21 沈黙の記録庫
セイブル原駅から乗った馬車は、霧の立ち込める森の中を進んだ。
エドガーとルシアンは特に言葉を交わすことなく、馬車の揺れに身を預ける。
屋根のない軽馬車。
霧が髪につき、わずかに湿らせていた。
馬蹄の音だけが、リズムよく土の道に響く。
木立が少し開けてくる頃、古い煉瓦の塔が見えてきた。
――セント・アシュウェル修道院。
その門前で、サミュエル・ローク司祭が静かに待っている。
馬車がゆっくりと停まった。
エドガーとルシアンが馬車を降りるとサミュエルは小さく頭を下げた。
「こんにちは。レイブンズ殿、またお会いしましたね」
柔らかい物腰の声。だが相変わらず彼は目を合わせようとはしない。御者をしてくれた若い司祭に礼を言い、二人はサミュエルの後について歩き出した。
院長室に通され、お茶がコトリ――と小さな音を立ててテーブルに置かれる。
エドガーはカップには触れず、目の前のシスター・マルグリット・アシュウェルをまっすぐに見た。
「この度は、クロウリー公爵家の寄付金に関する会計報告照合のため、寄付受領記録と院内会計記録の閲覧をお願いに参りました。
こちらが、王立会計院発行の許可証です」
「拝見します」
シスターは静かに許可証を受け取ると開き、文字を追う。小さく息を吐いて、それをエドガーに返した。
「……わかりました。
サミュエル司祭、記録庫にご案内を」
壁際に控えていた司祭は一度視線を下げてから、ゆっくりと深く頭を下げる。
「かしこまりました」
窓の外では、ポツ、ポツと雨が降り始めていた。
サミュエルの後に続き、礼拝堂の裏へと向かう。
塔の基部にあたる半地下には、厚い煉瓦壁に囲まれた記録庫があった。
渡り廊下は狭く、壁の高い位置には鉄格子の嵌められた小窓。
霧雨に濡れた外の光は淡く、足元を照らすには心許ない。
靴音だけが、石壁に反響して続いた。
突き当たりの扉にサミュエルが鍵を差し込む。
ギィ――と低い音を立て、古びた木製の扉が開いた。
司祭は部屋に入り、燭台に火を灯していく。
入口、中央、最奥の三つだけ。
天井まで届く木製書架はまだ闇の中に沈んでいる。
彼は入口の小机を指し示した。
「こちらに日付とお名前を」
エドガーは小さく頷き、コートとフォリオ、杖を壁に立て掛けるように丁寧に置いた。
白い手袋のまま、閲覧申請書に署名する。
ルシアンは沈黙を守り、彼の背後に控えていた。
「私はここで控えます。何かありましたらお声を」
エドガーはもう一度頷き、冷たい石床の上を進む。
一歩ごとに、古紙と蝋、香草と乾いた木の匂いが立ちのぼる。
書架の隙間にある通気口から、細く風が鳴いた。
――時が閉じ込められた場所。言葉そのものが眠る墓。
振り返ると、ルシアンも静かに頷いた。
エドガーは白いシャツの袖をまくり、手首を露わにする。
細い手に白い布手袋。ランプの光を受け、指先だけが青白く見えた。
「ヴェイル調査官。クロウリー公閣下の寄付は二〇年ほど前からだ。そのあたりからの寄付・納入記録を探してくれ」
「かしこまりました、レイブンズ法務官殿」
一言一言が記録庫に響く。
ルシアンを手前の一般書架に残し、エドガーはさらに奥へ。
奥へ行くほど、埃とカビの匂いが濃くなっていく。
ルシアンが書架の影を通るたび、灯りが揺れた。
――まるで記録棚そのものが息をしているようだ。
高い書架には梯子がかけられている。
足元を見ると、床の埃が四角く切り取られていた。
最近、誰かが梯子を動かした形跡。
最奥には古い鉄扉がある。修道紋章の浮彫が刻まれ、鍵穴だけが新しかった。
埃が入っていない――最近使われたということだ。
脳裏をかすめる黒いコートの男。真実を知る者か、あるいは探る者か。
エドガーは少し戻り、革表紙の帳簿の背をなぞる。
“亡者の記録”
――時代が新しくなるにつれて薄くなる帳簿。
女性たちの学び舎としての修道院が新しい時代に変わるほどに、沈黙の墓碑は過去になっていく。
──いや、沈黙が過去になったからこそ、学び舎が生まれたのかもしれない。
指が止まる。
「アルデン暦九二九年 亡者記録」と手書きされたラベル。
群青の瞳に蝋燭の炎が映り込む。
彼はその一冊を抜き取り、頁をめくった。
リリアン・グレイ。――彼女はアルデン暦九二九年、冬の生まれ。
薄紫の瞳と淡い金髪が、瞼の裏に浮かぶ。
白い指先が、一文をなぞった。
―― アルデン暦九二九年十二月 エリス・オルドウィン、死亡。享年二十六。
蝋燭の明かりの中、エドガーは静かに息を吐き、口角を上げた。




