第5章:探されていた朝
品川駅の改札を、乃依はいつもより一本早い電車で抜けた。まだ薄い朝の光がホームの床に長く伸び、人の流れはいつもより少なかった。乃依はその隙間を縫うように歩いた。
夏の終わりを告げる湿り気がまだ朝の空気にわずかに残っており、いつもより静かなホームの空気が乃依の胸にも同じ静けさを運んでくるようだった。
電光掲示板に表示される到着時刻の数字が規則正しく切り替わっていく。その機械的な規則性だけが、乃依の乱れた気持ちとは対照的に、いつも通りの朝を証明していた。
柱の陰に透青の姿はまだない。当然だった。いつもより早い時間を選んだのは、乃依自身だったからだ。
ホームの端に立ち、電車を待つ間、乃依は落ち着かない気持ちを持て余していた。いつもの朝なら、この時間はもう透青の声を聞いているはずだった。柱の陰を無意識に何度も確かめてしまう自分に乃依は小さく苦笑した。
あの夜以来、乃依の中では何かが変わってしまっていた。缶コーヒーの温かさ、街灯の下で見た横顔、「誰にでもってわけじゃない」という言葉。すべてが、これまでの朝の関係だけでは収まりきらない重さを持ち始めている。
これまで大切に守ってきたはずの境界線が、あの夜を境に少しずつ曖昧になっていく感覚があった。朝の関係と呼ぶには近すぎる何かが、日に日に膨らんでいくのを、乃依は止められずにいた。
そのことが乃依には少し怖かった。膨らみすぎた気持ちはいつか必ず苦しさに変わり、これ以上近づけばいつか制御できなくなる予感があった。
だから、乃依は出勤時間を少しだけ早めることにした。透青と顔を合わせる回数を減らせば、この高まりすぎた感情も少しは落ち着くはずだと思ったからだ。
賢明な判断のはずだった。膨らみすぎた気持ちは、いつか自分自身を苦しめる。それなら、今のうちに小さく萎ませておいた方が、傷は浅く済むはずだった。
頭ではそう理解していても、胸の奥にはまだ割り切れない重さが残っている。
会社に着くと、いつも通りの朝が始まる。広報部のフロアで乃依は淡々と仕事をこなし、周囲からはいつもと変わらない様子に見えていた。
昼休み、同期の友人とランチに出かけた際、ふと話題が透青のことに及んだ。会社近くの定食屋で向かい合って座っていた。
「最近、雪代くんと一緒に来てないね」
「うん、ちょっと時間ずらしてるから」
「何かあったの?」
「別に、特に何も」
そう答えながら、乃依は自分の声が少し硬いことに気づいていたが、友人はそれ以上深く追及することなく話題を変えてくれた。
窓の外を見やりながら、乃依は自分のうそが下手であることを密かに恥じていた。「特に何も」という言葉の軽さが、自分の胸の内とはあまりにかけ離れている。
友人が気づいているかどうかは分からないが、これ以上何かを聞かれる前に話題が移ってくれたことに乃依は密かに安堵していた。
午後の仕事に戻りながら、乃依は自分に問いかけていた。この選択は本当に正しいのだろうか。会わない時間を作ることで確かに気持ちの高ぶりは抑えられている気がする。
それでも、代わりに何か大切なものを失っているような、そんな感覚も拭えなかった。
答えの出ないままパソコンの画面に向き直り、目の前の仕事をこなすことだけが今の自分にできる唯一確かなことのように思えた。
その日の夜、透青からメッセージが届いた。仕事帰りの電車の中、画面が小さく光った瞬間、乃依の心臓が反射的に跳ねた。
「今日、疲れた?」
いつも通りの何気ない一言だった。乃依はしばらく画面を見つめてから短く返信した。
「うん、ちょっとね」
短く送った返信に、すぐに既読がついた。
「無理しないでね」
画面に浮かぶその短い文字列を、乃依はしばらく見つめていた。既読の表示だけが静かにそこに残っている。
その優しさにまた胸が締めつけられる。会わないようにしているのに、こうしてメッセージだけがいつもと変わらず届くという事実が、乃依の決意を少しずつ揺さぶっていた。
翌朝も乃依は同じ時間の電車に乗った。透青のいない改札を抜け、誰もいない柱の陰を横目に見ながらホームへと歩いていく。
寂しさがないと言えば嘘になるが、この距離を保つことが今の自分には必要なのだと乃依は自分に言い聞かせていた。
ホームに立つ人々の顔ぶれもいつもとは少しずつ違って見えたし、同じ時間帯でも乗り合わせる人は日によって微妙に入れ替わる。乃依は、その些細な違いにさえ自分の生活のリズムがずれてしまったことを実感させられていた。
数日が過ぎた。透青と顔を合わせない朝がいつしか当たり前のものになりつつあったが、乃依の心の中では毎朝同じ時間に彼を探してしまう癖がまだ完全には消えていなかった。
改札を抜けるたびに視線が無意識にあの柱の方角へ流れてしまう。そこに誰もいないことを確認してからようやく自分の歩調を取り戻す、その一連の動作がいつの間にか新しい習慣として乃依の朝に組み込まれていた。
ある日の午後、資料を届けるために事業企画部のフロアを通りかかった時のことだった。廊下で別部署の先輩とすれ違い、思いがけない言葉をかけられた。
「白群さん、最近雪代くんと会っていないの?なんか元気なさそうだったよ、あの子」
その言葉に、乃依の胸が小さく波打った。
「そうなんですか?何かあったんですか?」
先輩は少し首を傾げながら答えた。
「さあ、詳しくは知らないけど、前より静かになった気がする」
先輩はそう言って自分のフロアへ戻っていき、残された乃依はしばらくその場に立ち尽くした。
廊下の窓から差し込む昼下がりの光が床にくっきりとした影を落としており、乃依はその影の輪郭を見つめながら今聞いたばかりの言葉を何度も頭の中で反芻していた。
透青が元気がない、という情報が乃依の中で、どう処理すればいいのか分からない重さを持って広がっていく。自分が距離を置いたことと何か関係があるのだろうか。
それとも、単なる別の理由なのだろうか。
自惚れかもしれない、と乃依は思ったが、それでも可能性を完全に否定することはできなかった。もし本当に自分の行動が原因だとしたら、その事実はこれまで抱えてきた思い込みの前提そのものを静かに揺るがすことになる。
答えの出ない問いを抱えたまま、乃依はその日の仕事を終えた。帰り道、いつもより重い足取りで歩きながら、乃依は自分の選択が正しかったのか初めて本気で疑い始めていた。
夕暮れの品川はいつもと変わらない橙色に染まっていたが、今夜は乃依の心の重さとその色の暖かさが少しも噛み合わない気がした。歩道の隙間から伸びる自分の影を見つめながら、乃依は考え込んだまま駅までの道を歩いた。
その夜、乃依はなかなか寝つけなかった。天井を見つめながら、この数日間の自分の行動を振り返る。
会わないようにすることで気持ちを落ち着かせようとしたのは、自分を守るための選択だったはずだ。それなのに、透青が元気をなくしているという話を聞いた途端、その選択が正しかったのかどうか確信が持てなくなっていた。
もし自分の行動が透青を傷つけているのだとしたら、その可能性が乃依の中で次第に大きくなっていった。自分を守るための選択が結果として大切な人を苦しめているのだとしたら、その代償はあまりに重い。
乃依は、自分本位だったと思う。相手の気持ちを想像することなく、ただ自分の心の平穏だけを優先してしまった。その事実に気づいた今、後悔が静かに、しかし確実に胸を締めつけていた。
窓の外を見ると、遠くのビルの明かりがいくつか消え残っていた。誰かの夜もまた同じように長引いているのかもしれない、そんなことを思いながら乃依は、まだ答えの出ない自問を繰り返していた。
翌朝、乃依はいつもの時間に戻ることにした。理由は自分でもうまく説明できなかったが、このまま会わない時間を続けることが正しいとは思えなくなっていたからだった。
目覚まし時計をいつもの時刻にセットし直す。その小さな動作だけで胸の奥に微かな緊張が走った。
品川駅の改札を抜けると、いつもの柱の陰に見慣れた姿があった。透青だった。
心臓が大きく跳ねる。数日ぶりに見るその姿は記憶にあるものと変わらないはずなのに、なぜか胸が締めつけられた。
朝の光がその輪郭を柔らかく縁取っていた。数日会わなかっただけなのに、まるで長い時間が経ったかのような感覚が乃依の中に広がっていく。
たった数日の空白がこれほどまでに大きな距離として感じられることに乃依自身も驚いていた。近づく足取りが自然と速まっていく。
透青は乃依に気づくと一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、それからいつもとは少し違う慎重な声で、まるで言葉を選びながら口を開いているかのように言った。
「おはよう」
「おはよう」
短いやりとりの後、沈黙が流れた。以前ならすぐに埋まっていたはずの空白が、今朝はなかなか埋まらない。改札を抜ける人々の足音だけが、その沈黙を通り過ぎていった。
「最近、朝いないよね」
透青がふいに言うと、乃依は思わず息を止めた。改札の喧騒が一瞬だけ遠くに感じられた。
「え?」
「ここ最近、朝会わなかったから。時間、変えたの?」
その質問には責めるような響きはなく、ただ素朴な疑問として静かに投げかけられた言葉だった。
乃依は言葉に詰まった。正直に理由を話すべきか、それとも適当にごまかすべきか、瞬時に判断がつかなかった。心臓の鼓動だけがやけに速く感じられた。
「ちょっと、いろいろ忙しくて」
とっさに出た言い訳は自分でも苦しいものだと分かっていたが、透青は特に疑う様子もなくそれ以上追及することなく話を続けた。
「そっか。てっきり、僕のこと避けてるのかと思った」
その言葉は冗談めかした調子で発せられていたが、乃依にはその冗談の奥に本当の不安がにじんでいるように聞こえてならなかった。
透青の口調は軽かったが、視線はまっすぐ乃依に向けられたままだった。その眼差しの強さは言葉の軽さとは裏腹に乃依の胸を静かに射抜いていった。
乃依はその視線から目を逸らすことができなかった。
「そんなことないよ」
慌てて否定すると、透青は少しほっとしたような表情を見せた。強張っていた肩の線が、目に見えて緩んだのが分かった。
その表情の変化を見て、乃依はある事実に初めて気づかされた。
透青もまた、乃依の不在を確かに気にかけていた。誰にでも優しいから気にかけていたわけではなく、乃依という個人の不在そのものを感じ取っていたのだった。
これまで乃依は、自分だけが一方的に相手を探し、待ち、期待していると思い込んでいたが、今この瞬間、その前提が初めて揺らいでいる。
長い間自分の中で当たり前のように積み上げてきた思い込みが、たった一言で静かに崩れていくのを、乃依は確かに聞いた気がした。
これまで自分を守るための盾のように使ってきた諦めが今は逆に余計な重荷のように感じられ、乃依は深く息を吸い込んで次の言葉を探した。
透青の表情を見つめながら、乃依は、もう後戻りできないところまで自分の心が動き出していることを感じていた。
「実は、少し会う回数を減らしてみようかと思ってたんだ」
思わず口をついて出た言葉に、乃依自身も驚いた。言うつもりのなかった本音が、するりと言葉になってこぼれ落ちていた。
透青は少し目を見開いてから、静かに尋ねた。
「なんで?」
「なんとなく、いろいろ考えすぎちゃって。会う頻度が増えると、その分期待も増えていくから」
言いながら、乃依は自分がどこまで踏み込んでいいのか分からなくなっていたが、それでも止まらない言葉が続いていく。もう後戻りはできないところまで、すでに来てしまっている気がした。
「期待して、それで違ったら、傷つくのが怖くて」
その告白に近い言葉を口にした瞬間、乃依は激しい後悔に襲われた。言い過ぎた、と思ったが、もう取り消すことはできない。
透青はしばらく黙っていたが、その表情からは何を考えているのか読み取ることができなかった。歩道を行き交う通勤客の足音だけがその沈黙を埋めていく。
乃依は、自分の言葉が透青にどう届いたのか分からず次第に不安が募っていった。踏み込みすぎたのかもしれない。今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
改札の向こうを次々と通勤客が通り過ぎていくその流れの中で、乃依と透青だけが時間の外に取り残されているような感覚があった。
「乃依」
透青が静かに乃依の名前を呼んだ。その声にはこれまで聞いたことのない真剣さが宿っており、朝の喧騒の中でその声だけがはっきりと乃依の耳に届いた。
「僕も、同じかもしれない」
その一言に乃依の思考が一瞬止まり、周囲の音が遠くに霞んでいくような感覚に包まれた。
「同じ、って」
「乃依がいない朝、なんか調子出なくてさ。理由、自分でもよく分からなかったけど、多分そういうことなんだと思う」
その言葉が乃依の中にゆっくりと染み込んでいく。誰にでも優しい人だから、その優しさを自分だけのものと錯覚してはいけない。そう自分に言い聞かせ続けてきたこれまでの日々が今この瞬間、静かに揺らいでいた。
長い間自分を戒めるために使ってきた言葉が今は逆に自分を縛る鎖のように感じられ、誰にでも優しいという前提の上に築いてきた諦めがたった数分のやり取りで根本から問い直されている。
「透青も、私のこと、探してたの?」
震える声で尋ねると、透青は少し照れたように視線を逸らしながら答えた。耳の先がほんのりと赤く染まっているのが見えた。
「そうかもしれない」
その曖昧な答え方は、確信を持てないことへの戸惑いなのか、それとも直接的な言葉を避けるための遠回しな肯定なのか、乃依には判断がつかなかったが、それでもその曖昧さの中に確かな何かが宿っていることだけははっきりと感じ取れた。
言葉にしきれない何かをそれぞれがまだ持て余していたが、その持て余し方こそがこれまでの関係にはなかった新しい種類の親密さのようにも思えた。
会社までの道をそれぞれ無言のまま歩いた。これまでとは違う質の沈黙だった。気まずさではなく、むしろ言葉にすればこぼれ落ちてしまいそうな繊細な何かを抱えた沈黙だった。
歩調はいつも通り自然にそろっていたが、隣を歩く距離感にはこれまでとは違う緊張と柔らかさが同居していた。乃依は時折、透青の横顔を盗み見ながらこの沈黙の意味を測りかねていた。
エレベーターの前で別れる際、透青がふと言った。
「明日から、また同じ時間で大丈夫?」
「うん。大丈夫」
透青は小さく頷き、安堵したような、それでいてまだどこか照れくさそうな表情を浮かべた。
その表情の柔らかさを、乃依はしっかりと目に焼き付けておきたいと思った。
「じゃあ、また明日」
その何気ないやり取りの中に、これまでとは違う重みが確かに宿っていた。乃依はその重みを大切に抱えながら自分のフロアへと向かった。
その日一日、乃依は仕事に集中できないまま過ごし、今朝の透青の言葉が何度も頭の中で反響していた。
「僕も、同じかもしれない」。
その言葉の意味を乃依はまだ完全には受け止めきれずにいたが、それでも確かなことが一つあった。これまで一方的だと思い込んでいた気持ちは、もしかしたら一方的ではなかったのかもしれない。
会議中も資料の作成中も、乃依の意識は何度もその一言に引き戻された。目の前の仕事と頭の中を占める朝の記憶がうまく折り合わないまま、時間だけが過ぎていく。
同僚に話しかけられても上の空で返事をしてしまう場面が何度かあり、乃依は誰かに気づかれる前に慌てて意識を仕事へと引き戻した。そんなことを繰り返しながら午後の時間は静かに過ぎていった。
夕方、フロアの窓から見える空が橙色に染まり始め、その光景を眺めながら乃依は今朝の会話をもう一度心の中で辿り直していた。
退勤後、乃依は一人で駅までの道を歩いた。透青とは今日それきり顔を合わせていないが、朝交わした言葉の余韻だけが一日中乃依の胸の中に居座り続けていた。
夕暮れの光が、朝とは違う角度からビル群を照らしていた。同じ景色のはずなのに、その日の心情次第で、街はまったく違う表情を見せる。乃依は、その変化をいつになく敏感に感じ取っていた。
家に着き、シャワーを浴びながら乃依は、今日という日の意味を改めて考えていた。会わない時間を作ろうとした選択が結果としてこれまで見えていなかった透青の気持ちの一端を明らかにすることになった。
もしあのまま会わない時間を続けていたら、乃依はそう考えると少し背筋が寒くなった。知らないままで終わっていたかもしれない事実に今日ようやく触れることができたのだった。
湯が肌を伝う感触の中で乃依は、今日一日をゆっくりと振り返っていた。朝の緊張、告白に近い言葉を口にした瞬間の後悔、そして透青から返ってきた思いがけない答え。すべてがこれまでの日々とはまったく違う密度を持って乃依の記憶に刻まれていた。
湯気の向こうに映る鏡の中の自分は、いつもより少しだけ晴れやかな表情をしているように見えた。この数日間、心のどこかで曇っていたものが今夜だけはやや晴れている。
ベッドに横になり、天井を見つめながら乃依は、今朝の透青の表情を思い返していた。少し照れたような、それでいて確かな真剣さを帯びたその表情。あの瞬間、透青も自分と同じように何かを恐れながら言葉を選んでいたのかもしれない。
恐れながらも言葉を止めなかった透青の姿を思うと、乃依は自分の中にある臆病さを少し恥ずかしく感じた。それでも恐れを抱えながら一歩を踏み出したという点では、自分たちは今夜確かに同じ場所に立っていたのだと思う。
窓の外では、夜の街が変わらず静かに息づいていた。遠くのビルの明かりが一つまた一つと灯り、そして消えていくその繰り返しを眺めながら、乃依はゆっくりと目を閉じた。
数日前まで、自分だけがこの気持ちを抱えていると思っていた。会うことをやめようとしたのも、その一方的な重さに耐えかねたからだった。それでも今は、その重さの一部を確かに分かち合える相手がいるのだという実感が静かに胸を満たしている。
一人で抱えていたはずの重さが、今夜は少しだけ軽くなっている。その変化を、乃依はまだうまく言葉にできないまま、ただ静かに味わっていた。
明日の朝も、いつもの柱の陰に透青が立っているだろう、という当たり前の光景が今はこれまでにない特別な意味を帯びて乃依の心を満たしていた。
眠りに落ちる直前、乃依の口元には自分でも気づかないうちに小さな笑みが浮かんでいた。
「僕も、同じかもしれない」。
その言葉をもう一度だけ心の中で繰り返しながら、乃依は静かに眠りへと落ちていった。




