ながなきとり(1)
1、
「出て行くことにしました。いきなりでごめんなさい」
寝室から出て来たばかりのとおこさん、その目を丸くさせた。
「手伝おうか」
「いえ。これは自分でやらないと」
「うん、それはとっても良い心がけね」
含みのない口調だ。脱ぎ散らかした服を手に、とおこさんは笑った。荷物はそれほど多くなく、僅かばかりの思い出ごと手早く鞄に詰め込んだ。二人一緒に顔を洗い、歯ブラシを片付けて、お互いの髪を梳いた。
「髪、伸びた?」
「かもですね。じゃあ、そろそろ」
一度立ち上ってしまえば、玄関まではあっという間だった。
来たときと同じように丈夫な鞄を手に持って、ここを去るのだ。
マンションの一室らしい廊下の狭さ、手を伸ばせば届く位置にある白熱電球、ちょっとだけ涼しい空気、これらを眺め、感じながら、ゆっくりと通り過ぎてゆく。
足音が聞こえた。振り返らないでいると気だるげな声で呼び止められた。
とおこさんの声は不思議だ。暖色の柔らかさがあるのに、どこか青く澄んでいる。陽射しが強い春の空と似て、流れ来る雲をそのまま抱き留める優しい声だった。
「見送りはしてもいい?」
「それくらいなら」
つばを飲み込み、やっとの思いで言葉を返した。今どんな顔をしているのかを見られたくなかった。
ゆっくりと玄関先で屈む。横に並んだ少し大きめの革靴、そのつま先の汚れが少し気になったが、立ち上がった勢いのままドアノブに手を掛けた。
黒塗りのドアが重く感じられた。正面に映った影が濃さを増した。
「この生活が嫌になった?」
部屋の前は吹き抜けになっている。ドアの隙間から凄まじい音がして、一瞬だけ呼吸が出来なくなった。ドアノブに手をかけた姿勢のまま前に沈んだ。
頭をよりかからせるようにしてドアに体重を預ければ、風の唸りを言い訳に、少しの猶予を手に入れた。
「嫌じゃなかったです。とおこさんと一緒にいるのは楽しかった。けど、分かっちゃったんです」
「分かっちゃったんだ。じゃあ仕方ないね」
「はい。仕方ないんです」
開け放つ手と抑える力が均衡している。
早朝にやっていた天気予報で今日は晴天だと言っていた。事実カーテンを開けて覗いた窓の向こうはくっきりと晴れ渡っていた。不意に一羽の鳥が、空の青に溶け込まぬまま悠々と舞い踊り、緩やかな楕円軌道を描いて遠ざかるのを見た。
「とおこさん、仕方ないって言葉、嫌いじゃなかったですか」
「うん、嫌い。やっぱり、どうしようもないことってあるじゃない。寂しいけど、よりちゃんの決めたことだからね」
とうとう振り返ってしまうと、途端に瞳を覗き込まれた。
「勝手なもんよね。でも、誰しも他人の都合で生きてるわけじゃないから」
突然風がやんだ。ドアを開けさせまいとする強い負荷が消滅し、引きずり出されるようにして外へと運ばれた。懸命に踏みとどまろうとするが、バランスを崩して仰向けに倒れかけると、いつかのように素早くとおこさんが腕を掴んでくれた。
もう少しだけ。漣のように聞こえる音を無視して、深々と頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
「ん、どういたしまして。ね。お願いだから無理はしないでね。今は大丈夫そうに見えるけど、最初見たときは怖いくらいげっそりしてたし」
「ひどい。わたしが太ったみたいな言い方して」
頬を膨らませて笑いながら言い返す。
「心配なのよ。よりちゃんのこと大好きだから」
ずっと声を聞いていたかった。まぶたを閉じると色のない優しい光を感じる。
手を放されて目を開ける。鞄の取っ手を握りしめ、そっと息を吐き出す。
「とおこさんってずるいです」
言いかけて胸が詰まった。向けられた表情は、あまりにも優しかった。滲んでぼやけて確かなのは輪郭だけなのに、はっきり分かってしまう。とおこさんは大人だった。
ずっと、いつまでも、そうだった。
「本気で泣かないの。女の子が人前で鼻水垂らしちゃだめよ。まったくもう。よりちゃんたら、そういうとこむだにかわいいんだから」
「ムダってひどい」
「むだよ、むだ。泣き落としなんかされなくても、めろめろだもの。あ、めろめろって最近じゃあもう死語なのかしら」
俯くと回り込んで抱きしめられた。まわされた腕は少しだけいやらしく動いて胸を押しつぶしてくる。とおこさんは、どんな表情なのか見ることは許してくれなかった。代わりに空いていた方の手にハンカチを握らされた。
「これ使って、しっかり顔を拭くの。笑った顔を見せてちょうだい」
囁かれた声はいつも通りだ。かなわないなあ、と思う。
「出て行くのは止めないから。最初よりちゃんを拾ったとき約束した通りにね。ま、なんにしても頃合いかな。お互いに情が移ったくらいで別れた方が、あとあと思い出深くもなるってものよ」
腕から解放されて、渡されたハンカチをそっと広げる。遠慮せずに顔を拭くと鼻水がついてしまって、今度は折りたたんでから目尻をぬぐう。
「そういう言い方って、とおこさんらしいです」
「ありがと」
沈黙のあと、何もかもが途絶えた真っ白な静寂も長くは続かなかった。ありふれた現実の感触が蘇り、ここがマンションの廊下であることが思い出された。
先ほどまであった永遠への憧れ、ほのかな甘美を含んだ空気は、引き返してきた風の鋭さと、そこに混じった朝食の焼き魚の香り、弾ける幼い笑い声、階下から聞こえたドアの開く音、続く見知らぬ誰かの気配によってあえなく踏み散らされた。
部屋の中でするべきやり取りだったと、ほんの少し後悔した。とおこさんが、からかうように耳をくすぐった。
「そのハンカチあげる」
「いりません」
慌てて言葉を直した。
「じゃなくて、洗って返します」
「返さなくていいわよ。っていうか、ぜったい返さないでね」
心底嫌な顔をすると、とおこさんが笑った。
「冗談よ」
「とおこさん。色々ありがとうございました」
「いつか恩返ししてくれるのを待ってるわ。なんだったら毎月一回、宝くじを十枚くらい買って送ってくれるとか」
「夢がありますね」
あははと声を上げ、ハンカチをかるく持ち上げた。
「考えておきます。じゃあ、またいつか」
「ん。またね」
最後に一度、とおこさんの顔を見て、向う側へと歩き出した。
頭の中で火花が散った。強烈な光が視界を皓皓と染め上げた。
一度、何もかもが消え去った。
どう歩いたのか記憶にない。あの部屋から廊下を進み、そのまま一階まで降りて管理人室の前を横切ったらしく、気づけばマンションの外にいた。目が慣れるに従って新しい眩さに白と赤が混じり、それに遅れて濃緑の確かな輪郭が鮮やかに蘇る。
土埃の香りがした。
胸の空隙を抱きしめる。残ったのは、ほのかな熱と冷たさの両方だ。時の流れに従い薄れゆくことを運命づけられているが、完全に消えるにはまだ猶予がある。
未練がないと言えば嘘になる。まぶたを閉じた。
風は途絶えている。
遠くマンションの階段を降りる足音が聞こえた。ステンレス製の手すりが銀光を跳ね返している。角度によっては四角い檻、あるいは尖塔とも見える建物だった。鈍色の壁に沿って影が滑り、翼を広げた鳥が空を昇ってゆく。影は他には見当たらなかった。
時は待つには長く、振り返るには短い。そして追い掛けることは出来ない。
反芻しながら、とりとめもなく考える。あたたかな流れが好きだった。日常の合間にふと訪れる優しい瞬間に寝そべっていたかった。
とおこさんといると、そんな一瞬がよく訪れた。
彼女は日中のほとんどを居間で過ごし、でなければ机に向かって作業をしている姿ばかりだった。
何かの折に動くたび、老いた椅子がぎこちなく軋んだ。時計と同じで慣れてしまえば音も動きも、すぐに気にならなくなった。
近くで本を読んだり一緒に昼寝をしたりもした。お茶を淹れることは楽しかった。いつだってあの部屋は凪いでいた。静かなお城に暮らしているようだった。
茨の森に囲まれてお姫様の真似をする。糸車で指を差したわけではないけれど、微睡んでいて、ずっと夢の中にいた。
足を止め、羽を休めて、目を瞑って、そうやって何もかも忘れていられた。




