あるいは綾子嬢に捧ぐ最後の花束(2)
2、
こぢんまりとした船着き場に一艘の舟が細長い縄で繋げてある。狭い舟には三人の男女が乗っていた。動く影を見て水辺を眺めたが、蛇はどこにも見当たらない。緩やかな川の流れには蓮の葉の一枚すら浮いていなかった。
「ずいぶんと遅かったのですね」
真っ先に声をかけたのは気品ありげなおばあさんだ。誂えたように似合った着物姿と裏腹に、甘ったるい香水の匂いが漂っている。
対面のスウェット姿の青年は笑ってくれたが、横に並んだスーツ姿の中年男性は睨み付けてきた。焦げ付くような煙草の臭いが混ざって、頭がくらくらする。
三人は彼女とは違い、あるべき色彩がすっかり抜け落ちていた。古い白黒映画の中に迷い込んでしまった気がした。ここにあるすべては時を経て色褪せたのではなく、最初から彩色の施されていないと思われた。
「この子を迎えに行ったの。ワケありだから、あんまり突っつかないであげて」
「死んじゃったら何も無いと思うけど、ま、よろしくね」
優しげに微笑み、おばあさんが手を振った。青年は口調も明るかった。
「この子、自分の名前を覚えてないの。まっさらって素敵ね。みんな死人だし、なるべく仲良くしてあげてね」
「いいから早く出してくれ」
中年男性が口を開いた。肌の感じや、首筋の皺から、四十代後半にも見えた。よれよれのスーツに柄のあるネクタイが、これまでの生活をありありと想像させる。
「全部終わったのですから、慌てなくてもいいでしょう?」
「時は金なり。あと地獄の沙汰も金次第って言うでしょ。だったら時間は節約しなきゃ。三段論法だよ。時間とお金が同じなら、お金で時間を買えてもいいのにさ」
「あらあら、地獄行きのご予定なのね? そうそう、あなたはエンデの『モモ』を読むといいわ。孫にも買ってあげたの。とても素敵な本よ」
「えー。童話とか読む年じゃないよ、おれ。そもそも本とか苦手だし」
「『モモ』と聞いて童話だと分かるなら十分でしょう。この船の上は、むしろ『銀河鉄道の夜』を思わせるけれど」
おばあさんと青年が朗らかな雰囲気で語り合う横で、男性は舌打ちした。
「でも、こんな子まで船に乗るのね。若いのにお可愛そうに」
「サベツはいけないよ、お姉さん。タイミングだって選べないでしょ。死ぬことと年齢なんて無関係だよやっぱ」
「お上手、と言いたいところだけれど、無理があるわ。だいいちもっと若い方がいらっしゃるのだし」
「ばかばかしい。俺が死んだなんてありえない」
中年男性が船を軋ませて、それを彼女が鼻で笑った。
「自覚がなきゃこの舟には乗れないはずだけどね。そっちの二人は分かってる?」
「ありがたいことです。ちゃんと死ぬことができたのだから。そちらは」
「見てよこの色。あの赤い川も、あの紫っぽい空も、すげー綺麗だ。おれ、ここが天国だって言われても信じてたよ。あれでしょ、お盆とかに来るとか帰るとかの。うちのおじいちゃんにも会えっかなー」
中年男性は軽く座り直し、肩を動かしてスーツのずれを直す素振りを見せた。
「ねえねえ。閻魔様ってホントにいるの」
「ええ。いるわ」
「あなたの心に、ってオチだったりして」
彼女が相好を崩したのを見て、青年は子供のように頬を膨らませた。
「嘘ついたら舌引っこ抜かれるって信じてたのに」
「最近の閻魔様は小型で遠隔操作可能なのよ」
「嘘でしょ」
「さあて、どうかしらね」
彼らには名前があるから、満足したり不満を吐き出したり出来るのだ。
むしょうに息苦しくなって、はらはらと涙がこぼれた。おばあさんは憐憫に満ちた眼差しを、青年は先ほどと変わらぬ笑顔、中年男性は不気味そうに見下ろしてきた。
大きな胸の彼女が身を割り込ませた。
「舟を動かすわよ。それと、会話を楽しく弾ませてとは言わないけれど、せめて自己紹介くらいはしたら?」
「死んでるなら必要ないだろ。生きてるなら、お前の命令を聞く理由もない」
「うるっさいわね。あんまり騒ぐようなら舟から突き落とすわよ」
「お、俺は客だ!」
「あっそ。あたしはボランティア、もしくは委託された業者よ。なんなら公共事業とでも思っておいて。だいたい、渡し賃を支払ったのはあなたたち自身じゃないし」
「六文銭ってやつ? じいちゃんから聞いたことがあるよ」
「現代だと数百円かしら。観光地の渡し船より良心的な価格なのね」
舟が再び大きく揺れた。
「パスモなら持ってるけど、これじゃだめ? あ、万札もある。財布ごと持ってた」
青年が尻のポケットから長財布を取り出し、中身を開いて見せた。
「焼くときに誰かが入れてくれたかね。あたしが受け取っちゃうと賄賂になるから、実際にはもらえないんだけど」
「えー。だったら持ってても無駄じゃん」
すねたように口を尖らせるといきなり川に投げ入れようとした。
「待った待った、あっちでなら使えることもあるから。切符と似たようなものよ」
「ますます銀河鉄道じみてきたわねえ」
「不法投棄はやめてちょうだい。ようやく川が綺麗になったんだから」
彼女は声を高くした。
「しゃべりながらでも舟は漕げるだろ。自己紹介。するんじゃなかったのか」
中年男性が低い声で言った。
「少しの無駄は人生に必要よ。余分や遊びが無いとつまらない一生を送るんだ……ってもう死んでたわね。ごめんなさい」
中年男性の奥歯から音が聞こえた気がした。
「悲しい人生よね。ええと、たしか安田道次さんだったっけ」
「うるさい」
「違ったか。安岡道則さんだったかな」
「安井道夫だ。なんださっきから。俺のことを馬鹿にしやがって。ふざけんな。ふざけんなよ」
「死人に人権なんて無いのよ。ひとつ勉強になったわね、安井さん」
「俺、死んだよな。死人に鞭打って楽しいのか。くそみたいな終わり方で、こんな人生を送った俺をいじめてそんなに楽しいのかよお……」
最後はほとんど泣き声になっていた。彼女は別段感じ入った風でもなく、優しげな声で慰めた。
「大丈夫だって。生きてればいいことあるから」
「死んだんだろぉがっ。死んじまったんだろ。俺は。俺はよう」
「そうだったわね。ごめんごめん」
舟は川の流れに逆らうように、船着き場から少し離れた場所にずっと留まる。
安井さんは彼女にしがみついて涙を流した。豊満な胸に顔を埋める様子は、少し羨ましいとは感じつつも、ひどく滑稽な気分になった。
おばあさんは微笑を浮かべ、青年は目を輝かせて彼女の次の言葉を待っていた。