第1話:婚約破棄? 結構ですわ、まずは清算を
「陛下、わたくしを雇いませんこと? 報酬は、この世界のすべて……ということで、よろしくて?」
無一文で追放されたはずの令嬢が、なぜか大陸最大の金庫の鍵を握っていた。その理由が、今、明かされる。
「セラフィナ・フォン・アストレア! 貴様のような強欲な悪女との婚約など、今この時をもって破棄させてもらう!」
きらびやかな王宮の夜会、その中心で叩きつけられた怒声。
わたくし――セラフィナは、手にしたシャンパングラスを揺らすことさえせず、ただ静かに目の前の男を見つめていました。
ジュリアン・ド・アルカディア王太子。
わたくしの婚約者であり、この国の次期国王……そして、今この瞬間に「致命的な計算ミス」を犯した愚か者です。
「……あら。左様でございますか」
わたくしのあまりに淡々とした返答に、周囲の貴族たちがざわめきます。
王子の隣には、可憐な花のような娘が寄り添っていました。この国の「聖女」として崇められているエラ・ルミナス。彼女は怯えたような瞳でわたくしを見上げ、震える声で言いました。
「セラフィナ様……ごめんなさい。でも、愛に形なんてないはずですわ。お金や権力で縛り付けるなんて、悲しすぎます……っ」
「エラ、君が謝ることはない。この女はアストレア公爵家の権勢を笠に着て、我が国の軍予算を私物化し、私腹を肥やしてきた。その罪、看過できん!」
私腹を肥やす?
わたくしは、思わず小さく吹き出しそうになるのを堪えました。
この男の脳細胞には、複式簿記という概念が存在しないのかしら。
わたくしにとって、この世界はすべて「数字」でできています。
感情も、忠誠も、そして愛でさえも、適切な対価を支払わなければ維持できない「動産」に過ぎません。わたくしがこの十年、一睡もせずに計算し続けてきたのは、ただ一つ。
――役に立たない自分には、一銭の価値もない。
その恐怖だけが、わたくしを突き動かしてきたというのに。
「ジュリアン殿下。確認ですが、婚約破棄に伴う『清算』については、既にご理解いただいているということでよろしいかしら?」
「清算だと? ふん、慰謝料なら貴様が払う側だ! 公爵家には追って多額の罰金を請求させてもらう!」
おーっほっほっほ!
……失礼。あまりの滑稽さに、喉の奥から笑いが漏れそうになりましたわ。
わたくしは背後に控えていた筆頭秘書、マリアンヌに指をパチンと鳴らして合図を送りました。彼女は無表情のまま、一冊の分厚い革表紙の帳簿を差し出します。
「では、始めましょうか。アストレア公爵家と王家、ならびに国軍との間に結ばれた『特別軍事融資契約』の棚卸しを」
わたくしは帳簿を開き、冷徹な声で読み上げ始めました。
「まず、殿下が今お召しになっているその礼服。生地は最高級の魔導シルクですが、これはわたくしの私費で購入したものです。次に、殿下の腰に差している『建国の聖剣』のレプリカ。その維持・研磨費も、わたくしの口座から引き落とされています」
「な、何を……」
「それだけではありませんわ。現在、国境に配備されている第一・第三騎士団。彼らが手にする剣、纏う鎧、そして今日食べたパンの一片に至るまで、その八割はアストレア家が『一時的に肩代わり』しているものです」
会場が、しんと静まり返りました。
騎士団長が、顔を青ざめさせて自分の剣を凝視しています。
「契約書第十二条――『婚約が一方的に破棄された場合、アストレア家は即座にすべての貸与資産を回収する権利を有する』。……マリアンヌ」
「はい、お嬢様。既に手続きは完了しております」
マリアンヌが手にした魔導端末が、淡く発光しました。
その瞬間、会場にいた騎士たちの鎧が、そして王子が羽織っていた豪奢なマントが、光の粒子となって消滅したのです。
「なっ……!? 服が、服が消えただと!?」
「いえ、消えたのではありませんわ。わたくしの『私有財産』を、元の場所に……つまり、わたくしの倉庫へ移動させただけですわ。私有財産をどう使おうと、持ち主の勝手でしょう?」
下着同然の姿になった王子と、震え上がる聖女。
わたくしは彼らに歩み寄り、扇子で王子の顎をくい、と持ち上げました。
「殿下。愛に形はないとおっしゃいましたわね? 素晴らしい。では、明日からの国防も『愛』で何とかしてごらんなさい。わたくしの計算では、この国に残された可溶性資産は……あと三日分しかありませんけれど」
「三日……!? バカな、そんなはずが……!」
「わたくしの計算に、間違いがあったことなどありませんわ」
わたくしは、凍りついた会場に背を向けました。
この国にはもう、一パーセントの未練もありません。
一パーセントの誤差……それは、わたくしがこの国を「破産」させるために、あえて残しておいた小さな穴。
さあ、次は隣国ですわ。
あそこの皇帝陛下は、わたくしの「利息」をどれほど溜め込んでいるのかしら。
「準備はすべて整いましたわ。……行きましょう、マリアンヌ。新しい『帳簿』を買いに行かなくてはなりませんもの」
わたくしの足音だけが、絶望に包まれた広間に高く、優雅に響いていました。
最後までお読みいただき、ありがとうございますわ。
王子殿下の「お召し物」が消えた瞬間の空気、皆様にも届きましたかしら?
さて、着るものも、戦う剣も、明日のパンも失った王国。
そんな崖っぷちの国を捨てて、セラフィナ様が向かう先は――「食費も削る極貧皇帝」の待つ隣国ですわ。
最強の「頭脳」と最強の「剣」が出会う時、世界がどれほどの値打ちに変わるのか。
次回、第2話「その剣、わたくしの金で作りましたのよ?」。
皆様の「ブックマーク」という名の投資、心よりお待ちしておりますわね。




