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『挨拶もできない木偶』と笑って令嬢を追放したら、翌月、姉の訳した条約一行で国が戦争になった件

作者: 相川ことね
掲載日:2026/07/15

 世の中には、二度話される言葉がある。


 一度は口にした人のために。もう一度は、それを訳す誰かのために。


 ノーラ・ヴェスパーは六年、その「もう一度」だった。


 海運で栄えるレスリア王国。その外務を握るのがヴェスパー侯爵家だ。


 隣国との条約も、行き交う親書も、遠い国の使者の応対も、采配はすべてこの家を通る。


 そして書架の六か国語を実際に読んで訳していたのは、いつだってノーラひとりだった。


 なのに社交界での評判は、たった一言で足りた。


「挨拶ひとつまともにできない木偶でくと、誰が添い遂げるか」


 夜会の広間だった。婚約者のジュリアン・ダルモアが、金の杯を持ったまま言い放つ。


 周りの令嬢がさざめいた。


 ノーラは末席で葡萄酒の瓶を持ったまま、ぱちりと瞬きをした。異国の使者に注いでいる途中だった。


(あら。ここで言いますの)


 悲しいとは、あまり思わなかった。半年前から言われ続けて、いいかげん慣れている。


 ただ、間が悪い。相手国の使者が三人、まさにその葡萄酒を待っていたところだった。


「ジュリアン様。今、そのお話をなさいますの? お客様の杯が空ですわ」


「客の心配より、自分の心配をしろ。——婚約は破棄する」


 広間がしんと鎮まった。ノーラは瓶を置き、姿勢を正す。


 こういうとき、社交界の令嬢なら涙ぐむか、崩れるか、せめて言葉に詰まってみせるものらしい。


 あいにく、ノーラはその手の芝居がいちばん苦手だった。


「では、南隣国の親書の返礼はどなたが訳されますの。締切は三日後ですけれど」


「……は?」


「あと東の商館の書簡。先方が利率を一割ふっかけてきていますわ。そのまま呑めば、港の関税で足が出ますの。下訳は——」


「黙れ!」


 ジュリアンの顔が赤くなった。


 世辞が言えず、相手の懐を先に案じてしまう。この癖のせいで、ノーラは何度も場を白けさせてきた。


 悪気はない。ただ目の前の綻びが見えると、口より先に直したくなるだけだ。


「お姉様がいれば、通詞など要らんだろう」


 その一言で、姉のミレイユが進み出た。銀の扇を口元にあて、華やかに微笑む。


「あらいやだ、ジュリアン様。妹を追い詰めては可哀想。訳のことなら、わたくしにお任せくださいまし。六か国語くらい、嗜みですもの」


 嗜み。ノーラは天井を見上げたくなるのをこらえた。


 姉は六か国語どころか、隣国の挨拶の綴りも怪しい。


 この六年、条約の下訳も親書の返礼も、ぜんぶノーラが書いて、姉の名で清書させてきた。書架に残る書き付けは、一枚残らずノーラの筆だ。姉は開いたことすらない。


 父のベルナール侯爵は、上座でゆっくりと葡萄酒を回していた。娘のほうを見なかった。


「父上。わたくしは」


「ノーラ」


 父の声は静かだった。


「お前は家の名に傷をつけた。ミレイユのように、人に好かれることを覚えなさい。……当分、領のクレイルで頭を冷やすといい」


 勘当、とまでは言わなかった。言わなくても意味は同じだ。港町へ行け。二度と戻るな。


 ノーラは束の間、父の顔を見た。


(この人は、どの書き付けが誰の字かも知らないのですわ)


 不思議と腹も立たない。立ったところで、この人たちには何も届かない。


 届かない言葉をもう一度言い直すのが、ノーラの六年だったのだから。


 外套を取り、広間を出る前に、ひとつだけ振り返った。これだけは言っておかねばならない。


「来月の、オルレンとの批准ひじゅん式」


 三十年ぶりに結ばれる、隣国オルレンとの休戦条約。


 その席で両国の全権が署名して、はじめて戦は正式に止まる。訳語ひとつの誤りが、そのまま国の意思として相手に伝わる、いちばん危うい場だ。


「訳は、どうか原文と照らしてくださいまし。特に、『休戦』の一語。……いえ」


 誰もこちらを見ていなかった。ミレイユは扇の陰で嗤い、ジュリアンは次の令嬢に杯を差し出している。


 ノーラは小さく息を吐いた。


「……もう、いいですわ」


 扉が、背中で閉じた。




 クレイルは、言葉の吹きだまりだ。


 六か国の船が入る交易港で、荷揚げ場ではなまりの違う怒鳴り声が朝から晩まで混ざり合う。


 潮とタール。遠い国の香辛料の匂い。


 冬の入り口の低い陽が、濡れた石畳を鈍く光らせていた。ノーラは幌馬車を降りると、久しぶりのその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


(ああ。ここは生きやすい)


 妙な話だった。侯爵家の広間では舌がもつれるのに、この港ではよく喋る。


 相手が異国の言葉なら、なおさらだ。世辞を言う必要がないからかもしれない。ここでは、通じるか通じないかがすべてだった。


「よお、嬢ちゃん。またお前さんか」


 船宿の主のデニスが、太い腕で樽を転がしながら笑った。


「デニス。しばらく厄介になりますわ。……下働きでも、なんでも」


「ずいぶんな落ちぶれ方だな。侯爵家のお嬢が」


「木偶ですって。挨拶もできない、って」


「木偶が、六か国語で荷の値切りをするのかよ」


 言われて、自分でおかしくなった。デニスも腹の底から笑う。


 その晩、デニスが分けてくれた干し魚は、しょっぱくて硬かった。ノーラは、本気で目を細めた。侯爵家のどんな皿より、旨い。


 ノーラは幼い頃、この港でよく遊んでいた。船乗りに混じり、行商に混じり、異国の商人の袖を引いて、言葉を一つずつ拾い集めた。


 六か国語は、生まれつきの才ではない。港でせがんで、数千通の書簡を写して、誰も読まない古い盟約書を独りで解いた、十年ぶんの積み重ねだ。侯爵家の外交を一人で任されたのは、そのうちの後ろ六年にすぎない。


 肩に、とん、と重みが乗った。港猫のビスケットだ。


 灰と白の縞の、太った雄猫。ノーラの肩がお気に入りで、いつのまにか戻ってくる。


「ただいま、ビスケット。あなたは相変わらず重たいのね」


「みゃあ」


「そっちの船、この前もオルレンの荷を積んでいたでしょう。覚えてまして? あなた、鼻がいいんだから」


 ビスケットは荷揚げ場の奥の船に、ひげをぴくりと向けた。前に魚のわたを分けてもらった船だ。当たっていた。


 この猫は、一度でも施しをくれた船を忘れない。ノーラより、よほど義理堅い。


 港の隅に、古い石段がある。ノーラは荷を置くと、そこに腰かけた。


 十年前、この石段で、ひとりの少年と出会った。


 供も連れず、異国の身なりで、港の隅にぽつんといた、痩せた年上の少年だった。歳は、十四ほどだったろうか。誰にも言葉が通じず、水夫たちに「おかしな喋り方の子だ」と笑われていた。当時のノーラは、九つ。背丈は、少年の胸のあたりまでしかなかった。


 ノーラも、当時は喋り方が変だと笑われる側だった。だから隣に座った。


 互いの言葉は半分も通じなかったのに、なぜか一日中、喋っていられた。


 別れ際、少年はノーラの目を見て、オルレンの言葉で何かを言った。


 その頃のノーラには、まだ訳せなかった。音だけを、必死に覚えた。


(あの子は、なんて言ったのかしら)


 それを知りたくて、ノーラは言葉を学びはじめた。六か国語も古語も、もとをたどれば、あの石段の一言に行き着く。


 だが十年経っても、その一言だけは、胸の底で像を結ばなかった。会いに来ることも、もうないだろうと思っていた。


 潮風が、少しだけ冷たい。


 ふと、書架のことが頭をよぎった。あの外交書架は、ぜんぶノーラの字だ。姉は一行も読めない。


 批准式の準備であれを開けたら、どうするつもりなのだろう。


(……いえ。もう、わたくしの家ではありませんもの)


 考えるのをやめた。今は目の前の荷と、明日のパンだ。


 ノーラは膝の埃を払って立ち上がった。




 騒ぎは、三日目の夕方に起きた。


 荷揚げ場で、二組の商人が揉めていた。オルレンの交易商と、西方の毛織商。


 互いの言葉が通じず、荷の取り違えが殴り合い寸前まで来ている。間に、荷運びの子どもが挟まれていた。オルレンの大男が、その子の腕をつかんで振り回す。


「その子を離しなさい!」


 ノーラは駆け込むと、まず西方の言葉で、次にオルレンの言葉で、続けざまに怒鳴った。両方に、それぞれの理屈で。


「そちらの毛織は右舷うげんの三番! そっちの香料は左舷の五番! 積み札の色が違いますでしょう、目を開けてお読みなさいな!」


 大男が、ぽかんと口を開けた。六か国語で怒鳴る令嬢を、生まれて初めて見たらしい。


 その隙に、ノーラは子どもを引き寄せ、背にかばう。


「積み違いですわ。どちらも損はしていません。ほら、札を照らして。……ね?」


 張り詰めていた空気が、すう、と抜けた。大男がばつ悪そうに手を離す。


 荷が正しく捌け、揉め事は嘘のように収まった。


 そのとき、ノーラの背後で低い声がした。


「その子を離せ、まで言って六か国語で仕切るのか。……器用な喧嘩だな」


 振り返ると、外套の男が立っていた。歳は二十四、五。


 旅の使者らしい身なりだが、どこか妙だ。姿勢がやたらと綺麗なのだ。荷運びにしては、指の作法が良すぎる。


「レイフだ。オルレンから、荷の使いで来ている」


「ノーラですわ。……港の、下働きです」


 嘘ではない。今は。


 レイフは、ノーラの言葉の訛りをじっと聞いていた。


「あんた、オルレン語がうますぎる。南の訛りまで移ってる。港の下働きが、あんな喋り方はしない」


「あら。褒めていますの、疑っていますの」


「両方だ」


 乾いた声だった。ノーラは、ふ、と笑ってしまった。


 この人は世辞を言わない。港の言葉と同じで、通じるか通じないかしか喋らない。妙に楽だった。


 それから半月あまり、レイフはよく港に現れた。荷の使いというわりに、いつも暇そうだった。


 ノーラが荷の下訳を手伝えば、黙って隣で覚え書きを取る。ビスケットが肩に乗れば、当たり前のように顎の下を撫でる。


 デニスが、なぜかこの流れ者に一目置いていた。理由は言えないらしい。


「レイフ様。あなた、ただの使いではありませんわね」


「……なぜ」


「オルレンの宮廷語をご存じでしょう。さっき、古い言い回しで独り言をおっしゃった。庶民の使いは、あんな言葉を使いません」


 レイフの指が、外套の内側でひとつ止まった。そこに何か固い物がある。


 紋章の入った、古い指輪のようだった。彼はそれを、隠すように握り込む。


「……買いかぶりだ」


「ふふ。そういうことにしておきますわ」


 ある晩、増水した波止場で、係留の綱が切れかけた。放っておけば、荷ごと船が流される。


 ノーラが片側の綱に飛びつき、レイフが反対の柱に肩をあてて支えた。


 冷たい飛沫を浴びながら、二人で綱を巻き直す。声も息も、合っていた。


「あんた、なんで港の荷にそこまで必死になる」


「だって、流れたら困る人がいますでしょう。……わたくしを木偶と呼んだ人たちの国でも、これから困る人がたくさん出ますのよ」


 言ってから、口をつぐんだ。


 捨てられてなお、捨てた側の民を案じる。その一言に、レイフはしばらく黙っていた。綱を巻き終えても、その視線はノーラから外れなかった。


「ノーラ」


「はい?」


「……いや。なんでもない」


 言いさして、レイフは横を向いた。ノーラは首を傾げる。


 勘当から、ひと月近く。ある朝、都から早馬が来た。港の広場に触れが回る。


 三十年ぶりの、オルレンとの休戦条約。その批准式が、三日後に王都で行われる、と。


 ノーラの手から、パンが落ちた。


(三日後? ……お姉様が、訳すのに?)


 ノーラは、そばの樽に手をついた。しばらく、そのまま動けなかった。




 王都、批准の間。


 ミレイユ・ヴェスパーは、朝から機嫌が悪かった。


 昨夜、父の外交書架を開けたのだ。批准式の前に目を通しておけと言われた。


 だが、開いてめまいがした。


 六か国語。古語。見たこともない綴りの群れ。しかもどの頁も、妹のあの几帳面な筆で埋まっている。欄外に、細かい注が蟻のように連なる。


(なに、これ。……一行も、読めない)


 ミレイユは頁を繰った。繰る手が、止まらなくなる。


 「語学の才媛」と呼ばれ、扇の陰で微笑んできた六年。清書はした。妹の書いた紙を綺麗な字で写しただけ。中身が何かは、考えたこともなかった。


「あの子がいれば、なんて。……追い出したのは、わたくしなのに」


 呟いて、ぞっとした。あの子は、もういない。


 式が始まった。


 オルレンの正使が条約文を読み上げる。全権が一条ずつ、訳を確かめていく。


 そして、いちばん重い一条に来た。両国が対等に戦をやめる、「休戦」の条項。


 訳を述べる番が、ミレイユに回った。控えの通詞は、一人も来ていなかった。父が体面を気にして、娘に花を持たせようとしたのだ。


 ミレイユは震える声で、覚えた言葉をそのまま口にした。オルレン語の、似た響きの、別の単語を。


「レスリア王国は……こうふく、を——」


 降伏。


 オルレン正使の隣に控えた随行の通詞が、はっと眉を寄せた。正使の袖に手をかけ、耳打ちする。原文の綴りが違う、これは誤りではないか、と。


 正使が、ミレイユに向き直った。


「レスリアの全権に問う。今の一語は『休戦』か、『降伏』か。原文と照らして、答えよ」


 ミレイユの手が、条約控えの上で止まった。開いても、読めない。六か国語の綴りは、どれも同じ模様にしか見えない。


 この場で原文を読める者は、レスリア側に、一人もいなかった。


「わ、わたくしは……」


 沈黙が、長く伸びた。訂正の言葉は、ついに出なかった。


 正使が、条約文を静かに閉じる。


「訂正できぬのなら、これがレスリアの意思と受け取る。我が国は、降伏を求めた覚えはない。侮辱と、受け取る」


 正使が席を立った。従者が続く。


 三十年ぶりの休戦条約は、たった一語を照らせなかったせいで、その場で凍りついた。


 ミレイユは立ち尽くしていた。何が起きたのか、分からなかった。


 ただ、閉じられた書架のことだけを思っていた。読めなかった、あの頁を。


「なんで……あの書き付け、ぜんぶ、読めないの」


 膝から力が抜けた。誰も、支えなかった。




 破談の報せは、数日のうちに国じゅうへ広がった。


 オルレンは正式に抗議し、王都の使節を召還した。国境の関を閉ざし、隊を近づけているという。


 ダルモア伯爵家には、隣国接遇の不備の責が回った。家令が、ジュリアンの部屋に詰め寄る。


「若様。オルレンとの取次の書簡、控えが一枚も残っておりません。この六年、どなたが訳しておられたのですか」


「知るか。……訳など、通詞の仕事だろう」


「その通詞を、若様が追い出されたのです。ヴェスパーのノーラ様を」


 ジュリアンの顔から、血の気が引いた。


「まさか……あの女が、うちの取次も全部……?」


 取り柄のない木偶。そう笑って捨てた相手に、自分の家が支えられていた。もう、遅かった。




 父ベルナール侯爵のもとにも、国境からの報せが積み上がっていた。関は封じられ、辺境では兵が集められているという。


 ベルナールは、娘のいない書架の前に立った。手を伸ばし、一冊を開く。びっしりと並ぶ六か国語の綴りは、彼にも一文字も読めなかった。


「あれは……木偶などでは、なかった……」


 声は、誰にも届かなかった。




 国境の砦。


 主戦派の筆頭、ヴァルド辺境伯は、胸壁から遠い野を睨んでいた。


 彼は、この事態を止めなかった。むしろ待っていた男だ。言葉で国境は守れん、と。


 三十年前、この辺境の村が一つ、オルレンに併合された。民は言葉も土地も名も奪われた。


 二度と繰り返させない。そのためには、弱みを見せる前に剣を先に抜く。それが、ヴァルドの正義だった。


「辺境伯。オルレンの先陣が、川の対岸に布陣しました」


 伝令が、息を切らして駆け込んだ。ヴァルドは動かない。


「向こうは渡ったか」


「まだです。川を挟んで、にらみ合いに」


「では、まだ間に合うな。——こちらから、渡ってやる」


「戦端を、お開きになるのですか」


「休戦だの、降伏だの。言葉遊びで、あの村がまたあちら側に行くのだぞ」


 ヴァルドは剣の柄に手をかけた。その目には、守るべき村の景色が見えている。


 まちがった正義ではない。ただ、まちがった一手に手をかけようとしていた。


 夜明けとともに、渡河の合図を出す。そう、決めていた。




 クレイルの港で、ノーラは膝をついていた。


 広場に貼られた触れを、三度読んだ。条約破棄。国境で対峙。


 読み違えるはずのない字だった。ただ、信じたくなかっただけだ。


(休戦を、降伏と訳した。……お姉様が)


 背後に足音が来た。レイフだった。その顔は、いつもの乾いた皮肉をすっかり失っている。


「ノーラ。あんた、王都の外交を知っているのか」


「……なぜ、そう思われますの」


「この崩れ方はおかしい。国が一つ、一語の誤訳でここまで転げるなんてあり得ない。誰か一人、両側の言葉を毎日せき止めていた者がいなければな」


 ノーラは顔を上げた。レイフの目が、まっすぐこちらを見ている。


 彼は気づいたのだ。この崩壊が、一人の訳者が抜けた穴だということに。そして、その訳者が目の前にいるということに。


「わたくしですわ」


 隠しても、もう仕方がなかった。


「ヴェスパー家の外交を六年、全部訳していたのはわたくしです。条約も、親書も。オルレンの棘のある言い回しも、父の傲慢な草案も、訳の段でこっそり均していました。戦を一つの誤訳の手前でせき止めて。……毎日」


「なぜ黙っていた」


「黙っていたのは、話せなかったからじゃありませんの」


 ノーラは立ち上がった。潮風が髪を巻き上げる。


「ずっと、両側の言葉を聞いていたからです」


 言葉は、訳した者の手柄にはならない。橋は、渡した者の名では残らない。


 だから誰も、彼女の六年に気づかなかった。抜けて、はじめて穴が見えた。


「ざまあ、とは申しませんわ。……ちょっと、しゃくですけど」


 ノーラは袖で目元を拭った。泣いていたわけではない。ただ、風が冷たかった。


「でも、国境の村の人たちはしゃくでは済みませんわ。あの人たちは、言葉遊びで死ぬんですのよ」


 レイフが、外套の内側からあの固い物を取り出した。紋章の入った、古い指輪。オルレン王家の意匠だった。


「ノーラ。俺は、流れ者の使いじゃない」


 彼はそれを、掌に載せた。


「オルレンの、第二王子だ。ライフリド。……開戦を止められるかを、この目で見に来た」


 敵国の、王子。ノーラは束の間、言葉をなくした。


 驚くべきなのに、不思議と腑に落ちる。品のある所作も、宮廷語の素養も、ぜんぶそれで繋がった。


「まあ。……道理で、荷運びが下手でしたわね」


「……ひとことだな、あんたは」


 レイフが、初めて少しだけ笑った。それから、真顔に戻る。


「あんたの訳が要る。正しく訳せる者が一人いれば、条約はまだ結び直せる。手を貸してくれ」


 ノーラは彼を見た。


「ひとつ、申し上げておきますわ。わたくしは勘当された身。しかも、敵国の王子と港で親しくしていた女です。王都に立てば、真っ先に内通を疑われます。……そんな者の訳を、誰が信じますの」


「その疑いは、俺が晴らす」


 レイフの声に、迷いはなかった。


「俺はオルレンの名代として、正式に和議の使者に立つ。国王の前で、あんたを推す。……あとは、あんたの訳が潔白を証明する」


「一つだけ、伺っても?」


 ノーラは、まっすぐ彼を見た。港で初めて会った日、この人は自分の名も、家も、腕も、何ひとつ知らなかった。


「あなたが手を貸すのは……わたくしが、使える通詞だからですの」


「違う」


 迷いは、なかった。


「あんたが何者かを知る前から、決めてた。……もっと言えば、十年前から、ずっと」


 十年前。ノーラの息が止まった。


 レイフは、あの石段のほうに目をやった。港の隅の、古い石段。


「昔、この港に言葉の通じない子どもがいた。誰にも笑われて、隅で膝を抱えていた。……そこに、変な喋り方の女の子が隣に座ったんだ。一日中、半分も通じない言葉で喋りかけてきた」


 ノーラの指先が、冷えていく。忘れるはずが、なかった。


「別れるとき、俺はオルレンの言葉で言った。あんたは、たぶん訳せなかった」


 あの一言。十年、胸の底で像を結ばなかった、あの音。


 ノーラはそれを必死に覚えて、そのために言葉を学びはじめたのだ。


 レイフは静かに、もう一度その言葉を口にした。今度は、レスリアの言葉で。


「——おまえの声は、ちゃんと届いてる。……いつか、迎えに来る」


 届いてる。


 木偶と呼ばれ、挨拶もできないと笑われ、六年、届かない言葉を訳し続けてきた、その耳に。


 たった一人、幼い日のあの子だけが、そう言っていた。おまえの声は聞こえている、と。


 ——ずっと、あなたに、届けたかった。


 ノーラの目から、今度こそ涙が落ちた。何か言おうとして、声が、うまく出てこない。風のせいには、できなかった。


「迎えに来るのが十年後で、しかも戦の前夜って。……あなた、段取りが下手すぎますわ」


「……知ってる」


 レイフが手を差し出した。ノーラは、その手を取った。


 港を出るとき、デニスが樽の上から声をかけた。


「嬢ちゃん。木偶が、国を釣り上げに行くのか」


「ええ。……たぶん、いちばん大きな荷ですわ」


 デニスは、片手を上げただけだった。




 王宮の広間は、玉座の前に廷臣が居並び、冬の高い窓から白い陽が差し込んでいた。空気は、張り詰めている。


 オルレン第二王子ライフリドが、和議の名代として玉座の前に立つ。その隣に、勘当されたはずの令嬢がいる。ざわめきが起きた。


「敵国の王子が連れてきた女ではないか。内通を疑わぬのか」


 誰かが、そう吐き捨てた。ノーラは動じない。玉座の脇に積まれた、破れた条約の控えを指した。


「では、お確かめくださいまし。今から、その原文をこの場で訳します。誤りが一つでもあれば、わたくしを内通者として捕らえてくださって結構です」


 ノーラは、六か国語の条文を、淀みなく読み解いていった。オルレン側の随行通詞が、一条ごとに頷く。誤りは、一つもなかった。


 国王が、長い沈黙のあとに口を開いた。


「……ヴェスパーの娘。お前を赦す。そして、レスリアの全権通詞に任じる。この和議、お前の舌に預ける」


 父ベルナールが、傍聴の席で顔を伏せた。娘を呼び戻したのは、追い出した本人だった。もう、遅かった。


 姉のミレイユも、婚約者だったジュリアンも、隅で青い顔をしていた。


「ノ、ノーラ。あの婚約破棄は、その、家同士の行き違いというか……」


 ジュリアンが、上ずった声で言いかける。ノーラは、彼のほうを見もしなかった。


「ジュリアン様。今、条文の途中ですの。お静かに」


 それだけ言って、ノーラは一度だけ、姉のほうへ目を向けた。ミレイユの手が、膝の上で固く握られている。


「お姉様。この条文は、六か国語で書いてありますの」


 ノーラは、静かに微笑んだ。


「今度は、ちゃんとご自分でお読みになってくださいまし」


 ミレイユは、答えられなかった。読めないことを、この場の全員が、もう知っていた。


 かつて「木偶」と嗤った者たちが、今、彼女の訳に国の命運を預けている。


 ノーラは、それきり彼らを見なかった。見る必要が、なかった。


「『休戦』の条項を、訳し直します」


 ノーラは原文に指を置いた。


「原文はこう言っています。『両国は対等に、干戈かんかを収める』。——先の式で読まれた『降伏』ではありません」


「待たれよ」


 廷臣の一人が、口を挟んだ。


「その語は『矛を収める』とも『膝を折る』とも読めよう。あなたの都合で、和らげて訳しているのではないか」


 オルレンの随行通詞までが、わずかに眉を動かした。ここで詰まれば、和議はまた壊れる。


 だが、ノーラは慌てなかった。


「この綴りの、尻のねをご覧くださいまし。オルレンの南部で使う、古い公文書の書き癖です。彼らの言葉で『膝を折る』は、こうは撥ねません。撥ねるのは、対等な相手に『矛を納める』と書くときだけ」


 ノーラは、顔を上げた。


「三年前、同じ書き癖の書簡を二百通あまり写しましたの。……お疑いなら、隣の御方に訊いてくださいまし」


 オルレンの随行通詞が、息を呑んで頷いた。それが、答えだった。


 誤りは、一つずつ正されていく。破れた条約は、ゆっくりと結び直された。


 だが、まだ間に合わないものがあった。国境だ。


 ノーラは、条約文に一条を書き足すことを求めた。


「国境の村々の、自治と保護を。オルレンは二度と、あの村の言葉と土地を奪わない。——これを条文に。ヴァルド辺境伯が三十年、剣で守ろうとしてきたものです」


 ライフリドが頷いた。その一条が、両国の署名の下に加えられる。


 和議の使者が、レスリアとオルレン、両方の陣へ同時に走った。




 国境の砦。


 夜明けは、近かった。ヴァルドは渡河の合図を出す寸前だった。


 そこへ、二騎が駆け込んだ。一騎はレスリアの停戦令を、一騎はオルレンの撤兵令を携えていた。両国の使者が、川の両岸で、同じ言葉を告げていた。和議、成立、と。


「辺境伯。対岸のオルレン勢、退きはじめました」


 伝令の声に、ヴァルドは動かない。信じていなかった。


 やがて、王都からの早馬が、和議の条文を届けた。ヴァルドは、それを二度読んだ。


 村の名が、そこにあった。自治と、保護。彼が剣で守ろうとしてきたものが、言葉で守られていた。


「この一条を書き加えたのは、誰だ」


 ヴァルドが、低く問うた。


「全権通詞の、ヴェスパーのノーラ様です。……かつて、木偶と呼ばれていた令嬢だとか」


 辺境伯は、長いあいだ川を見ていた。対岸では、松明の列がゆっくりと遠ざかっていく。オルレンの隊が、本当に退いていた。


 それから、剣の柄から静かに手を離す。


「その令嬢に、伝えておけ」


 会ったこともない相手へ、彼は言った。


「言葉で国境が守れるとは、思わなかった。……この村は確かに預かった、と」


 まちがっていたとは、言わなかった。ただ、剣を鞘に納めた。




 王宮の広間を出ると、冬の陽が王都の石畳を白く照らしていた。


 ライフリドが隣に並ぶ。手には、ノーラが結び直したばかりの条約の写しがあった。末尾には、全権通詞ノーラ・ヴェスパーの名。姉の名でも、父の名でもない。


「これで、あんたはもう誰かの『もう一度』じゃない」


「あら。どういう意味ですの」


 ライフリドは、少しだけ口の端を上げた。


「あんたの言葉が、一度で届くようになったってことだ」


 ノーラは、足を止めた。


 六年、彼女はずっと『もう一度』の側にいた。誰かが口にした言葉を、もう一度、別の国の言葉で言い直す。自分の声で何かを言ったことなど、ほとんどなかった。


 だから、これは、生まれて初めてだったかもしれない。


「……ありがとう」


 訳では、なかった。誰の代わりでもない、ノーラ自身の一言だった。


 レイフが、ちゃんと聞いた。一度で。もう、訳す者は要らなかった。


 肩に、とん、と重みが乗った。王都まで荷馬車の隅に紛れ込んだのか、港猫のビスケットが、石畳の上でノーラの肩に戻ってきている。


「みゃあ」


「ええ。……聞こえてますわ。今度は、ちゃんと」


 名も知らぬ少年が十年前にくれた言葉を、ノーラは今、同じ重さで返せる気がした。おまえの声は、ちゃんと届いている、と。


 冬の陽が、二人の影を、石畳に長く伸ばしていた。

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― 新着の感想 ―
六か国語は六つの国の言葉なのでしょうか?(日本語英語中国語みたいな) 2つの国の条約なら相手か自分の国の言語だけで書かれているのではないでしょうか、六か国語で書かれるというのがよくわかりませんでした …
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