アイの代わりに(4)
4、
話すことが苦手なら聞けばいい。
出逢ったばかりの頃、先生が唐突に仰いました。寒さがすっかり和らいだ春の初め、桜がまだ二分咲きほどの、園内にひとの姿の少なかった時期のこと。
公園の奥まった場所にあるベンチに座る先生の隣に私も腰掛けました。
いくつもの言葉が費やされました。相手に気持ちよく話をさせるのが、会話を楽にする秘訣だよ。そもそもだね、心地よく語らせる補助に徹すれば、よっぽどじゃなければ会話は成立する。相手の話を一切聞かず、自分の言葉を押しつけるのは喋っているだけだ。それなら相手にしなくて良い。人間としてみていない証拠だ。会話とは、自分と相手が対話する意志を持って存在してこそ成立する、とてつもなく偉大な現象だ。
一通り話し終えた先生に対し、深く頷きました。一方的ではない。強制でもない。何より言葉には優しさがありました。先生には語る楽しさがあったでしょう。しかし告げられた言葉はすべて私のためでした。
いいえと答えられない問いには気をつけた方が良い。首をかしげる私に、先生はこう続けました。一方にイエスと答えることが、もう片方にノーを突きつけることになる質問の仕方だよ。
たとえば母親が子供に尋ねる。あなたはわたしの味方よね。父親も聞く。お前は俺の味方だよな。
本来どちらも味方なのに、答えてしまえば片方を敵に回さなければならなくなる。よほど機転が利く子供なら頓知の効いた解答を思いつくかもしれないが、普通は無理だ。どう足掻いても損になる。
問われた段階で何かを失うことが決定づけられている。何度もやられると選択自体を忌避するようになる。状況に流されて、自分から動かない人間が出来上がる。
どうかな。先生の言葉に私は頷くばかりでした。同時に気色の悪い感じが首筋あたりからつま先までを駆け抜けていきました。先生の透徹した視線によって、突然丸裸にされたように感じたのです。先生は首を横に振りました。
自分がされて嫌なことは相手にもしてはいけない。
そんな風に考えているはずだ。迷惑になってはならないと自己主張も少ない。決断は自分がするもので他人に強制されるものではいけないと思っている。世間は身勝手だよ。君が我慢している多くを他人は平気でする。君が良かれと思って黙ることを容易く口にして何ら痛痒を感じない。君は純粋すぎる。それでは生きにくかっただろう。世間は君が思っているより、ずっと無惨だ。彼らは優先されるべきは自分で、他者は世界の奉仕者であると信じている。
突き刺すような強い口調でした。
優しさとはリソースの再分配に過ぎない。限られた資産や資源、それは時間や労力といった目に見えないもの、精神的なもの、物質を含め、自分に使うべきものを分け与えているに過ぎない。持たざる者が優しさを分け与えるのは間違っているんだ。
苦しいと思っている人間が他者に優しくしようだなんて烏滸がましい。病気で倒れたり利き腕を怪我した人間が誰かのために食事を作るため無理をする。まともな性根なら作ってもらった側が気にする。
それでも優しくしたいなら分け与えるより先にパイを増やすのが良い。崩れそうな崖の上から落ちそうな者の手を掴んで引っ張ると一緒に転落する。
丈夫そうな樹木を探し、命綱で安全を確保してから助けるのがセオリーだ。二重遭難は誰も幸せになれない道なんだ。
理解しやすい言葉は何かと、どうにかして伝われと希う声でした。
先生に対し、これまでの人生について細かく語ったことはない。
先生は私の目を見つめ、私の言葉に耳を傾け、悩んだ末に、それを告げることを前々から決意していたようでした。
刃物にも色々あります。鋭利なメスで切り裂かれた気分でした。麻酔をして気を楽にさせてメスを入れて病巣を取り除こうとする。切ったからには縫合するまでが仕事です。先生はゆっくりと微笑みました。その、ぎこちない笑み。それから先生が辿々しく口にしたのは愛について。
愛。愛です。そんなものを公園のベンチに座ったまま真面目な顔をして話すだなんて信じられない。目の前を散歩をする犬連れの女性が通りがかり、子供が走り抜けていく。柔らかな日差しのなか吹き付ける風は緩やかで、涼しさと暖かさの合間を漂う。公衆の面前で愛について語られる。話しをする方もする方で、聞く方も聞く方です。雲間から射した光に手を翳しました。先生は真顔で、胸が締め付けられるようでした。溢れんばかりの気恥ずかしさに耐えて、悶えるほどの空々しさを振り切り、この場から逃げたくなる我が身可愛さを唇をかみしめながら押さえつけ、どうにか先生の話を拝聴しました。
愛とは。そう始まった先生の言葉は、とても丁寧でした。愛とは君が孤独ではないと教えてくれることだ。君について気にしてくれる。深く知ろうとしてくれる。そんな誰かがいれば君は愛されている。君がどういう状況にあるのか。どんな風に感じているのか。何を思っているのか。どうしたいのか。知ろうとする意志こそが愛だ。大勢と、どれほどの時間関わっていても誰も本当の君を知らないのなら君は孤独だ。愛されていないものは皆孤独だ。時々でも良い。ただ気にかけくれる。意思を尊重してくれる。本当にそのひとのためになることをする。そうすること。そうされること。それが愛なんだ。優しいひとは愛し方を知っている。自分がどうしたいかではなく、相手がどうして欲しいかについて考えることができる。愛するとは、それを懸命に探そうとすることに他ならない。しかし真に理解することは難しい。そのために努力を惜しまないからこそ愛は尊い。
自分以外の誰かについて知る。考える。思う。感じる。何かをしてあげる。そのすべてにコストがかかる。なにしろ人間は生きている限り、呼吸により酸素を消費し、食事と排泄によって栄養を消費し、社会性ゆえに金銭を消費し、思考にも行動にも寿命という残り時間を消費し、それに付随するありとあらゆる対価を、永久でも無限でもない人生から支払っている。優しさとは本質的には人生と呼ばれるリソースを他人に分け与えていることに他ならない。その行いを無駄ではないと信じるところに意味がある。双方が無駄ではないと確信できたとき、それは人生の無駄遣いではなく、大いなる愛の獲得となる。
これまで長い間、きっと君は愛のようなものに傷つけられてきた。愛情として行われた一切は、あなたのために、これだけのものを犠牲にしたと感じられただろう。違う。間違っている。愛は自分の責任でのみ発揮される。愛は決して奪うことはない。そうするための意志。そうするための行為。相手に必要なものを与え、対価を無理に求めない。それを愛と呼ぶんだ。話をしながら君の言葉を聞こうとはしない者。多くを望みながら、そこから自分の利益をより多く得ようとするもの。そんなまがい物に負けてはいけない。
先生は泣きました。涙を流しながらそこまで言うと、済まないと最後に小声で付け加えました。語りが聞こえてか、傍目には異様な情景が繰り広げられていたためか、通りがかった公園利用者たちが道を変えたり、遠巻きに避けていくのが目に入りましたが、私が抱いていたこの場から逃げ出したくなる気持ちはどこかに消えて無くなっていました。
不意に強風が吹いて、まだ咲いているとも呼べぬ半端な蕾から花びらが一枚、枝から離れて宙に舞いました。
薄い光に溶け込んだ桜色のひとひらは、くるりと輪を描いて、目を真っ赤にした先生の鼻の上にちょこんと乗りました。その様子があまりにおかしくて、私はそれまでの思いと全く無関係に、反射的に吹き出してしまいました。
先生は私の笑う様子を見て、ぱちぱちと目を瞬かせておりましたが、はっと気づいて花びらをつまむと、そのまま口の中に放り込んでしまいました。
空には青が揺らめいて、風はくすぐるように爽やかで、私たちは目の前へと駆け寄ってくる鮮やかな春の気配を、ただ二人並んで眺めていたのです。




