ながなきとり(7)
7、
来なかった。
部屋に戻ってくると、とおこさんが心配そうな顔で出迎えてくれた。
「顔が暗いけど、どうしたの。やっぱり寒いから?」
「とおこさん、教えてください」
「なにを」
面食らっていた。かまわず問いを投げかけた。
「好きになることにも、嫌いになることにも、理由って必要ですか。誰かを好きになれないって、おかしいことですか」
考え込む仕草があった。まじめに答えてくれようとしていた。
玄関先に座り込んで、とおこさんの答えを待った。
「昔、どうしてひとを殺してはいけないかって質問したことがあるの。勉強も学校も嫌いだったけど、一人だけ好きな先生がいてね。そのひとを困らせてみたくて、答えにくそうなことばっかり聞いてた」
「答えはどうだったんですか」
「殺人者とは一緒にいたくないからだって。誰よりも、自分は、己自身とずっとつき合わなきゃいけないから」
寂しそうに語られた。声は固かった。
「他の誰も知らなくても、自分はそれを知っているから」
革靴が視界に入る。よく磨かれているせいか、顔が映りこんだ。
自分の表情がよく見えない。
「先生は受け売りだって笑っていたけど。あたしはね、そのあと考えたの。その質問は他のことにも置き換えられる」
とおこさんは微笑んで、一呼吸置いた。
「人間は好きなことは続けたいし、嫌いなことは遠ざけようとする」
諭すように話してくれた。
「嫌なものをどんどん遠ざけていくと、最後に自分だけが残ってしまう。もし自分が嫌いだったら、もうどこにも逃げられない」
反射的に言い返す。
「わたしはとおこさんのこと、好きです」
「よりちゃん。もし嫌いな相手がいても、好きになる努力はしてみるものよ。相手のためじゃなくて、自分のために」
とおこさんは居間に向かった。慌てて追いかけた。
背けた顔は赤かった。ベッドの上でも見たことのない、羞恥に満ちた表情だった。
せがんで、とおこさんの思い出話になった。断片的に聞いてはいたのだが、まとまった形で語られるのはこれが初めてになる。
居住まいを正して、拝聴させていただきます、と床にぺたりと座った。とおこさんは椅子に腰掛けた。
用意してくれた紅茶のカップを受け取ると、うっすらと香りが広がった。とおこさんもカップに口を付けた。空気が落ち着くのを待って思い出話は始まった。
「たいしたことじゃないわよ」
「聞きたいんです」
長い嘆息ののち、とおこさんは天井を見上げた。
「昔ね、好きな男がいたのよ。結婚の約束までしたけど、死んじゃった」
部屋に男の匂いはしなかった。驚いたが、平静を装っておく。
「何年か前、よりちゃんを拾ったのと同じ日になるんだけど」
「あの雨の日ですか」
「そいつ途中で交通事故に遭ってね。待ち合わせの相手は、あたしだった。ずっと待ってたのに来なかったから、どうしたんだろうって不安になった」
とおこさんは顔をしかめた。
「待ち合わせ場所から動くわけにもいかないし、困り果てていたの。公衆電話からそいつの家にかけてみたけど誰も出ないし、こっちと似たような仕事してたから、そいつもケータイを持ってなかった」
頷き、話の続きを促す。
「用事があったんだ。遅れちゃうって思って、近くにあった伝言板にね、先に行くことを書いて、そのまま電車に乗ったんだ」
深くもたれた椅子が悲鳴を上げた。とおこさんは体重のかけ方を変えた。
「即死だったみたい。苦しまずに済んだはずって慰められたわ。でも後悔したの。最後まで待たなきゃいけなかった。そうすれば、あいつは来たんじゃないかって」
「そんなことは」
とおこさんは分かっていると言いたげに頭を振った。
「もちろん、そんなわけない。けど都合の良いことを信じるって人間の性よね。信じたいものしか目に入らない。他人の言葉なんか聞こえなくなる。そういうものよ」
とおこさんは肩を落とし俯いた。言葉は震えていた。とおこさんを見上げる。目を合わせてくれない。言葉だけを連ねる。
「自分が悪いんだって思えば思うほど、そいつの思い出がはっきり色づいて、全部が重くなってきてね」
部屋を見回す。隙間だらけの印象の室内を眺めて、懐かしげな声になる。
「大半の家具はそのとき捨てちゃった。恐くなってね。男もしばらくはいいやって。で、今に至るのよ。忘れたい過去になっちゃって。思い出すの苦しいしさ」
そこでやっと目を見てくれた。まっすぐ見つめられて、返す言葉に詰まった。胸が苦しくなる。
「とおこさん、ごめんなさい」
「聞かれたから答えたけど、話すのを決めたのはあたしよ。大丈夫」
目尻に光るものがあったが、とおこさんは隠さなかった。
心は目には見えない。本音は耳に聞こえない。形のないものが、確かにそこにあるはずのものが、遠かった。
そのままでは触れられないから誰しも回り道をする。
今なら分かる。失って初めて幸せだったことに気が付く。どんなこともあとになってからその意味を知る。
真実の中身など誰にも分からない。だからこそ生きていける。
喉の渇きを感じ、ティーカップを深く傾けるが、すでに空になっていた。これから紅茶を淹れ直す気分でもなく、話はそこで終わりになった。
とおこさんは早々と寝てしまった。
同じ毛布に潜り込み、寝顔を間近で見つめる。長いまつげが薄く濡れていた。
固く節くれ立ったとおこさんの指先は握りしめると冷たかった。
空いているもう片方の手の平で、やわらかなお腹をそっと触る。
呼吸に合わせて上下する膨らみは温かかった。安堵と不安、あるいは期待と予感が綯い交ぜになった気分に促され、目蓋をそっと閉じる。
父とした最後の会話を思い返していた。
黄金色の葉が左右に大きく揺れながら足下に落ちてくる。
風が強く吹き抜けた。身を切られるような北風の向こうに、うつろな表情で立ちすくむ彼を見つけた。
「お父さん」
そう呼びかけた。表情の変化に構わず先を続けた。
「どうして待つんですか。もう、一緒にいる意味なんかないのに」
「依子、帰って来い。お前はずっと誤解している。そうじゃないんだ。意味とか、そういうことじゃない。お前しかいないんだ」
何を言うのかと不思議に思いながら、続く言葉に耳を傾けた。
「俺も、あいつも、娘として大事にしていたつもりだった。たとえお前がそうは思わなくても、俺たちはそう接していたつもりだったんだ」
無言で待った。
「すまない。お前にとって、俺は良い親じゃなかったかもしれない。俺のことを父親だなんて思ってなかったのかもしれない。だけど、家族だった。そうじゃないか」
「謝って欲しかったわけじゃない!」
反射的に叫んでいた。はっとして口を押さえる。
「堂々と帰ってきていいんだ。こんな状態は良くない。分かっているだろう依子。お前を愛していた。お前に幸せになってほしいって、ずっと、それだけを考えていたんだ」
「本当に?」
彼の目に光が浮かんだのを見た。
「ああ、もちろんだとも」
しばらく考えて、笑顔を向けた。
「お世話になったひとに別れを告げてきます。荷物も持ってくるので、あの喫茶店で待っていてください」
「そうか」
本心から喜んでいるのが手に取るように分かった。
浮き足だった歩みと背中を見つめた。道をまっすぐ歩いて、振り返りもしない。そんな姿を目に焼き付けた。
その場から離れて蒼穹を仰いだ。目眩がするほど透明で寂しい世界だった。
自分にはここから飛び立てる力があった。だけど鳥かごのなかにはぬくもりと、飢えから守ってくれる優しさが常にあった。
獣に襲われることのない日々は、傷が癒えるその日までだった。
すべてを置いてゆく。あの部屋をいつか帰る場所と信じて。




