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あの子の給食袋  作者: お寿司
第二幕 分析

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24/44

知ってる

帰りの電車を降りたのは20時を過ぎていた。


椿市の橋の上で見た夕日の猫が、まだ網膜に残っている。瀬川正志という消した人間の名前と、ミスミという消された子供の名前を、電車の中でずっと反芻していた。改札を出ると夜の空気が顔に当たり、息が白く広がって消えた。


駅前のコンビニでおにぎりをふたつ——鮭と昆布を——買い、コートのポケットに突っ込んで歩いた。マンションまで14分の道のりを足を速めて歩きながら、明日は真奈と会う約束だったことを思い出した。渋谷のカフェで13時に待ち合わせのはずだが、先週LINEで決めたまま場所を確認していない。


マンションの廊下でチェーンを外して、部屋に入って、またチェーンをかけた。靴を脱いでコートを椅子にかけて、エアコンのスイッチを入れると、室外機の低い音がして、暖房が立ち上がるまでの数秒間、部屋の空気がわずかに揺れる。


鮭のおにぎりは冷えていて、海苔がフィルムに張り付いている。昆布のほうを先に食べて、パッケージのビニールを丸めてゴミ箱に入れてから渉にLINEを送った。


<今日の分をまとめます。明日は昼に用事があるので、夕方以降になります>


既読がすぐついた。


<了解です。住民記録の追加検索、朝までに出します>


<さっきの転出届の件、まだちょっと引きずってます>


MacBookを開いて、スプレッドシートに今日の調査結果を入力していく。椿市役所の応答、転出届、瀬川正志、実在しない住所、橋、記号対応表、ミスミ——キーを打つたびに今日歩いた場所の空気が指先から漏れていくような感覚がある。


入力しながら、橋の欄干のコンクリートの粗い手触りを思い出していた。あの橋の上で、夕日の数分間だけ猫の横顔が現れる。消された子供はそれを知っていて、記号の裏に自分の名前を隠していた。


スプレッドシートの行が増えていく。これだけのデータを集めても、消された子供の顔は分からないし、名前の読みが3文字だということしかつかめていない。


23時を過ぎた頃にパソコンを閉じ、歯を磨いてシャワーを浴びてベッドに入ると、目を閉じた途端に橋の風景が戻ってきた。薄暗い川面と夕日の角度の中で、猫の横顔が崩れていく。


 ◇


渋谷は混んでいた。


11月の土曜日で、ハチ公前の交差点を渡ってセンター街を抜け、宇田川町のほうに折れたのが12時50分だから、約束の時間まで10分しかない。真奈に会うのはパッタイの日以来で、あの日のカオマンガイは半分残したし、真奈は箸袋で星を折っていた。「知らない人なのに悲しくない?」——あれから何日が経っただろう。あの日の自分と今の自分では、知っていることの量が違いすぎる。


カフェは通り沿いのビルの2階にあって、階段を上がると木の床の匂いと焙煎の匂いが混ざった空気が来た。真奈は窓際のテーブルに座っていて、黒いタートルネックに髪はいつも通り後ろでひとつに結び、テーブルの上に開いたMacBookの横のアイスラテにストローで口をつけたまま画面を見ている。


「ごめん、先に来てた」

「12分前。悪くない」


真奈はMacBookを閉じた。画面にロゴの配色案が並んでいたのが一瞬見えた。


「新しい案件?」

「スタートアップのCI。ロゴとカラーパレットと名刺とWebのキービジュアル。まとめて請けた」

「大きいね」

「大きいけど予算が小さい」


真奈は笑った。予算の話で笑えるのは、予算に慣れているからだ。


メニューを見てブレンドコーヒーを頼み、真奈はアイスラテのおかわりを頼んだ。


「で、静ちゃんは? 仕事」


ゲームの取材記事は、まだ形になっていない。書くべき記事は頭の中にあったが、記事にするにはまだ足りないものがあった。


「進めてる。取材記事。前に話したやつ」

「あのゲームのやつでしょ。空っぽのアパートの」

「そう」


コーヒーが来た。白い陶器のカップの中の黒い液体を一口飲むと、浅煎りで酸味のほうが強い。


「取材どうなの」

「進んでる。制作者の周辺を調べてて。知り合いにも何人か会った」

「危なくないの。その制作者、失踪したんでしょ」

「今のところ大丈夫」


その言葉を口にした自分の声を聞いた。5枚目の写真が来た日にも同じことを言ったかもしれない。チェーンをかけるようになった人間が言う「大丈夫」は、大丈夫ではないときの符丁だ。


真奈はアイスラテのストローを回していて、氷がグラスの中でカラカラと鳴っている。


「制作者の名前って何だっけ。前に言ってなかった?」

「瀬川。瀬川和彦」


名前を口にした。真奈の前で瀬川の名前を出すのは初めてで、先月のランチでは「制作者」としか言っていなかった。


「瀬川さん」


真奈が繰り返して、ストローから口を離した。


「和彦さん?」


確認するときの声だった。記憶を探っている。


「うん。瀬川和彦」

「知ってる」


コーヒーカップを持つ手が止まった。


「え?」

「SNSでつながってた。1年くらい前かな。デザイン系のコミュニティで」


真奈を見た。何でもないことを話すときの表情で、驚いていないし隠していたわけでもなく、ただ思い出しているだけの顔だった。


「つながってたって」

「Xでフォローし合ってた。あとデザインのDiscordにいた。Webデザインとインタラクティブコンテンツの話をするサーバーで、制作物を見せ合うチャンネルがあったの。そこで何回かやりとりした」


真奈がストローでグラスの底を突くと、氷が崩れる音がした。


「インタラクティブコンテンツ——」

「静ちゃんが言ってる代替現実ゲームってやつもそうでしょ。Webで作り込んでる系の。瀬川さんはそういうのを作ってる人で、デザイン面が結構すごかったの。スキャン画像の質感とか、フォントの選び方とか。私は純粋にデザインの話をしてただけだよ」


真奈は説明しながらも、声に力みがなかった。隠していたのではなく、話す機会がなかっただけだ。1ヶ月前のランチで「瀬川」という名前を出していたら、真奈はそのとき「知ってる」と言っていただろう。名前を出さなかったのは自分のほうだった。


責められない。


隠していたのなら問い詰めることができるし、忘れていたのなら仕方がないと思える。でも真奈は何も悪くない。知っている人の名前が出たから、知っていると言っただけだ。


カップの持ち手を指で回すと、陶器の縁が滑った。


「いつ頃のやりとり?」

「去年の秋くらいかな。Discordでデザインの話をしたの、3回か4回。Xでも何回かリプしたと思う。でも今年に入ってからは全然やりとりしてない。向こうの投稿が止まったから」


投稿が止まった時期は、瀬川和彦が失踪する前後にあたる。


「止まったのはいつ頃?」

「正確には覚えてないけど、春くらい? 急にいなくなったなって思った。まあフリーランスあるあるだよね。忙しくなるとSNS止まるし」


真奈はそう言って笑った。SNSが止まる人間の事情を知っているフリーランス同士の、あの種の共感が混じった笑い方だった。


「瀬川さんがいなくなった話、ニュースで見た?」

「ん? いや、見てない。いなくなったの?」


見ていない。真奈は瀬川和彦の失踪を知らなかった。デザインコミュニティの知り合いがSNSを止めた程度の認識でしかなかったのだ。


「制作者が失踪して、それで私が取材してるの」

「え、そうだったの」


真奈の眉が動いて、驚いている。その驚き方に裏はなく、知り合いが事件に巻き込まれたかもしれないと聞いたときの、当たり前の反応だった。


「大丈夫なの、それ」

「何が」

「取材。その人いなくなってるんでしょ。静ちゃんがそれを調べてて、それって大丈夫なの」


コーヒーを飲んだ。ぬるくなっていて、カップの底に液体が少し残っている。


「大丈夫。取材だから」


また同じ言葉を言った。真奈はそれ以上踏み込まず、聞いて、反応して、それ以上は待つ。


テーブルの上で真奈の指がアイスラテのグラスの結露を拭き、指先が濡れて、それをナプキンで拭った。


「真奈は瀬川さんと、リアルで会ったことはある?」

「ないよ。全部オンライン。Discordのテキストチャンネルと、Xのリプだけ。声も聞いたことない」


テキストだけの関係で、真奈にとっては数100人いるフォロー先のひとりにすぎない。


「真奈のアカウント、瀬川さんのフォロワーに入ってるってことだよね」

「うん。たぶんまだ相互のはず。消した記憶ないし」


真奈のSNSアカウントが瀬川和彦のフォロワーリストにあり、サイトの制作者とつながっている人間のリストに真奈の名前が表示されている。


コーヒーの残りを飲み干して、空になったカップをソーサーに置いた。


「静ちゃん、顔色悪いよ」

「寝てないだけ」

「それはいつもでしょ」


真奈が首を傾げた。パッタイの日に「それ大丈夫?」と聞いたときとは違う目で、何か別のものを測っている。


「ねえ、ごはん食べた?」

「おにぎり食べた。今朝」

「今朝。それ、昨日の夜のやつでしょ」

「……昨日の夜のやつ」


真奈が大げさなため息をついた。


「夜ごはん行こうよ。今日。仕事終わったら」


真奈には真奈の締め切りがあって、テーブルの上のMacBookの中にはロゴの配色案があるのに、それでも夜ごはんに誘ってくれている。


「今日はちょっと」

「取材?」

「うん。夕方から作業がある」


渉のデータ整理がある。住民記録の追加検索の結果を待って、スプレッドシートに組み込まなければならない。10日目。残り3日。その数字が頭の中で回っている。


「じゃあ来週。来週のどこかで。約束ね」

「うん」

「後でね、じゃなくて。約束」


後でね。


その言葉が口から出かかっていたのを、真奈に見透かされていた。


「約束する」

「嘘。静ちゃんの約束は信用してない」


真奈は笑いながら、テーブルの上の紙ナプキンの端を小さく折っている。箸袋がないから紙ナプキンで、前と同じ手癖だった。


「行くよ。来週」

「後でね」


真奈がそう言った。言うはずだった言葉を、真奈のほうが先に使っていて、冗談の調子で声は軽かった。


カフェの窓から渋谷の通りが見えていて、11月にしては暖かい午後の光の中を人が歩いている。真奈が紙ナプキンを折り続けていて、3角形ができかけて角がつぶれて、真奈は構わずに次の角を折っている。


テーブルの上には二人分の空いたグラスと冷めたコーヒーのカップがあり、ここにいる間だけスプレッドシートの数字が遠くなっていた。


「あ、そうだ。最近ちょっと変なことがあって」


真奈がグラスを置いた。


「変なこと?」

「なんか最近、見られてる気がするんだよね」


テーブルの下で膝が動いた。自分で止めた。


「見られてる?」

「うん。駅とか、コンビニの前とか。振り返ると誰もいないんだけど。なんか視線がある感じ」


真奈は笑っていた。困ったように笑っていて、怖がっている顔ではない。


「最近疲れてるからかなあ。CI案件のせいで夜遅いし、目がおかしくなってるのかも」


真奈は自分で答えを出していた。疲れ。目の疲れ。仕事のストレス。

何か言わなければいけなかった。5枚目の写真のこと。誰かがすぐそばまで来ていること。


「気をつけてね」


その言葉しか出てこなかった。


「気をつけるって何に?」


真奈が笑った。笑ったまま腕時計を見た。


「あ、3時からクライアントとオンラインミーティングなの。ロゴの色の最終確認。あと50分しかない」


真奈がMacBookをバッグに入れて、伝票を取った。


「今日は私が払う。次は静ちゃんの番ね」

「前もそう言ってた」

「だから2回分ね」


真奈は伝票を持ってレジに向かい、テーブルに座ったまま空になったコーヒーカップの内側を見ていると、コーヒーの輪染みが縁に薄く残っている。


真奈が戻ってきて、バッグを肩にかけ、テーブルの上の紙ナプキンを見た。


「あ、また折っちゃった。癖だね」


星にはなりきれなかった小さな3角形を、真奈はテーブルの上に残した。


「じゃあね。来週、約束だからね」

「うん」

「後でね」


真奈がもう一度その言葉を使い、笑いながら手を振って、階段を降りていった。足音が遠くなり、カフェのドアが閉まる音がして、テーブルの上に紙ナプキンの3角形が残っている。


手に取ると折り目が硬かった。ポケットに入れた。


後でね。


真奈の声が耳に残っている。いつでもまた会える前提の言葉で、来週も、その次の週も、この人はここにいるという前提で発された軽い言葉だった。

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