第十六話:揺らぐ刃(やいば)
冒険者ギルドの喧騒が、急に遠のいた。
ミナトの耳には、田中美咲が絞り出した「『農奴』として……鞭で打たれながら……」という言葉だけが、何度もこだましていた。
(嘘だ。そんなはずはない)
(だが、田中さんが俺に嘘をつく理由がない)
(じゃあ、嘘をついていたのは――国王陛下?)
「ミナト様……?」
隣で、リリアーナ王女が、ミナトの凍りついた表情と、泣きそうに顔を歪める美咲を、不安げに見比べている。
「……田中さん」
ミナトは、努めて冷静な声を出そうとした。
「その話は、本当なんだね」
「は、はい……ギルドに流れ着く、信憑性の高い情報だと……」
「……わかった。教えてくれて、ありがとう」
ミナトは、美咲の肩にそっと手を置いた。
「その件は、俺が必ず何とかする。だから、田中さんは、ここで自分の仕事を続けてほしい。いいね?」
「神崎くん……いえ、ミナト様……」
力強く頷くミナトの瞳に、美咲はわずかな希望を見出す。
「リリアーナ様。帰りましょう」
「え、あ、はい……!」
ミナトは、リリアーナの手首を掴むと(それはいつもの彼ならしない、少し乱暴な仕草だった)、ギルドを後にした。
王城への帰り道、リリアーナは必死に話しかけたが、ミナトは「すみません、少し考え事を」と返すのみで、その顔は青ざめ、硬く強張ったままだった。
王城に戻ったミナトを、侍従のセバスがいつもと変わらぬ完璧な所作で出迎えた。
「勇者様、お戻りなさいませ。すぐにお飲み物を……」
「……いらない」
「え?」
「一人にしてくれ」
ミナトは、セバスの制止を振り切り、自分の私室に閉じこもった。
(なぜだ……なぜ、陛下は嘘を……)
自分を心労させないため? それは、ただの「配慮」か?
いや、『農奴』と『鞭』。それは、傍観者だった彼らが受ける罰として、あまりに重すぎる。
(女神の冷遇……まさか、あそこまでとは)
そして、それを知りながら、国王は自分に「皆、元気にやっている」と、あの穏やかな笑顔で告げたのだ。
信頼していた世界が、足元から崩れていくような感覚。ミナトは、初めてこの世界で「孤独」を感じていた。
翌日。
目の下にうっすらと隈を作ったミナトの元に、新たな任務が下された。
「勇者様。東の街道にて、『ロック・ワイバーン』の目撃情報が相次いでおります。商隊の安全のため、討伐をお願いしたい」
国王の側近である文官が、淡々と任務を告げる。
それは、Sランクの『影の魔豹』を倒したミナトにとっては、Bランク程度の、いわば「雑務」に等しい任務だった。
「……承知した」
ミナトは、何も言わずに立ち上がった。
東の街道。岩山地帯。
ミナトは、思考に沈んだまま馬を進めていた。
(これから、国王にどう切り出す? 「開拓地を見せろ」と? もし、はぐらかされたら?)
(いや、それよりもまず、リリアーナ様は? あの人も知っていたのか? あの無邪気な笑顔も、全て演技だったのか?)
疑念が疑念を呼ぶ。
「Kiiieeee!!」
その時、上空から甲高い鳴き声と共に、岩のような鱗皮を持つワイバーンが急降下してきた。
護衛の騎士たちが、即座に陣形を組む。
「ミナト様! お下がりください!」
「……いや」
ミナトは、ぼんやりとした頭で剣を抜いた。
(早く終わらせて、王城に戻らないと)
ワイバーンが、ブレス(岩礫)を吐き出してくる。
ミナトは、いつも通り『身体能力超強化』でそれを回避し、懐に潜り込もうとした。
その瞬間。
ワイバーンの背後、護衛対象であるべき商隊の荷馬車が、視界の端に入った。
荷馬車に怯える商人の姿が、ふと、教室の隅で健也に怯えていた自分と重なった。
そして、次の瞬間、その商人の姿が、なぜか泥だらけで、鞭に打たれ、こちらに助けを求める高橋の幻影へと変わった。
(――ッ!?)
思考が、コンマ数秒、停止した。
完璧だったはずのミナトの動きが、わずかに鈍る。
「危ない!!」
ワイバーンの、岩のように硬い翼の先端が、思考のフリーズで回避の遅れたミナトの肩を、強かに「打撃」した。
ガキン!!
白銀の軽鎧が、甲高い音を立ててへこむ。
「ぐ……っ!」
ミナトは、Sランク魔獣を倒した彼が、初めてまともな「被弾」を受け、体勢を崩した。
「ミナト様!?」
騎士たちが悲鳴を上げる。
「うるさい!」
ミナトは、自分自身への怒りを込めて叫んだ。
(俺は……何をやってる!)
格下の、Bランクの魔物相手に、幻影を見て、被弾した?
(この迷いが……俺を鈍らせるのか!)
ミナトは、地面を蹴った。
もはや、迷いはない。
「『光刃』」
カイルネス峡谷で魔豹を仕留めた、光の剣。
ワイバーンは、自分が何をされたのかも理解できないまま、翼ごと胴体を両断され、絶命した。
圧倒的な瞬殺。
だが、ミナトの心は晴れなかった。
彼は、へこんだ肩の鎧に触れ、戦慄していた。
(このままじゃダメだ)
(この疑念と迷いを抱えたまま、魔王軍と戦えるわけがない)
(自分の目で、確かめなければ)
(開拓地で、何が起きているのか。高橋たちは、本当に『農奴』なのか)
(そして、国王の嘘を……俺がどう受け止めるのか)
王城に戻ったミナトは、傷ついた鎧をセバスに渡し、まっすぐに国王の執務室へと向かった。
もはや、彼に、ためらいはなかった。




