ながなきとり(6)
6、
強烈な日差しに目が眩む。揺らめく陽炎の向こうに見知った人影を見つけた。
大きな雲が崩れて、包みこむように影が落ちてきた。白と黒が混ざった地面の上で足が竦んだ。逃げたしたくなる気持ちを抑え、落ち着いて容姿を確かめた。
父だ。しかつめらしい顔で立っている。
目を見開いた。歩く速度を緩めた。なかなか縮まらない距離に苛ついていた。
「依子」
偶然見かけて後をつけたのか、興信所にでも頼んだかまでは知らない。どちらにせよ調べはついているのだろう。
「依子、話を聞いてくれ」
ヤスリみたいにざらついた声だった。
「悪かった。俺が、お前のことを信じてやれなかったことが理由なんだろう。依子。帰ってきてくれ。頼むから、帰ってきてくれ」
厳しい表情が張り付いている。父はなおも言いつのる。
「待っているから。俺は待っているから、戻ってきてくれ。お前は俺の娘なんだ。俺たちは家族なんだ」
額に流れる汗を拭うこともしない。その場に長い時間留まった。時折、制限速度を遙かに超えたスピードで車が通り過ぎてゆく。
交通事故の多い道だった。いまガードレールを乗り越えて車道に飛び出したら、父は命がけで止めるだろうか。すぐには動かず、あとになって悲嘆に暮れるのだろうか。
「夕飯のおかずを買って来なきゃいけないんです。通行の邪魔なので、どいていただけませんか」
「依子」
寒気がした。青白い顔がそこにあった。怖くなって、脇を通り抜けようとする。
「行かないでくれ、依子」
声が聞こえなくなる。振り返ってみると父の姿は消えていた。
帰り道、袋の中が黄色くなっていた。ひとの少ない路上を見渡し、提げた袋を持ち上げてみる。
被害は一個だけだった。Lサイズの無精卵だ。雛が生まれることは初めからあり得ないが、何か可哀相なことをした気がした。
父は頻繁に現れるようになった。マンションから降りて外に出ると、あちこちで父の立っている姿を見かけた。
場違いに黒い恰好は通行人の視線を集める。日に日にやつれていくような姿に無視を続けることが心苦しくなる。父は決してマンションの内側には入ろうとしなかった。
しばらく経ったその日、声を掛けた。
「引っ越したんですか」
近くの喫茶店まで歩いた。店内に入ると暖かかった。父は珈琲を頼んだ。
「ああ、この近くに借りたんだ。場所は」
「言わなくて良いです」
あれから近くまで行ったことがある。遠くから眺めた。家のあった場所は更地になっていた。瓦礫ひとつ落ちていなかった。土地ごと売ってしまったのだろう。
父は疲れ切った口調で頼んできた。何度も頭を下げられた。
首を縦には振らなかった。
母の話題は出てこなかった。話を振れば答えたのかもしれない。不穏な想像が脳裏を過ぎった。出された珈琲に口をつける。苦かった。
「依子。最近はどうなんだ」
「どうって、何が」
「お前のことを聞かせてくれ。せめてそれくらいは知りたいんだ」
「なんでそんなことが知りたいんですか」
「子供のことなら、なんでも知りたいと思うのが親だろう……どうした」
口を付けられていない珈琲が気になった。湯気は消えている。
「煙草、吸わないんですか」
灰皿を脇に寄せ、テーブルの木目に視線を落とす。指先は細かく動いている。
「辞めた。いや、吸えなくなった。何回禁煙しようと思っても出来なかったのにな。お前は煙草の臭いが嫌いだったよな。俺は、これで多少はマシになったのか」
「もう何もかもどうでもいいんです。そっちはさぞかし楽になったでしょう。馬鹿な娘がいなくなって。せいせいしたでしょう」
言葉を止められない。続けて口にした。
「わたしは馬鹿だった。これからもこのままです。他人が拾ったからって取り戻そうとしないでください」
余計なことだと知りつつ最後に付け加えた。
「今の生活が好きなんです」
何か言いかける父を手で遮り、引き留められる前に席を立った。
それから父はマンションの近くの道で一人待つようになった。
雨の日には傘を差し、風の日にはコートを着て、マンションの外で、出てくるのを待っていた。
不意に、凍えながら立ち尽くす父の寂しげな顔が、まるで知らない男性に思われた。諦めが胸を過ぎった頃、彼の求めに応じ、ゆっくり話しましょうと誘った。
時間の経過に従い、周期的に訪れる苦痛に対処する術はない。
苛立ちや眠気、不安と鈍痛。身体も気分も何もかもが重く感じた。しかし痛みはやがて消える。慣れるのではなく、元から作り替えられてゆく。どうしようもない感覚に、自分が人間であり、娘であり、女であることを否応なく思い知らされた。
とおこさんには何も言わなかった。




