第1話 魔法の世界よ、こんにちは
目が覚めた瞬間、俺が最初に思ったのは、環境構築をどこまでやったっけ、だった。次に思ったのは、空が二つある、だった。
赤みがかった大きな太陽と、青白い小さな太陽が、雲ひとつない空に並んでいる。
どちらも本物らしく光っていて、影が二方向に伸びていた。地球ではありえない光景だ。俺は草むらの中に仰向けで寝転んだまま、その空をしばらく眺めた。
経緯はよく覚えていない。
正確には、気を失う前に白い空間で神様とやらに色々説明されたのだが、要件定義が雑すぎて正直半分しか頭に入らなかった。
「異世界を変えるために、新しい命を与え、その姿のまま転移させる」
「チートな能力を与える」
「あとはよろしく」
というのがざっくりとした概要だ。ドキュメントもなければ引き継ぎ資料もない。前任者の情報もない。最悪の引き継ぎだった。
俺――桐島蒼、元ソフトウェアエンジニア、享年二十六(死因:過労。最後の記憶は「本番環境に上げたら寝る」というメモを書いたところまで)――は、ゆっくりと上体を起こした。見下ろすと、死んだ時のままのスーツ姿だった。周囲を見渡した。
広い草原だった。草を揺らす風だけが静かに吹いて、遠くに森が見える。さらに遠くには山脈。近くに街や村の気配はない。
そして目の前に、円形に敷かれた石の台座があった。
直径三メートルほどの円形に並べられた古い石。その上に、複雑な幾何学模様が刻まれている。魔法陣、というやつだろう。転移するときに使ったものか、それとも最初からここにあったものかはわからないが、とにかく精巧な術式が石に刻み込まれていた。
俺は立ち上がり、それに近づいた。
しゃがみ込んで、石に刻まれた術式を目で追った。奇妙なことに、刻まれた記号の意味は分からないのに、構造だけは頭に入ってくる。違和感があった。
見つけてしまった。バグを。この世界に来て、まだ五分も経っていない。
「なんでここで無限ループしてんの」
思わず口に出していた。エネルギーの流れを示すらしい矢印がある。その中の一箇所だけ、出口のない循環構造になっていた。外からの流れが、ここに入った瞬間、永遠に抜け出せなくなる設計だった。
術式の仕組みはまだ何もわかっていない。でも、ループしているのは見ればわかる。構造の話だから。
「いや、待て。見間違いか?」
もう一度、構造を目で追った。
……やっぱりループしていた。
「設計したやつ、絶対テストしてないだろこれ」
俺は胸ポケットを探った。ペンがあった。台座の隅の余白に、修正案をさらさらと書き始めた。インクが乗るか怪しかったが、石の表面は思いのほか滑らかだった。
ループを断ち切るには、ここに分岐条件を一本入れればいい。エネルギーが一定量を超えたら外に逃がす弁のような経路を。
「何をしているの」
声がした。俺は振り返った。少女が立っていた。
歳は十七か十八くらいだろうか。腰まで届く銀髪を丁寧に編み込み、深い青のローブを纏っている。胸元には金色のバッジ。目は切れ長。整った顔立ちだった。
ただ、こちらを見る目だけは警戒心に満ちていた。
片手に、濁った硝子の球のようなものを持っていた。
「魔法陣に、落書きを?」
「落書きじゃないです。修正です」
俺は立ち上がって答えた。
「この部分、無限ループしていて、出口がありません。このままだと魔力を流した瞬間にロスが発生し続けます」
少女はしばらく俺を見ていた。それから台座に視線を落とし、俺が指差した箇所を眺めた。眉がわずかに動いた。
「……これは地脈杭です」
「地脈杭」
「地の下を流れる魔力を汲み上げて、次の杭へ送る。そうやって王都まで繋いでいます」
「この魔法陣は、二百年前の大魔法師エルドレイン卿の設計によるものです。現在の術式の多くは、この方の設計を基礎にしています」
「それが何か?」
「欠陥があるはずがない、と言いたいんです」
「完璧な人間がいない以上、欠陥のない設計も存在しませんよ。二百年前だろうと同じです」
また沈黙。少女は再び台座を見た。今度は長かった。一分近く、彼女は無言でその魔法陣を眺めていた。
「確かに、この術式は使用時の魔力消費が理論値より高いと報告されています」
「つまり、ここでロスが出てる証拠ですね」
「でも、二百年間誰も気づかなかった」
「気づかなかったんじゃなくて、疑わなかったんじゃないですか。権威のある人が作ったものは正しい、って思い込んで」
そう言ってから、俺は少し余計だったかな、と思った。初対面の相手に言う言葉としては刺激が強すぎるかもしれない。
でも少女は怒らなかった。ただ、静かに俺を見た。
「あなたは何者ですか」
「桐島蒼。今日この世界に転移して来た者です」
「転移者?」
彼女は俺の姿をまじまじと見た。値踏みされている、と思った。しばらくして、彼女が口を開いた。
「過去の文献で読んだことはあったんですが、本当なのですか? 何か証明するものをお持ちですか?」
そう言われて、スーツの内ポケットを探ると、いつもの名刺入れがあった。どうやら持ち物まで一緒に転移したらしい。
「こういう者です」
と言って、俺は彼女に名刺を渡した。
名刺を受け取った途端、彼女の口調から取り繕った丁寧さが消えた。
「読めない文字があるけど、何なの?コレ」
「名刺です」
「名刺って何?」
「俺の会社での所属と肩書きが書いてあります。プログラムを作っていました」
「会社?」
「働く場所です」
「プログラム?」
「道具に命令を書く仕事」
「全然分からない。でも、ひとつだけ分かったわ」
「何がですか?」
「貴方が異世界人であることが」
彼女の物の言いようがおかしくて、俺は笑ってしまった。彼女もつられるように笑顔を見せた。
それにしても、名刺の文字は読めないのか。神様のチートは音声翻訳と構造把握だけで、文字翻訳は含まれていないらしい。仕様の穴だ。
「ところであなたは魔法の術式を知っているの?」
「いえ、知りません」
「変ね。魔法術式を知らない人間が、エルドレイン卿の術式の欠陥を一目で見つけた?」
「魔法術式の話じゃなくて、あくまでも今回は構造の問題だったので。こういう構造上の欠陥のことを、俺のいた世界ではバグと呼びます。それを見つけて直すのが仕事でした」
「バグ?」
彼女は、覚えたばかりの言葉を確かめるように繰り返した。それから何かを考えるように、ローブの袖を軽く握り、視線を台座と俺の間で何度か往復させた。
こほん、と咳払いして彼女は姿勢を正した。
「私はアリシア・フォン・エルドレイン。王立魔法学院で講師を務めています」
「エルドレイン? さっきのエルドレイン卿と同じ名前ですね」
「祖先にあたります」
つまり、俺は目の前の少女の先祖が設計した魔法陣に、初対面で「欠陥がある」と言ったわけだ。
「失礼なことを言いました」
「いいえ」
アリシアは首を振った。
「悔しいですが……あなたの言う通りです。私もずっと違和感だけは覚えていました。……それを口に出した人は、あなたが初めてですが」
「そうなんですか?」
俺は苦笑して頭をかいた。
「それより、お聞きしたいことがあるんですが」
「ええ、いいですよ」
「あのう、ここはいったいどこなのでしょうか?」
俺が言うと、彼女は困ったように笑った。
「そこから説明しないといけないんですね……」




