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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
ながなきとり

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ながなきとり(4)


4、

 歩き疲れて、ひしゃげたガードレールに寄りかかる。

 何人かに電話をかけたが、すぐに話を切り上げられた。携帯電話に入っている番号は多くない。話の合う友達の名前が並んでいる。

 何通もメールが来た。それとなく確認してくる者もいれば直接的な問いもあった。なるべく短い言葉で返信する。どう書いたところで結局は読む側の認識次第だ。長々と言い訳したところで信じないだろうし、真実かどうかを見分ける術は存在しない。

 事実はもはや問題ではなかった。文面から得られる情報は少ないけれど想像はつく。誰しも自分の正しさから目を背けることは出来ない。

 そこにあるものを信じるか、疑うか。いや、所詮は他人事に過ぎない。

 ふと思いついた。たとえばここで自殺したらどうなる。

 ノートを遺書代わりにして、ひとつひとつ書き連ねる。原因になりえた人間の名前をすべて書き込む。それから路上に飛び出して、車に轢かれて、そのまま意識が戻らず死んだなら。

 即座に頭を振る。くだらない妄想だった。結末としては最低だ。正気がかすかにでも残っていたらやれないし、そもそも効率的ではない。踏みとどまるべき道が続いていたら落とし穴に飛び込むことの愚かさが先に立ってしまう。戻れなくなる一線をそうと知りながら踏み越えることなどできない。

 それでも考えることはやめられない。

 たどり着いた崖の深さを思い知ろうと此方の足場をそろそろと進む。まっすぐな道を逸れると、どこかで途切れている。

 眼前には深い穴がうつろに広がっている。

 後戻りを考えたが飛び降りることしかできない。背後には獣が一匹、迫りくる。

 闘うべき獣はどこにいる。行くべき道はどこにある。思考を止めようとする。考えれば考えるほど無為な空想が深い虚無に飲み込まれてゆくのを感じる。

 想像を断ち切ることはかなわなかった。人通りがあったけれど邪魔は入らなかった。路上にひとり惚けている女子高生なんて、そんなに珍しいものでもないらしい。

 光の射す場所を探した。太陽は遙か遠くにあった。

 深淵から顔を背けた。ここから翼を広げ、あの晴れ渡った大空に飛び立ったなら、少しは気が晴れるだろうか。

 空想の翼は太陽に近づくどころか、宙に浮かぶことすらなく、あっけなく解体される運命にある。飛び立つ前にその欠陥は露呈し、当然に現実の無力をさらけ出す。

 暗い想像は思いの外楽しかった。自虐は数々の後悔をわずかに慰めてくれた。

 風が強さを増していた。どこかで消防車の甲高いサイレンが鳴るのを聞いた。不満げなクラクションが雨のように続いた。切れ間なく続く騒音の量に顔をしかめる。

 頬を冷たい風が撫でた。土の臭いのする、湿った空気だった。目を離した隙に空は翳っていた。いつの間にか太陽は厚い雲の裏側に隠れている。

 振り返ると赤く染まっていたはずの空も暗く滲んでいた。遠方から暗雲が立ちこめ、じわじわと腕を伸ばしてくる。

 もうすぐ雨が降る。傘を持っていなかった。ため息を吐いて重い腰を上げた。駅の方角に向かう。

 泣きたくなった。誰にも見られたくないから上を向いてこらえた。しばらく雲を眺めていたら、いつの間にか視界の滲みは薄れていた。

 雲の流れは緩やかだったが、さっきの明るさを嘘とするように見渡す限りが暗く描き直された。一枚の大きく分厚い灰褐色の壁が当たり前の顔をして天地を隔てている。

 光はそこにあるが手は届かない。分かっている。この身に降りかかったのは、傘を持っていなかった人間が逃げまどう、どうにもならない通り雨に過ぎない。

 不遇を悲しむのも、容易く嘆くのも、他人から執拗に責められることも、ただそれだけのことでしかない。

 問題は、これからどうするかだ。雨は降った。ひとたび起きてしまったことは元には戻らない。

 痛みはない。濡れたまま我慢できるわけではない。それでも、この場で全裸になることに意味はない。濡れなかった他人を羨んでも仕方ない。かといって他人に泥を投げつけて喜べるほど子どもではない。

 世の中はそういう形で動いている。分かっているけれど気力が湧かない。服が乾くまで待っているのは苦しい。風邪を引く可能性も考慮に入れなければならない。

 雨雲はすぐ傍にあった。通り雨はいまだ去っていない。喩えは今にも現実となろうとしていた。

 雫が足下に広がった灰色を黒に穿ってゆく。

 駅前に向かって駆け出す。雨雲に追いつかれるのは避けたかった。嫌な場所があることは忘れていなかったが、この道を進むのは自分の意志だった。

 誰かに泊めてもらえればと淡い期待をしたが無理だった。言い出せなかった。体よく断られることが分かっていて話を切り出すほどの余裕もなかった。

 家には帰れない。映画館や漫画喫茶で時間をつぶすことを考えてみた。シャワーを使いたかった。今も、ぬるりとした感触が残っていて気持ち悪い。

 財布の中には諭吉がいるし何日かは大丈夫だ。だがその後はどうするのだろう。時間が必要だった。少なくとも今は、今だけは、誰にも会いたくない。


 雨が駅前の雑踏と入り交じっていた。鬱陶しさと同時に安堵をおぼえた。

 東口の古びた屋根を通り抜け、広い階段を上り、薄暗い構内に逃げ込んだ。目印になりそうな銅像がある。

 人々の集まり方は疎らで、全員が思い思いの方向を向いている。

 目を瞑る老人がいた。文庫本を開く女性がいた。曲を聴きながら身体を揺らす若い男は、隣の中年男性から静かに睨まれていた。

 人待ちの空気から明確に拒まれていた。近寄れず大回りに通り抜ける。いつも使っている駅だ。こんなにゆっくりと見て回ることは今までなかった。

 伝言板の真ん中には待ち合わせの時刻と渾名、どこかで見たキャラクターがおまけとして描かれていた。右端には待っていてほしい。そんな文字が残されている。ひどいくせ字だった。これには名前も場所も書いていない。

 白チョークの跡から分かる。消されたのではなく最初からそれだけなのは、少し不思議な感じがした。

 誰でも書けるが誰でも消せる。おそるおそる周囲を見回した。無用な不安だと分かっているし、第一、これが今日の話だという保証すらない。それでも放っておくことは出来なかった。

 せめてひとり、この伝言板を見るひとが現れるまで。

 そう思った。


 柱に背中を預けてこの場所を観察すると、流れる人々と時間の群れに置き去りにされていくかのようだ。時折、携帯電話が鳴る。そのたびに淡い期待が蘇る。

 メールを開いた。文面のほうに意識が向く。両親に番号を教えていなかった。追い出したのは父の方なのに、開き直って家出をしたことになっていた。そして父が周囲に電話をかけまくっていると教えてくれる内容だった。

 ため息ひとつも出ず、携帯の電源を落とした。

 結局、誰も伝言板に目を向けなかったし、足を止める人間もいなかった。

 駅員の手に寄り、丁寧な手つきで、白チョークの痕跡は綺麗に拭き取られた。最終電車の時刻が過ぎた。駅の構内は閑散としている。ここに留まることは許されなかった。

 何人かの酔っぱらいが床に寝ころんでいる。

 脇をすり抜けて外に向かって駆けた。

 冷たい闇夜があった。雨が降りしきる、ひとのいない世界があった。

 何も見えなかった。傘もなく、冷たい雫は頬を叩いた。夜の雨の匂いがしていた。

 やがて光を見つけた。緑色のほのかな明かりだった。

 近づくと非常灯と読めた。

 つい先日潰れた店だった。窓ガラスの向こう側で、闇に包まれるように色白の裸体が並んでいる姿が目に映る。その表情は様々だ。にこやかであり、真剣でもあり、無表情でもある。そのすべてに共通するのはどこか遠方を見つめていること、そして服を剥ぎ取られディテールの存在しない性器と胸を露わにしていることだった。

 人形の視線の先に目をやったが、誰もいなかった。ただ雨の音に混じって車のブレーキ音が聞こえた。

 本物の人間を求めてその方角へと足を向けたが、乗りもしないタクシーには近寄らなかった。雨を遮るひさしから踏み出さず、オレンジ色の光を眺めるに留めた。

 また、とぼとぼ歩いた。行くべき場所は思いつかなかった。


 みにくいアヒルは白鳥にはなれない。

 何が本当で何が嘘だったのか。もう、どうでもいいことだ。

 他人の言葉で簡単に左右される程度の真実に意味は無かった。本当の家族って何だ。本当の友達って何だ。本当の自分って何だったんだ。

 分かりやしない。そんなもの。

 ホンモノでなくたって誰も困らない。疑わなければ幸福でいられる。同じように振る舞えるのならニセモノだって全くかまいやしない。

 獣のうなり声が聞こえてくる。雨の音に紛れて、その足音は聞こえない。

 暗闇の奥では仄明るく輝いている。瞳は爛爛と光を発していた。覗き込むと黒い雨の降りしきるなか、一羽の鳥が美味しそうに食べられている。

 小さな鳥だった。鳴き声もなく、抵抗もせず、バリバリと音を立てて食い尽くされようとしていた。地面に転がっているせいか全身泥まみれだった。

 可哀想なほど原形を留めていない夜色の小鳥。翼をもがれた無惨な姿で、飛ぶことはおろか歩くことすらままならない。雨が止んでも濡れたままの地面にいくつかの黝い影がこびり付いている。やがて獣が呆気なく消滅した後、そこには何も残っていなかった。所詮は幻覚だったのだろう。


 四方を閉ざす雨は強さを増していった。光は吸い込まれ、深い闇に困惑しつつも足を踏み入れてみた。冷たい水滴が前髪を伝って垂れる。そのたびに目は痛くなるが、代わりに頬の熱は溶けてくれた。真っ暗な場所を、こわごわと肩を落として歩く。誰もいない。もはや車も通らない。

 遠い明かりを頼りに進んだ。どこかに辿り着くためには歩くしかなかった。

 雨混じりの風に凍えて身を屈めるも、お腹の裏側、あるいはお尻の奥からこみ上げてくる冷たさに、膝の震えが止まらなかった。暗闇のなかで目を凝らしても色のない雨は見えることはない。服が肌にきつく張り付いて、まるで海の中にいるみたいだ。泡と消える運命の人魚姫でもないくせに、全身が水に触れていることはひどく気分が良かった。

 雨の中に足を踏み出した理由は、自分では分からなかった。衝動に背中を押されたとしか言いようがなかった。足は動いた。立ち止まっていると考えてしまう。すると重さがのし掛かってくる。前に進み続けなければ息も出来なかった。

 風が勢いを増した。体温を奪われてゆく。誰でも良いから助けて欲しかった。そんな都合の良さが、こうして雨のなかを彷徨う理由だと思い至り、そっと嘆息した。

 ふと雨がやんだ。

 空を見上げる。暗かった。何が起きたのか理解するまでに数秒を要した。差し出されているのは大きな傘だった。この紺色の遮蔽が雨から守ってくれていた。

 灰色の長靴、ズボンが張り付いた太もも、細い腰と昇っていって、最後に辿り着いたのは細い指先だ。風が強いせいで傾けると持って行かれそうになる。力強く握りしめているその手は小さかった。力の込められた指先の向う側に覗くのは、濡れた夜闇に塗れて魔女のように真っ黒な衣服で身を包んだ女が訳知り顔で見つめてくる姿だった。

「震えながら拾われるのは、たいてい子犬か仔猫って相場が決まってるんだけど。どっちでもなかったね。とりあえずうちに来なよ。風呂も貸してあげる」

 絶句していると彼女は困り果てたように言葉を探し出した。

「言葉、分かるかな? 顔は日本人っぽいけど、どっかのアジアのひと? キャンニュースピークジャパニーズ?」

 こみ上げるものがあった。自分が凍えていたことも忘れて、こう答えていた。

「アイムジャパニーズ……えっと……」

「喋れるじゃない。っていうか日本人なら日本語で返してよ」

 口を尖らせたあと、露骨なくらいの苦笑を向けられた。


 見ず知らずの他人についていってはいけません。

 昔そう教えられた。最近は子供に声をかけただけで逮捕されるらしい。

 街中で捨てられた仔猫よろしく凍えてみせたのだ。それでも厚意で声をかけてきたならむしろ疑う。ナンパと思えば想像の範疇になる。彼女の目的は後者だった。

 彼女は傘を投げ渡してくると、そのまま歩き出した。混乱をどうにか鎮めて軽快な背中を必死に追った。

 辿り着いた先は高層マンションだった。玄関先まで人と全くすれ違わなかった。エレベーターのドアが閉まる直前に二人で飛び乗った。

 一息吐いていたら顎から雫を垂らせたまま当然に聞かれた。

「高所恐怖症じゃないよね」

「一応」

「じゃあ行こうか」

 扉が開くと、長い廊下を迷うことなく進んでゆく。彼女が動きを止めた。ドアの右上に表札があった。読み方が分からない名字の下に、遠子という名前が続いている。

 黒塗りのドアを開き、彼女は振り返って微笑んだ。

「まずはお風呂に入りましょ。で、名前は」

「よりこ」

「よりちゃんね」

 名字は聞かれなかった。

「あたしは遠い子供でとおこ。覚えた?」

「とおこ、さん」

「そうそう。お互い名前で呼ぼっか」

 視線を外し、とおこさんは長靴をゆっくり脱ぎだした。


 張り付いた靴下に苦労していると、とおこさんが先に行ってしまった。

「お邪魔します」

「ほら、こっちこっち」

 ようやく脱げた靴下片手に追い掛けると、風呂場ではなく居間に辿り着いた。すでに服を脱いでいるところだった。

「あ、ごめんね。おばさんの裸なんて見たくないか。それより、よりちゃんも脱いだらかごに入れておいて。一緒に洗っちゃうから」

 冗談っぽく笑った言葉と裏腹に、下着姿は同性から見ても綺麗に思えた。視線に気づいたとおこさんは隠すでもなく、光沢あるピンク色のショーツを指先でそっと弄んだ。レースに沿って滑らせた指の動きは、どことなく卑猥に感じられた。そう感じる事実そのものが恥ずかしくなり、慌てて目を逸らした。

「高かったのよね、これ。見せびらかす相手もいなかったし。それより鞄の中身は? 女子高生でしょ。携帯電話とか濡れてない?」

「いいんです」

 やっと普通に喋れた。下着だけでなく、とおこさんの全身を盗み見た。意外にも、というと失礼かもしれないが、均整の取れたプロポーションをしていた。

「同性の下着姿に慣れてないってことは共学かな」

「分かるんですか」

「あたし女子校出身なのよ。教室とかで平気で着替えてたしね。それよりお風呂よ、お風呂に入ろ。肺炎にでもなったらつまらないでしょ」

「お言葉に甘えます」

 肌色が眩しいとおこさんの先導に従って廊下を引き返した。

 洗濯機が見えた。洗面所を通り抜けた先に浴室があった。ようやく感謝したい気持ちになった。

 かごはとおこさんが居間から持ってきた。水を吸った黒い服が先に入っている。そこにまず着ていた服を畳んで置いた。ハンカチもついでに入れた。

 替えの下着は持っていなかったと気づいた。乾燥機を使う許可を先に貰っておくべきだったと反省する。一瞬躊躇してから、下着に手を掛けた。

 足ふきマットの上に立ち、ブラのホックを外した。他人の家で裸になることに抵抗が無いわけではなかった。浴槽にお湯が張ってあるおかげか、全く寒くなかった。勢いで薄いブルーのショーツも脱いだ。

 後ろで、とおこさんがかごを回収し、洗濯機に向かうのが分かった。何も言われなかったことに安堵しながら、薄い磨りガラスの戸をそっと引き開ける。

 全身にボディシャンプーを塗りたくったあと、勢いを強めたシャワーで上から下までを丹念に洗い流した。それから少しずつ水の温度を上げて、こびりついたすべてをかきだすように、指に、脇に、へそにと、手を動かし続けた。排水溝に流れ込んだ一日の汚れを見下ろして、それがすっかり消え去ったのを確かめると、安堵の息を吐き、ようやく浴槽に張られた湯につま先を入れる気分になった。

 ほんの僅かに感じるアイスクリームの香りは、入浴剤だろうか。肩まで浸かると、今日という一日が自分ごと溶けていく気分になる。勢いよく手を沈めて少し経つと、細かな泡が一斉に胸を昇っていった。

 水面に顔が映り込んだ。痛々しい腫れ具合だった。痛みはまだある。そう容易くは消えてくれないだろう。足を伸ばせる広さがあった。脱力して底についたお尻を滑らせ、ゆっくりと沈んでゆく。頭まで潜ってしまうと当たり前だけど息苦しくなる。

 まぶたを閉じた。そのまましばらく息を止めた。

 一秒、二秒、三秒と落ち着いて数える。何も考えないことは難しかった。でも空っぽになりたかった。


 ガラス戸の外から声が聞こえた。人影がうっすらと動いていて、タオルを持ってきてくれたらしかった。お願いしますと声を出したところ、戸が引き開けられた

「えー、なにー」

 入ってきたとおこさんの裸体を凝視してしまった。まったく隠す気配はない。

「なんで」

「あたしも濡れちゃったんだけど。なに、風邪引けって?」

 そこで話を切り上げ、とおこさんはクリーム色の浴室を見渡した。やわらかな照明が裸を穏やかに照らしている。シャワーを使ってさっと身体を流すと、顔を寄せてきた。

「良いお風呂でしょ。あ、ちょっと足避けてくれる? ええ、ありがと。あとで背中流してあげるから。若いっていいわねえ。綺麗な肌」

 咎める術はなかったし、その気にもならなかった。沈黙は肯定と受け取られ、自由に腕を触られたり膝を撫でられたりした。浮き上がったあばら骨に沿って指先が這い、とおこさんは反応を確かめながら、楽しそうな声を挙げた。自分の手ではありえない滑らかな感触に、背中がぞわりと粟立った。拒絶の言葉を吐き出すことはしなかった。

 上から下へ。手つきは優しかった。されるがままに受け入れた。

 とおこさんは笑いながら良い子良い子と弄ぶように口にし、お腹をくすぐったり、髪を指で梳いたりしてくれた。さすがに二人一緒に入るには狭いお風呂だったが、抱きしめられていると、ゆりかごの中にいるようだった。

 重なった体温に揺蕩っていると、何もかも気にならなくなった。


 時刻が目に入った。九時半。壁掛けの時計から視線を外す。締め切られたカーテン越しに白い光が差し込んでいた。昨晩のことを思い返し、そっと息をついた。

 穏やかな声で聞かれた。

「どうしたの、暗いため息なんかして」

「いえ、別に」

 部屋の外にある鞄を見た。廊下の隅に新聞紙を置いて山にしておいた。その黒山の上に鞄が我が物顔で鎮座ましましている。

 お風呂上がりに思い出し、濡れた制服は鞄から出してすぐハンガーにかけた。他の中身は取り出さなかった。そのまま寝室で朝まで過ごした。

 とおこさんは何かを理解した口ぶりだった。

「ケータイでも入ってた?」

「入ってましたね」

「他にもあるんでしょ。見せて見せて」

「えっと」

 ベッドから抜け出して廊下に出た。寒い。震えながら急いで寝室へと戻る。

 鞄をひっくり返した。手袋代わりの軍手、筆記用具や小物、何冊かの教科書がバラバラと落ちてくる。中身は無事だろうが箱は例外なく全部つぶれている。五百円引きのクーポン券とノートは濡れてよれよれとなり、教科書は見事に全ページ張り付いていた。変な形がついている。めくるのも面倒だった。

「それって現文かしら。ああ懐かしい。あれよね。よりちゃんって、ゆとり世代ってやつでしょ」

「あんまり覚えてないです」

「あ、こんなものまで持ってる。悪い子ね」

 何がそんなに面白いのか、色々見られて笑われた。悪寒がする。今日も学校は当たり前に始まっている。自分が今ここにいる理由を考えようとした。

「制服着てるとこ見せてよ」

「ええと」

「もう乾いてるんじゃない? この部屋、換気出来るようになってるし。ずっと暖房入れてたから」

 一部染みはあるが、全体としては白いシーツに、とおこさんはくるまっている。

 言われるままに従った。済し崩しに裸も見られた。いろいろ触られた。

 恥ずかしがるには今更だった。素直に制服を手に取ると、そのまま袖を通した。湿っぽさ以上に、直接着ると違和感が少しあった。

「かわいい。やっぱり若いって良いわね。あたしなんかコスプレ扱いされちゃうもの。よりちゃんは年いくつ?」

「十六です」

「もう三年生かと思ってた。最近の娘は大人びた雰囲気あるわね。雨の中で濡れてた姿なんて」

 とおこさんは少し切なげに息を漏らした。

「濡れた瞳ってなんであんなに綺麗なのやら」

 状態を確認する。携帯電話の電源が付かない。裏のふたを開けると電池のパックが赤くなっていた。筆記用具の袋を開けてみる。ボールペン、シャープペンが二本、それから角の丸くなった消しゴムが転がり落ちた。

「耳のない猫ってドラえもんに見えるわ」

 手に持った消しゴムについてだった。

「実用向きじゃないのよね。丸々残ってると使うの躊躇っちゃうし、いざってときにも形のせいで使いにくいし、しかもあんまりちゃんと消えないし」

「かもですね。わたしは使ってますけど」

「シャープペンの上と同じ材質かしら。昔キン消しってあったけど」

「キン消しって?」

「知らない? キン肉マンの形をした消しゴムがあったの。流行ってたのよね。まあ、やっぱり消えないんだけど」

 とおこさんがようやくベッドから這い出してきた。

「最近の女子高生って煙草吸うの?」

「わたしは吸わないです。煙で吐き気がしますし、くらくらしますし、何よりヤニの匂いがつくの嫌なんで、吸ってる人間の近くにも寄らないようにしてます」

「良かった」

 とおこさんはぺたりと肩に頭を付けて、囁いた。

「お互い、相手にとって何が不快かは先に知っておいた方がいいでしょ」

 ふふっと笑い声を漏らす。

「あたしは寂しい。よりちゃんは居場所が欲しい。ギブアンドテイクね。一人暮しのわびしさを紛らわすの。ま、最初は猫とか犬のつもりだったけど」

「飼われるんですか、わたし」

「そういう趣味なら、そうする?」

「普通がいいです」

「そうね。普通でいることは、きっと素敵ね」

 歌うように口にして、とおこさんは、にっこりと笑った。


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