第45話 レンの魔法
レンの練習は、来る日も来る日も続いた。
やることは単純だった。火の指輪を着けて、指先から魔力を出す。それだけだ。でも、その、それだけができなかった。
レンは自分の魔力を指先まで送れなかった。魔力が身体の中にあるのは分かる。でも、それを外へ、指の先へ流すやり方が分からない。属性を持つ者が六歳から無意識にやってきたことを、レンは十いくつの歳になって、一から覚えようとしていた。
俺は教えられなかった。
俺は魔力を操れない。異世界人だから、魔力に触れることもできない。だから、こうやって出すんだ、と手本を見せることができなかった。俺にできるのは、レンが出そうとする魔力の構造を、外から読んで、今はこう流れている、もう少し指の方へ、と言葉で伝えることだけだった。
アリシアも手伝った。
「私の火を見ていてください」
アリシアは指先に火を灯して見せた。魔力がどう指先へ集まり、どう外へ出ていくか。レンはそれを、じっと見ていた。でも、見るのと、やるのは違った。
ひと月が過ぎても、レンの指先からは、何も出なかった。
レンは焦らなかった。少なくともそう見えた。
でも、ある夜、俺が院長室で設計図を片付けていると、レンが一人で、暗い部屋の隅で、指輪を着けたまま、じっと手を見ていた。
「レン。……根を詰めるな。焦らなくていい」
「焦ってないよ」
レンは言った。
「ただ、考えてた。……あたし、魔力出したことないって、思ってたけど。……ほんとにそうかな、って」
「どういう意味だ」
「アリシアの火の膜、剥がしたとき」
レンは言った。
「あのとき、あたし、アリシアの魔力に触ってた。境目、たどって。指、入れて。……あれ、魔力、動かしてたんじゃないの?あたしの魔力じゃないけど。でも、魔力を、繊細に、動かす、っていうのは。……あたし、やったこと、あるんじゃないの?」
俺は動きを止めた。
その通りだった。
レンは、他人の膜を剥がすとき、境目に沿って極めて繊細に、魔力に干渉していた。糸のように細い境を、一ミリもずれずにたどった。……あれは、魔力を操る技術そのものだった。レンは、自分の魔力を出したことはない。でも、魔力を繊細に扱うことは、人を助けるために、もうやっていた。
「レン。……その感覚を、思い出してくれ」
俺は言った。
「アリシアさんの膜を剥がしたときの、あの指先の感覚。……あれを、今度は、自分の魔力に使うんだ。他人の魔力を動かせたなら、自分の魔力も動かせるはずだ」
レンは、目を閉じた。
剥がすときの感覚を、思い出そうとしていた。境目をたどる、あの、繊細な指先の使い方を。……自分の身体の内側に、その感覚を向けた。他人の膜を剥がすときと、同じ集中で。今度は、自分の魔力を、境目をたどるように、そっと指先へ。
レンの、人差し指の先が、かすかに光った。
「……あ」
レンが、目を開けた。
指先に小さな火が灯っていた。
豆粒ほどの頼りない火だった。すぐに、消えた。でも、確かに火だった。レンの指先から出た火だった。
「出た……」
レンは、自分の指を見つめた。
「あたし……火、出した」
「出した」
俺は言った。声が、少し掠れた。
「レンが出した。……自分の魔力で、自分の力で」
ヨナがと呟いた
「世界初ですよ……」
アリシアはそれを眺め、静かに涙を流していた。
それからのレンは速かった。
一度、感覚を掴むと、レンは、みるみる、上達した。剥がす技術で鍛えた繊細な魔力の扱いがそのまま活きた。指先の火は、日に日に、大きく安定していった。
火の指輪で、火。
水の指輪に、着け替えれば、水。
風の指輪で、風。土の指輪で、土。光の指輪で、光。
レンは、五つの属性を、指輪次第で、自在に使い分けた。属性を持つ者は、一つの属性しか使えない。でも、レンは、五つ、全部を使えた。原型だから、どの属性にも縛られない。指輪を替えれば、どの属性にもなれた。
そして、指輪を外せば、レンは、原型に戻った。
外した手でレンは、壁に触れた。指がすっと、壁の中へ入っていった。……剥がす力も、通り抜ける力も、そのままだった。魔法を使えるようになっても、レンは、原型の力を失っていなかった。
着ければ、魔法が使える。
外せば、みんなを剥がせる。
レンは、両方を手に入れた。
俺は、その光景を見ながら、長いあいだ言葉が出なかった。
レンは、属性を持たない子だった。この世界で、一番、下に置かれた子。名簿にも載らない、欠陥とされた子。属性を与えてやる、守ってやると言われ、連れ去られかけ、みんなを自由にする鍵なのに、自分だけは自由になれないと、嘆いた子。
その子が、今、五つの属性を、自在に操っていた。
属性を持たないことは、欠陥ではなかった。
どの属性にも縛られない、一番、自由な状態だった。固定された属性を持つ者は、一つに縛られる。原型のレンだけが、指輪次第で、どの属性にもなれる。外せば、原型に戻って、みんなを助けられる。……レンは、何も、失わなかった。すべてを、手に入れた。
欠陥だと思われていたものが、一番の強みだった。
レンが、俺の方を振り返った。
指先に、火を灯したまま。
「ねえ」
レンは言った。
「あたし、選べるようになったよ」
「ああ」
「あの村の、子供たちみたいに。……あたしも選べる。火でも、水でも。……好きなときに、好きなのを」
「そうだ」
「それに」
レンは、指輪を外した。壁に手を当てた。指が壁の中へ入っていく。
「これも、できる。……みんなを、剥がすのも。……あたし、両方、できるんだ」
レンは笑った。今まで見たことのない屈託のない笑い方だった。飄々とした鎧も要らない、ただの子供の笑顔だった。
「あたし、要らない子じゃ、なかったんだね」
俺は、頷いた。それしかできなかった。
その夜、俺は、院長室で一人机に向かった。
白紙の一番上に、俺は、ずっと前にこう書いていた。『レンを、自由にする。無属性のまま、魔法を。方法、未知。これより、探す』
俺は、その下に線を引いた。そして、書いた。
『達成。レン、五属性を自在に使用。指輪着脱により、原型の力も保持。……レンは、自由になった』
書いて、俺はペンを置いた。
やり直しが終わった。
前の世界で、俺は、理由を書かずに死んだ。設計思想を失わせた側の一人として。そのやり直しにこの世界へ来た。……地脈杭を直し、真実を書き、フレームワークを作り、儀式を置き換えた。世界は変わった。子供たちは選べるようになった。そして、レンも自由になった。
俺のやり直しは終わった。
俺自身は、まだ、この院の中にいる。
俺はまだ檻の中にいた。
だが、不思議と苦しくはなかった。
俺は、窓の外を見た。小さな窓の向こうに、王都の灯りが点々と見えた。あの灯りの下で、。差し込まれずに、子供たちが自分で属性を選んでいる。そして、その中に、いつか、レンのような子が、また、生まれても、その子は、もう、欠陥とは、呼ばれない。指輪があるから。選べるから。
解放する者は、自らは解放されない。
レンは、みんなを剥がすために、原型のままでいた。俺は、世界を変えた代償に、檻に入った。……でも、レンは自由になった。俺が自由にした。俺は自由になれないけれど、レンはなった。
それで、十分だった。
解放されない者が、解放されない者を解放する。……そうやって、一人ずつ、自由は渡っていく。俺から、レンへ。レンから、次の誰かへ。
いつか、この檻にも隙間があると、レンは言った。どんな壁にも、境目はあると。
俺はその言葉を信じることにした。
いつか、この壁の、境目からも。
俺は、外へ出られるのかもしれない。
でも、それは、まだ、確かめていないことだった。だから、俺は、書かなかった。
確かめてから書く。
それが、俺のやり方だった。
窓の外で、王都の灯りが静かに揺れていた。
二百年止まっていた世界は、もう俺の手を離れ、一人ずつ動き始めている。
俺は明かりを消した。
(了)




