ながなきとり(5)
5、
変化を受け入れるのは簡単だった。生活が変わって、やるべきことが減った。それだけでしかなかった。
家や両親、学校、そういった諸々を不思議なほど意識せずにいられた。
今も昔も鳥かごの中にいた。飼われるという言葉は的を射ていた。外敵から守られ、餌をもらって喜ぶ。これを当然として享受していた。
鈍色の鉄格子は鏡ではなく顔を映しても不確かな輪郭しか見えない。閉じこめながら外に出たいと渇望させる。過去にあったのは、そんな古びた鳥かごだった。
錆び付いた部分に羽が引っかかる。自力では身動きが取れなくなる。やがて飛ぶ力は衰えてゆく。飛ぶことを忘れた鳥は、小さく歩くことしかできない。
元々大空なんて知らない。不都合は無かった。
とおこさんの部屋は見知った鳥かごと似ていなかった。
いつでも出て行けるのなら、すぐに出て行くこともない。
家畜ではない。ならば放し飼いのペットらしく相応に振る舞うことが必要だった。精々嫌われないように努力する。愛想を尽かされないように出来ることをする。学校の勉強より余程やりがいがある仕事だった。
愛玩される動物は皆、自ずと努力している。可愛くない猫、従順になれぬ犬、良い声で鳴かぬ鳥。他者と関わらぬ人間と同じで、それらに存在する意味は無い。
まず、とおこさんが喜ぶことをひとつひとつ覚えた。快と不快が人間の判断と好き嫌いを最初に定める。嫌われてはいけない。好かれなければならない。
当たり前を受け入れる。
これがどれだけ難しいか。
色々と試して失敗して、日々をよりよくしようと、喜んでもらおうとお尻を振って、尻尾を振って、撫でられながら、時の流れる速さの違う毎日を過ごす。
綺麗事で人間が完結するなら、もっと気楽に生きられる。
とおこさんは鏡だった。見たいものを美しく見せて、見たくないものを上手に遠ざけてくれる、魔法のかかった鏡だった。
「よりちゃん、何してんの」
「料理しようかと思って」
怪訝な視線を向けられた。フライパンの上に炭の塊がある。さいばしで黒い物体を突きながら途方に暮れていた。
換気扇は全力で回転しているが、立ちこめた煙はなかなか出ていってくれない。
とおこさんは台所の壁に寄りかかり、疲れた声で指示をくれた。
「捨てちゃって。料理くらい覚えないとまずいでしょ。教えてあげるから、何をどうしてこうなったのかを事細かくしゃべって?」
言われたとおりに語った。とおこさんは俯いた。声をかけようとすると、顔を上げて真顔で言われた。
「学校で家庭科の授業とかあったでしょ」
「お皿を運ぶのと、サラダに塩を振りかける役割でした。お肉は良く焼かないといけないって聞いたので、じっくり焼いたんです」
とおこさんは吹き出した。しばらくそのままその場に座り込んで、立ち上がったときには笑顔だった。
「さすがね。よりちゃん、やっぱり天然?」
「違いますよ!」
「じゃあ、わざとなの」
「そうじゃなくて」
恥ずかしくなって頭を抱えた。
「いいわ。誰だって最初はそんなもんだし。さすがに米を洗剤で洗うとか、電子ジャーの釜を火にかけるとか、そんな漫画みたいなことはしてないでしょ」
黙り込んだ。とおこさんが口元を押さえる。
「まさか」
「さすがにそれはないです。ただ、ちょっとオリジナルのたれを作ってみようかと、ラー油とか酢とか、色々、考えながら入れたのがそこに」
深皿に溜まった液体は茄子色に輝いている。煙がすっかり消え失せた台所に、鼻を刺激する異臭が蘇った。とおこさんが笑顔で指さした先は流しの中だった。
「そっちはウサギの惨殺死体ね。死屍累累としか表現のしようがないし」
皿に横たわった赤い耳のウサギたちに元の面影はない。ナイフで皮を剥いたが、失敗してしまった。味見を提案するより早く、とおこさんから容赦のない指示が来た。
「さ、それも今すぐ捨ててちょうだい」
時の流れの穏やかさに、この日々が永遠に続くと錯覚する。
高所から振り返り、階下の景色に臨んだ。
マンション前の広い道路に沿って、葉のいくらか残った銀杏が立ち並ぶ。
小さな人影の行く末に黄金の水面が波打っており、風が運んだ揺らめきの隙間に無数の灰色が覗いている。空を映し込んだ地面もだんだんと夜を取り戻し、ため息混じりに顔を上げると、今度はオレンジ色が闇を溶かしていた。
冷たさが身にしみた。吐き出した息が通路の天井に向かって白く昇ってゆく。誘蛾灯の光に透けて一瞬だけ輝き、最後の色を失って消える瞬間を見つめていた。
凍えた身体を暖めたかった。なんでドアを開けるのを躊躇したのか、自分でもよく分かっていない。
先ほどまで街中を彷徨っていた。駅の構内や、デパートの中をぐるぐると回り、無心で歩き続けた。せっかく手袋をしたのに指先がじんわりと痛い。痺れてしまって、ふわふわとした頼りない感触が残っている。
音を立てないようドアをそっと開けたところ、居間が明るかった。他の部屋の電気は消されていた。玄関に上がると忍び足で寝室に向かった。
とおこさんは寝ていなかった。暗いなか、ベッドに腰掛けていた。似合わないクマのプリントされた黄色い寝間着姿だった。床に赤ワインを置いて一人で飲んでいる。遠くから滲む居間の光だけで過ごしていたようだ。
慣れた手つきでグラスを回す。透明な深紅が煌めいた。
「遅かったね。よりちゃん、もうちょっと早く帰ってくると思った。茄子を炒めて待ってたんだけど、なんだか待ちきれなくて先に全部食べちゃった」
「それは、ごめんなさい」
頭を下げた。
「でもわたしは飲めないって何度も言ってるじゃないですか」
勧められるけれど、都度断っていた。今日のとおこさんは酔いが回っているのか、怪しげな呂律で説得にかかる。
「心配したんだ。いつ、いなくなってもいいけど、さ。お別れのときはちゃんと挨拶してから出て行ってね。よりちゃんのこと、あたし好きだからさ。頼むから」
言葉を失う。本心から言われたと思った。反論の術もなく俯いたのと同時に、とおこさんは高らかに叫んだ。
「というわけで、飲もう!」
「未成年ですし」
「なにを今更ー。いいじゃんいいじゃん。気にすんなって」
光の加減で今まで気がつかなかったが、完全に酔っている。話が通じない。
「飲もうよ。ほらチョコレートもあるよ」
声の響きに胸が締め付けられ、咄嗟に頷いてしまった。直に座って、すでに用意されていたコップを受け取る。煙草と一緒で、お酒の味も、よく分からなかった。
初めて飲んだのは友人の家だった。そのときはウイスキーだ。喉が焼ける感じがしてむせてしまった。灯油やガソリンもこんな味なんだろうかと疑いさえした。
注がれたワインに口をつけると、大人になった気がした。甘いものは美味しい。それくらいの気持ちで飲み干した。とおこさんは笑った。意味のない微笑みだった。
「良い飲みっぷり。いやあ、杯を交わすってのはいいもんだねえ」
「そうですね」
ベッドの脇に、空になった一本の瓶が目に入った。
「んんー、おやすみぃ」
「はい、おやすみなさい」
とおこさんは満足そうに目を細めた。そのままベッドに飛び込んで、ごろんと転がり毛布にくるまる。
手に持っていたグラスは、いつの間にか邪魔にならない場所に置かれていた。
厚手の服を脱いだ。洗濯機をセットしてから部屋に戻った。折角だからもう一杯だけと呷って、とおこさんの寝ている隣にそっと潜り込んだ。
室内には暑いくらい暖房が効いていた。汗を感じた。アルコールで火照った身体には負担が大きかったかもしれない。
やけに鮮明な夢を見た。よく晴れた空の下だった。
交通量の多さで有名な場所だ。人の群れが列を成し犇めいていたその一番前に見知った背中が覗けた。行き交う車が速度を落とさない車道に人影が飛び出すと悲鳴に似たブレーキ音と衝突音、そこに本物の悲鳴が重なった。
二台目がはじき飛ばされた誰かを再び轢いて甲高い叫びが繰り返し繰り返し伝播してゆく。
信号待ちの集団がどよめき、騒がしさは怒号となった。折れ曲がった身体は痙攣し、続けて大量の血が地面に広がるのを待って、あたり一帯が急速に静まりかえる。その場から誰も動けずにいるのだが、ぶつかった車と轢いた車が停止して、ようやく事態が完全に把握される。
軌跡を示すように黒いブレーキ痕が続いている。未来を描くように赤に染まっている場所がある。焦げた匂いが一瞬で周囲に膨れあがり、クラクションの音がけたたましく鳴り響くなか、救急車と叫んだ女性の声に続いて、警察に連絡しろと叫ぶ男の声があり、事故現場に携帯電話を向けて写真を撮る子供の顔が覗く。三分の一が何かを早口でしゃべっている。三分の一がその場から離れてゆく。残りは何もせずただその場に佇んでいる。
人混みと車の隙間から、中心にある物体の顔が見える。
そこで倒れているのは誰だろう。わたしは、それを知ることはない。
気怠い朝の光が差し込んでいる。起きたくない。そう思いながらも無理矢理ベッドから抜け出る。
カーテンを開け放てば、車輪の擦れる小気味よい音がした。目の覚めた直後のとおこさんは丸めた手で眠たそうに目をこすっている。手はしびれている。とおこさんが小さく欠伸をして、唇を舐めようとした。
染みの出来た毛布が床にこぼれた。隙間から少し汗の臭いがした。
朝の挨拶を済ませて、その背中に問いかけた。
「疲れませんか」
切り替えの早いとおこさんだ。真夜中の出来事や一瞬前を思い返して無意味に恥じらったりはしない。服を着替えながら何事もなかったかのように答えてくれる。
余計なことに拘泥しない、さっぱりとした姿がいつも好ましかった。体中汗でべとべとでも、白いワイシャツ一枚羽織るだけで清潔感が生まれている。
今朝は少しそのシンプルさが羨ましい。
とおこさんは腕を真上に伸ばした。ブラを付ける前の乳房は柔らかく揺れた。痩せ細った身体が白い光に照らされて、爽やかな影が壁面に伸びていった。
「こういうのが楽しいのよ」
「そうですか」
「よりちゃんもオトナになれば分かるわよ」
その日、自分の手のひらを見つめて過ごした。
自然に笑う。自然に振る舞う。当たり前のことを当たり前に行うのはとても難しいことに思えた。
小さな違和感は繰り返すうちに埋没する。ひとに、日々に、生活に、社会に、続けていけばやがて自然として受け入れられる。
とおこさんのおかげかもしれない。そうではないかもしれない。今、当たり前の顔をして生きている。これが答えだ。
難しく考えなくても生きていける。そうやって生きていくことを許されている。
考えすぎることは悪癖だった。
愛情って何だろう。考えなければ前に進めていた。落とし穴なんか怖がらず、そんなものがあるなんて思いもよらず、どこまでも真っ直ぐに進んでゆけた。
でも、考えたら足は動かなくなる。正しい道を進まなければと思ってしまう。たとえ立ち止まっても思うこと考えることはやめられない。
「よりちゃんって正直なのよ。そういうとこ、すごく可愛いわ」
「そうでしょうか」
「言葉は足らないけどね。ちゃんと言ってくれないと、分からないこともあるのに」
曖昧に笑みを返した。
「素直が一番よ。その方が楽だもの」
とおこさんの垣間見せるものは、もっといびつで綺麗だ。
この身体は束縛されていない。自分の意志で行うことを、抗えない力で無理に禁じられることはない。
とおこさんはきらきらしている。綺麗なものは冒しがたい。触れてはいけない。大切に扱いすぎて、距離を置きたくもなった。この時間が一生続くわけもない。
もしかしたら、とおこさんよりも明確に捉えていた。
道は長いように見えて、それでも終わりはくる。永遠などない。道に隠された落とし穴にはまりこむことだってある。せめてここで踏みとどまっていようとした。落とし穴も終点も望みではない。
開け放たれた鳥かごだ。獣の爪にかかった鳥は、すぐさま大空に戻ろうとはしない。心地よい檻の中に永らく棲まうことは常に自身の意思に委ねられている。
ここは銀の庭。
傷ついた羽を休めるには、この上なく相応しい世界だった。
かまってくれないとき、とおこさんの視線を独占しているのはパソコンだ。
背中を見ると所作が目に入る。ほとんどマウスを使わないのが不思議だった。キーボードを叩く音が静寂を際だたせる。
表情は横から覗き込まないと窺えない。動きは落ち着いていて、後ろからでは一喜一憂しているようには思えない。きわめて淡々と行っている。
たまに腕が止まり、身じろぎ一つしなくなることもある。
とおこさんが外出することは希だ。そのうちに食料やら日用品やらの買い出しを任されるようになった。
「この生活って、不健康かな」
「不健全なのは間違いないです。昼間からやることじゃありませんし」
とおこさんは温かいのに、手のひらは冷たくて、とても気持ち良い。
荒い息は耳元をくすぐって舌の感触はざらざらとしている。薄暗い部屋は湿った声で満たされる。防音がしっかりしていると、とおこさんは自慢げだった。
「でも大声はあんまり出さないでよ」
「くぐもった声の方がお好みですか」
「ひとが何かを我慢してるときの顔って、好きよ」
「おしっこしてきます」
「だめ」
起き上がろうとすると、腕を掴まれて引き戻された。太ももをまさぐられて、身体の内側を少し乱暴に弄られて、声を抑えて、そのうちに頭が真っ白になる。一区切り付けて肩で息をしていると、とおこさんは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「よりちゃんさ、健全ってなあに」
「なんでしょうね。とりあえず身体、洗ってきますから」
「毛繕い代わりにあたしが綺麗にしてあげよっか」
「結構です。シーツも洗わないといけないので」
「そんなのいくら汚してもいいんだけどなあ」
休憩のとき、彼女は日当たりの良い窓際で座り込んで、しばらくぼうっとして、それからまたモニターの前に戻る。
その短い時間に寄り添う。とおこさんは寄り掛かかられても嫌がらない。甘えるようにその肩に頭をもたれると、むしろ喜んでくれるのを知っている。
とおこさんは雑誌や新聞にも毎日目を通すが、それ以上によく本を読んでいる。今手にしているのは白雪姫や赤ずきん、ラプンツェルなどが収録されたグリム童話だった。
「童話、好きなんですか」
「見えない?」
首を横に振る。とおこさんはため息を隠さなかった。
「よりちゃんはホントに正直ねえ。見てて可哀相なくらい」
本棚には絵本や童話、童謡から児童文学まで有名どころは大半が揃っている。
アンデルセン。ペロー。エンデ。手に取りやすい位置に置かれているのは知っているタイトルや作者名ばかりだ。
むしろ一般的な小説の方が少ないくらいだった。
この年になって童話を読む機会などないため、うろ覚えの内容が多かった。
「ヘンゼルとグレーテル?」
「チルチルとミチルよ。やっぱり勘違いしてたわね」
肩をすくめられてしまった。
「最初してたの、青い鳥症候群の話じゃありませんでしたっけ」
「その手の名付けは元ネタを知らないと意味がない、って話よ。共通点があるから混同するのも分かるけど、青い鳥を探しに行って魔女と会ったり、お菓子の家に辿り着くのは流石に詰め込みすぎでしょ。話のオチもそう」
言葉を先取りして、少し狙って組み合わせてみた。
「兄妹が道に落としたパンくずは、逃げ出した青い鳥が食べてしまったので、二人は永遠に家に帰り着くことが出来なかったのです」
「混ぜるな危険って書いておくべきだったかあ」
呆れ顔だったとおこさんに笑みが戻る。調子に乗って続けてみた。
「家に帰るとそこには青い鳥ではなく、青ひげが待っていました」
「なんだかね。ここまでにしましょ」
結局、青い鳥症候群の意味は詳しく教えてもらえなかった。なんとなく想像は付いたけれど、とおこさんとしては童話の中身を語り合いたかったらしい。
「でも、めでたしめでたし、で終わる努力は必要かな」
「何の話です?」
「そりゃ……お伽噺よ」
とおこさんは笑いもせず肩をすくめるだけだった。




