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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
ながなきとり

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ながなきとり(2)


2、

 とおこさん。漢字で書くと遠子。とおこであって、とうこではない。

 ニュアンスの違いをたびたび指摘された。あるときひらがなでイメージすると呼びやすいと気がついた。それ以来否定が戻ってこなくなった。

 一回だけ、とおちゃんと呼んだことがある。ものすごく嫌そうな顔をされた。その日の夕飯はおかず抜きだった。

 顔立ちは凛々しく、見た目からは普段の子供っぽさは微塵も感じられない。

 とおこさんが前を向いているとき、乱暴に括ったストレートな後ろ髪が特徴的で、その長い黒髪に憧れたものだ。

 とおこさんは華奢だ。そのくせいつも大きめのシャツを一枚だけ着ている。ぶかぶかのワイシャツをそのまま羽織ると、とても恰好良く見える。

 仕事中、横顔が覗くときがある。このときの表情は主に二つに限定される。

 口を尖らせているか、口の端が持ち上がっているか。

 前者は仕事が順調でないときで、後者は上手くいっているときだ。唇をへの字に結んでいる場面に出くわした場合、近寄らないのが賢明だった。ヒステリーのぶつけどころになりたくない。

 冠被った君子、危うい李下に近寄らず。うろ覚えの言葉を、ご機嫌なときのとおこさんに向けて告げたところ「欲張りねえ」と笑われた。

「小さなつづらと大きなつづら。よりちゃんなら、どっちを選ぶ?」

 しばらく考えてから答えた。もし答えを知らなければ散々迷った挙げ句、最後には必ず間違えたほうを選ぶとも言い添える。

「どうして」

「そういう性分みたいですから」

 拗ねた答えに何を思ったのか、しばらく経って忘れたころ、とおこさんは小さな箱をプレゼントしてくれた。

 二重に包まれていた箱を開けると、縦長の消しゴムが出てきた。可愛らしい猫のキャラクターだ。指でつまむと少し憎らしい顔をしている。

 お礼を告げると、とおこさんは頬を人差し指でかいた。

「大きい箱も用意しようかと思ったけど、ま、こっちだけでいいでしょ」


 とおこさんを眺めるのが日課だった。

 毎日、少しだけ曲がってはいるが、どこか綺麗な稜線めいた姿勢でキーボードを叩く後ろ姿がそこにある。指先の動きは熟練の職人を思わせた。

 日がな一日続けるというわけではなかった。

 休憩は取るし丸一日何もしないこともあった。ただ、あまり外には出なかった。それでも生活に困る様子は無かった。

 趣味なのかと尋ねれば、仕事だと一言で返された。あまり邪魔をしてくれるな、という意味合いらしかった。

 彼女の性格上いるだけで邪魔なら部屋から追い出す。そんな認識もあったから、仕事中はなるべく喋らないよう気をつけた。せいぜいそのくらいしか出来なかった。離れたくなかったから本を読むことを選んだ。さいわい読書のネタには困らなかった。

 部屋に入ると本棚がまず目に留まる。物置や寝室にも本棚が並んでいるくせに、他には小さなタンスくらいしか置いていない。必要最低限の家具しか見当たらなかった。

 この室内を満たす透明な空気と似たものを知っていた。通っていた高校の期末テスト中の雰囲気とそっくりだ。

 嫌なことなのに鮮明に思い出せるのはどうしてだろう。嫌なことだったからこそ忘れられないのか。

 私語を禁じられている場所特有の厳粛な雰囲気は、以前と違い心地よかった。厳しいルールの中に通底する意図を思い起こさせてくれる。

 静寂は弛緩している。ここには緊張を呼び起こす靴音など存在しない。息づかいは二人分だ。絶え間ない打鍵の響きがほどよい緊張感をもたらしてくれる。

 ページをめくる薄い音は、時計の針が動くかすかな機械音と入り交じり、時折どちらからともなく台所に向かう足音、急須やポットにお湯を注ぐこぽこぽという間の抜けた膨らみと重なることで、温かくふんわりとした空気を作り上げている。


 とおこさんと出逢う前、どこにいたのだろう。

 在りし日の自分について考えるのはなんだか妙に気恥ずかしい。

 自分探しをしたいわけではない。青春めいた甘酸っぱい感傷であれば幸福な思い出とセットで語らねばならない。記憶の中に探したい自分なんて最初からいなかった。

 とおこさんは写真を撮ることが嫌いで撮られることはもっと嫌がった。部屋の中にアルバムのたぐいは皆無だ。写真一葉すら残っていない。

 分かりやすい記録は手元に無いが思い返すことは難しくない。記憶の情景は巨大な布とよく似ている。赤や黄色に彩られた複雑な格子模様の、歪で美しいタペストリー。

 これまでは決してまっすぐではなかったが、それでも今へと続く一本の糸であることは間違いない。曲がりくねった道を辿り、歩く最中に目を逸らしていたことをこの機会に考えてみる。

 ほら、いつしか埃まみれになったいつかどこかの宝物。大切に奥底にしまい込まれたそれは他人にはゴミとしか見えないこともある。時を経て、遠ざけ忘れてしまえばやがて自分でも大事だとも思えなくなる日が来る。その前に外気に触れさせるだけだ。

 もしかしたら元からガラクタだったのかもしれない。

 日々が始まった瞬間は、わけもなく怖かった。今でも畏れは消えていない。偶然は何食わぬ顔で平穏を破る。これを知った瞬間から怯えを忘れられずにいる。

 少しずつ、けれど確かに糸はほつれてゆく。断ち切られ、根拠もなく強靱なものと信じていた日常が何かの契機でひっくり返る。

 この両目で見た。砕かれた欠片は元には戻らない。燃え尽きたものは灰に、あるいは無になる。もはや同じかたちを取ることはない。そう知った。


 拾われる前、依子と呼ばれていた。

 名前は不思議だ。名付けられる瞬間、自分ではどうしようもない。

 面倒な手続きを経て変えることは出来るかもしれない。しかし後から変更することに何の意味があるだろう。生まれてから初めて手に入る自分だけのもの。自分そのもののくせに他人に使われるもの。己でありながら、決してこの手で触れ得ぬもの。

 小学校、中学校と塾通いの日々だった。夜遅く帰ることは多かったが、必ず玄関で待っていてくれる父が好きで、大好きで、夜寝るときはいつも一緒の布団だった。

 今の父はあまり好きではない。以前の父と違って一緒に寝たいとは思わない。それでも妙に距離を取られると何か悪いことをした気になる。

 公立の高校に入学した。大学進学を見据えてのことだった。

 勉強にも学校にも強い嫌悪感を抱くようになった。禿げた教師の的外れな説教が耳障りだった。甘ったるい声で男子に媚びる女性教諭の授業は聞いていられなかった。

 好きなものもあった。可愛くて珍しい猫のキャラクター。みんな出て行ったあとの体育館の静寂。マゼンダとシアンの入り交じった帰り道の空。そして数人の友達。

 彼女たちは仲間だった。学校に毎日通う理由は、みんなに会えるからだった。

 黒板に大きな落書きをして次の授業の担当教師に怒られたり、担任に進路希望のことを尋ねられてまだ考えていないと叫んで全力で逃げたりした。

 本当に悪いことはしなかった。そう思う。誰にもある経験、ちょっとした背伸びに過ぎない。こそこそ隠れてお酒を飲んだり煙草を吸ってみたりするのと変わらない。

 もちろん大っぴらに話すことじゃない。大人ぶりたい年頃だっただけ。子供の頃から抵抗はなかった。一番慣れていたおかげで、みんなからの尊敬を一手に集めていた。

 学校は決して楽園ではなく、かといって社会の縮図ですらなかった。

 もう高校生なんだからと論った教師が翌日、まだ高校生のくせにと責め立てる。彼らの視線の先に宙に浮いた自分を見つけてしまう。その不安と楽しさを仲間と共有することで何もかも気にならなくなった。みんな、何もかも他愛ない遊びだった。


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