選択の前
廊下。
足音が響く。
硬い音。
一定の間隔。
乱れはない。
メローペは一人で歩いている。
人の気配はある。
だが、誰も近づかない。
距離が保たれている。
王宮の廊下は、広い。
広すぎるほどに。
人が並んで歩くためではない。
近づきすぎないために作られている。
会話を聞かれないため。
感情を見られないため。
立場を保つため。
「……王国のため」
小さく呟く。
声は吸われる。
残らない。
分かっている。
必要なこと。
正しいこと。
全部。
公爵の言葉も、理屈も。
間違っていない。
隙がない。
滅びかけた公爵家。
空白になる権力。
崩れる均衡。
そこへ王家の血を入れる。
象徴として。
楔として。
調整役として。
合理的だった。
「……合理的ね」
その通りだと分かる。
反論の余地もない。
だから――
足が止まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まる。
「……それだけ?」
自分に問う。
廊下は静かだ。
返事はない。
答えは出ない。
分かっていることしか、並ばない。
「王族として」
「王女として」
何を選ぶべきか。
決まっている。
教えられてきた。
見てきた。
理解している。
迷う理由は、ないはずだった。
そうあるべきだと、知っている。
王家に生まれた者は、個人ではない。
血であり。
役割であり。
国家の一部だ。
必要なら嫁ぎ。
必要なら残り。
必要なら笑う。
必要なら黙る。
そうして国は続いてきた。
それを否定するつもりはない。
軽んじるつもりもない。
だが。
「……つまらない」
小さく漏れる。
否定ではない。
拒絶でもない。
ただの感想。
自分でも少し驚くほど、素直な言葉だった。
窓の外を見る。
光。
遠く。
広い空。
風は入ってこない。
音も届かない。
閉じた場所。
守られた場所。
選ばれる場所。
選ばせられる場所。
思い出す。
あの森。
湿った空気。
重い匂い。
音の多さ。
虫の羽音。
獣の息。
誰かのうめき。
折れる枝。
遠くの銃声。
静かではなかった。
危険だった。
汚れていた。
寒くて。
熱くて。
息苦しくて。
何度も、終わると思った。
だが――
「帰還」
その言葉だけが残る。
事実。
それ以上でも、それ以下でもない。
帰った。
帰された。
生かされた。
その違いは、まだうまく言葉にならない。
「……あの男」
理由は分からない。
特別な何かがあったわけではない。
優しい言葉をかけられたわけでもない。
綺麗な誓いがあったわけでもない。
むしろ、最初は無遠慮だった。
王女に向ける言葉ではなかった。
礼儀も、距離も、正しくなかった。
だが。
それが、あの場所では正しかった。
理屈ではない。
評価でもない。
ただ、残っている。
あの男は、あの森を越えた。
自分と同じ場所から帰ってきた。
それだけで、十分に異物だった。
「もう一度、見る」
静かに言う。
誰にでもない。
自分にだけ。
「判断はその後」
順序を決める。
先に結論を出さない。
王国のため。
王女として。
血のため。
均衡のため。
それらを否定しない。
だが、それだけで決めない。
それだけで決めてしまえば、きっと何かを間違える。
そう思った。
それだけで、少しだけ息が楽になる。
足が動く。
歩き出す。
音が戻る。
硬い靴音。
一定の間隔。
だが、先ほどとは少し違う。
「……まだ決めない」
小さく言う。
先延ばしではない。
保留でもない。
逃げでもない。
選ぶための時間。
「決めるのは」
一拍。
わずかな間。
「自分で」
はっきりと言う。
誰にも聞かせない。
だが、確かに残る言葉。
その言葉だけは、廊下に吸われなかった。
メローペは歩く。
王宮の奥へ。
光から離れ、影の方へ。
守られた場所の中を。
決められた道の上を。
それでも。
歩みは止まらない。
決められたから進むのではない。
選ぶために、進む。




