1.ある社畜の死
「う……またカタリーナの妨害が」
水気の多い空間に少しだけ声が反響する。
アパートの狭い浴槽に浸かりながら、新山いのりは横向きにしたスマートフォンを渋い顔で見つめていた。
画面の中では、金髪を縦ロールにしたお嬢様が腰に手をあてながら高笑いをしている。
そっとため息をついたプレイヤーは、画面を消して風呂の蓋にそれをそっと置いた。
(いい加減お風呂から上がって、仕事しなきゃ……)
ぬるくなり始めた湯に体を沈め、ぶくぶくとため息を泡に変えていく。
新山いのりは、端的に言うと社畜であった。
社会人1年目にして入った地元の会社はいわゆるブラック企業であり、持ち帰り残業は当たり前。新入社員は使い潰して生きのこった者だけ居ればいいという時代遅れも甚だしい職場だ。
普通の人なら即座に逃げ出すところを、いのりは真面目な性格ゆえに何とか喰らいつこうと頑張ってしまった。目を閉じて、これからこなさなければいけない仕事量を考える。
「……疲れたなぁ」
天井を向いてポツリと呟く。
毎日浅い眠りから起きて出社して、昼休みもキーボードを叩きながら食事を口に押し込み、帰ってきても仕事漬けの日々だ。
先ほどまでプレイしていた異世界ファンタジー乙女ゲームの、回復魔法が欲しいと切実に思ってしまう。
(主人公だったら、光魔法でこんな疲れ一瞬で吹き飛ばせちゃうんだろうなぁ)
そこまで考えてフッと自嘲する。こんな子どもじみた事を考えるなんて、いよいよ頭が働いていないのかもしれない。
最後に少し温まってから出ようと、追い炊きのボタンを力なく押す。
(乙女ゲームのヒロインっていいな。少なくとも孤独じゃないもの)
自分には支えてくれる家族も恋人も居ない。学生時代の友だちは皆、忙しくて疎遠になってしまった。
吹き出し口から出る熱いお湯に全身を包まれていると、トロトロと眠る直前のように意識が遠のいていく。
(わたしも、リーシャみたいになりたかった……な)
いのりはふいと目を閉じ、意識を手放した。力なく沈んでいき、動かなくなる。
そのまま夜が明けても、スマートフォンがけたたましく鳴り響いても、彼女が水面から顔を上げることはなかった。
『新山いのり』に、朝は来なかったのである。
***
バサリと、何かが落ちる音がした。
「――?」
……なんだか、まぶたの向こう側が眩しい。
辺りはザワザワとどよめいていて、たくさんの人に囲まれているような喧騒が耳に障る。
――わかりました、婚約破棄は受け入れます……。ですが、
ここはどこだろう、少なくともアパートの狭い浴室ではなさそうだが……。
「その上で言わせて頂きます。わたくしはこの場で、リーシャ・ルーチェを告発いたしますわ!!」
とつぜん、高らかに響いた声にパチリと目を開ける。
イノリの視線の先では、金髪縦ロールの少女が睨みつけるようにこちらを見上げていた。
よく見知った顔だ。ただしそれは、画面の向こう側で、だったが。
(悪役令嬢カタリーナ……?)
ツンと気の強そうな唇も、意思の強そうな紫の瞳も、つい先ほどまでプレイしていた乙女ゲーム『ディアマイプレシャス』に出て来るライバルキャラそのものだった。コスプレにしてはずいぶんとクオリティが高い。青いドレスも仕立てが良さそうだ。
(夢……? やだわたし、お風呂で寝落ちしちゃったんだ)
にしてはやけに鮮明な気がするが……。不思議に思って辺りを見回すと、そこにはカタリーナだけではなく、攻略対象の男たちが自分を守るように取り囲んでいた。
「リーシャ」
「えっ」
そしてすぐ真横から声をかけられて、ようやく自分が今どんな体勢かに気づく。メインヒーローである金髪の王太子が、こちらの腰に手を回して支えていたのである。
夢だとわかっていても、男性にあまり免疫のないイノリはブワッと頬を染めた。
(なにこれVR映像? にしても感触がリアルすぎるし、わたしゴーグルなんて持ってない……)
「彼女を拘束して下さい!」
「!?」
突然、カタリーナがバッと手をかざす。すると、群衆の後ろに控えていたらしい騎士たちが集まってきた。彼らはそのまま王太子からイノリを強制的に引き剥がす。乱暴に引き倒され肺の中の空気が押し出された。
「いっ……!」
「大人しくするんだ、この魔女め!」
「えっ、やだなに……っ」
その痛みでようやくこれが夢でもVR映像でもないことに気づく。その時、騎士たちが構えていたピカピカの盾が目の前に突き立てられ、イノリは目を見開いた。
そこに映り込んでいたのは、サラサラと流れるミルクティー色の髪をした美少女だった。翠の瞳を零れ落ちんばかりに見開いて、目の前の光景が信じられないと言ったように青ざめている。
息を呑んでおそるおそる首を左右に向けてみる。すると映り込む少女までがまったく同じ動きをして……ここまで来ると嫌でも認めざるを得なかった。青ざめながら胸の内で叫ぶ。
(わたし、リーシャになってる!?)
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