20 夜明け前の出発
白い月が王都オルドンの霧を照らしていた。
湿気を帯びた冷たい空気の中を、黒革のブーツが石畳を打つ。
束ねた黒髪がダークブルーのコートの背で揺れ、マフラーの上を白い息がかすめた。
未明。
エドガー・レイブンズは裁定院へ向かっていた。
正門はまだ閉ざされている。脇の小門から入り、石造りの廊下を進む。
夜勤守衛の詰所の小窓を軽く叩くと、うたた寝していた男がハッと顔を上げた。
「おはようございます。法務官レイブンズです。……届いていますか?」
「……ああ、こんばんは。こちらです」
「ありがとうございます」
封書を受け取ると、エドガーは一度、自室へ戻る。
暗い廊下。窓から差し込む月明かりだけが行く先を照らしていた。
――王都でこれほど静かな場所は、未明の裁定院しかないだろう。
灯りもつけず、引き出しから使い慣れた文具ケースを探り当て、銀のペーパーナイフを取り出す。
窓辺に立ち、月明かりを頼りに封を切った。夜のうちに届いた王立会計院からの“閲覧許可証”。
知らずに口角が上がる。
ペーパーナイフが弾いた月光が、群青の瞳に細い光を宿していた。
封書を懐に収め、エドガーはまた廊下へ出る。
木の床に靴音が小さく響き、やがて彼の姿は静寂の奥に溶けていった。
◇◇◇
オルドン中央駅の構内カフェは、先程開店したばかりだった。
煉瓦の壁に灯されたガス灯が、霧の中で揺れている。
客はまばらで、食器の触れ合う音が遠くで微かに鳴っていた。
その一角。
スコーンを頬張る金髪の男が手を振る。
「おはよう。早いな」
「おはよう、エドガー。休日の怠惰な姿に比べて、仕事のときは夜明け前からこの調子。お前の多重人格には敬意を表するよ」
「君が朝から元気そうで良かったよ」
エドガーが肩をすくめると、注文していた紅茶が運ばれてきた。
立ちのぼる湯気に、ベルガモットの香り。好きな香りだ。
彼は懐の許可証を一度確かめ、静かにティーカップを口へ運んだ。
テーブルには昨日の新聞。
窓の外に朝日が差し込み、ティールーム全体がゆっくりと赤く染まり始める。
六時十分発の汽車がホームに滑り込む。
白い蒸気が立ちのぼり、汽笛が高く鳴った。
エドガーの後にルシアンが続き、二人並んで乗車する。
座席に腰を下ろし、エドガーは窓枠に肘をついて顎を支えた。
動き出した列車の窓の外で、霧の街がゆっくりと後退していく。
「この時間の汽車は好きだ。過去を置いていくような気がする」
「……貴族みたいなことを言うんじゃない」
「端くれではあるが、僕は貴族なんだよ」
「そうだったな」
ルシアンが笑う。その声が、まだ眠る車両の中で軽やかに響いた。
赤い朝日がエドガーの群青の瞳に映り、黒髪を青い炎のように照らしていた。




