし第二王子殿下があなたを利用していたとしても、あなたが馬鹿だったという話にはならないでしょう。信じさせた側と、信じた側の責任は同じではありません」
「また分けるのですね」
「分けられるものは分けた方がいい。少なくとも、殿下が何を考えていたとしても、あなたが本気で好きだったことまで嘘になるわけではありません」
胸の奥に押し込めていたものへ、思いがけず触れられた気がした。
エヴァルトとの時間まで全部捨ててしまいたいと思っていた。会う日に着る服を選んだことも、届いた手紙を何度も読み返したことも、青い首飾りをもらって眠る前まで眺めたことも、すべて騙された愚かな女の思い出にしてしまえば楽になれると思った。
けれど、自分は本当に嬉しかったし、本当に好きだった。それまで嘘にする必要はないのかもしれない。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありません」
思わず笑うと、ノアもわずかに笑った。
その顔を見た瞬間、胸の奥が小さく揺れた。甘い言葉を言われたわけでも、特別扱いされたわけでもない。それなのに、もう少しこの人と話していたいと思ってしまった自分に気づき、リディアは慌てて杯へ視線を落とした。
今は、それどころではない。
「決めました。殿下に会ってきます」
顔を上げると、ノアの表情がわずかに変わった。
「第二王子殿下に、今からですか」
「今だからです。もう、他人から聞いた話を並べて、殿下が何を考えているのか想像し続けるのは嫌なのです」
「素直に答えるとは思えませんが」
「分かっています。でも、私は今までずっと殿下の言葉を勝手に補ってきました」
いつか迎えに行くと言われて、結婚の約束だと思った。君だけのために選んだと言われて、自分だけを愛しているのだと思った。大切にしたいと言われて、その先の未来まで約束されたような気持ちになった。
「殿下は、一度も私と結婚するとおっしゃっていません。私だけを愛しているとも。今度は、勝手に意味を足しません。殿下が何をおっしゃるのか、何をおっしゃらないのか、自分で聞いてきます」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「お勧めはしません」
「文官として?」
「……そういうことにしておいてください」
胸がまた小さく鳴ったが、その意味を考えるのはやめた。今はエヴァルトと向き合う方が先である。
「それでも行きます」
「止めても行くのでしょう。でしたら、せめてお気をつけて」
リディアが扉へ向かうと、背後からもう一度呼び止められた。
「カルヴェイン嬢。帰宅したら、私にも無事だと伝えてください」
「フェルデン様に?」
「……いえ、私に、というのはおかしいですね。兄上にお伝えください。心配されていましたから」
振り返ったときには、ノアはもう資料へ視線を落としていた。
▼△▼
第二王子府へ向かう廊下を歩きながら、リディアは何度も昔の自分を思い出した。
エヴァルトに会える日は、ここを歩くだけで心が弾んだ。少しでも綺麗に見られたくて鏡の前で何度も髪を直し、今日のドレスを褒めてもらえるだろうか、あの話をしたら楽しそうに聞いてくれるだろうか、次はいつ会えるだろうと、そんなことばかり考えていた。
そのころの自分が、ひどく遠く感じられる。
突然の面会だったが、エヴァルトはすぐに会うと言った。案内されたのは、二人で何度も過ごした客間だった。
扉の前で、足が止まる。
ここで青い首飾りをもらった。
――君だけのために選んだ。
あのときは嬉しくて、何度も箱を開けて眺めた。眠る前にまで取り出して、いつか正式に婚約したときにはこれを着けようと考えたこともある。
今になって思う。
セシリアにも、マリエルにも、イレーネにも、その人が一番欲しがる言葉を選んでいたのだろうか。自分が特別だったのではなく、特別だと思わせるのが上手だっただけなのだろうか。
「カルヴェイン侯爵令嬢、殿下がお待ちです」
従者に呼ばれ、リディアは顔を上げた。
扉が開き、見慣れた部屋の向こうで、エヴァルトが立ち上がった。四人の恋人が互いの存在を知ったことも、王太子の側近に不正の疑いが出ていることも、何一つ知らなかったころと変わらない笑顔を向けてくる。
「リディア? 珍しいな。君から急に会いたいと言うなんて」
その声を聞いただけで、胸が痛んだ。
嫌いになれたなら楽だっただろう。四人も騙していた最低な男だと笑い飛ばし、もう愛情など残っていないと言えたなら、こんなに苦しくはなかった。
それでも目の前にいるのは、半年間ずっと好きだった人だった。会えば嬉しくて、手を取られるだけで胸が高鳴り、この人と生きていく未来を何度も夢見た相手である。
だからこそ、聞かなければならない。
リディアはゆっくり息を吸い、まっすぐエヴァルトを見た。
「殿下。今日は、お伺いしたいことがあります」
今度は、欲しい答えを自分で作らない。この人が何を言うのか。そして何を言わないのか。そのすべてを、自分の耳で確かめるために。




