何のために生きている
右も左も
人の山
誰もが疲れ切った顔で
吊り革を握ってる
月曜日の朝
安らぎとは言えない
一応の休息を背に
俺達はまた
暗い
重い
この日常に漕ぎ出した
行き詰まり
止まってしまった俺達は
横のあんたに
いやむしろ
自分自身に
問い掛けなきゃならない
何のために生きているのか
答えられないのはどうしてだ
生きることに
意味などないとほざくなら
死んじまっても
同じだろうが
右も左も
うかがって
はみ出さずにいることを
ひたすら目指す
こんな世界に誰がした
人は誰でも
自分自身であるべきなのに
それが出来ない
不幸な世界
俺達はただ
幸せでありたいだけだから
横のあんたに
いやむしろ
自分自身に
問い掛けなきゃならない
何のために生きているのか
幸せなんて
普通に生きてるだけで
手に入るものじゃないのか
いつからこんな
得難いものになったのか
死にたい訳じゃないけれど
妥協して生きるより
貫いて死ぬ方が良いから
馬鹿と思える道を
選ぶ時もある
何のために生きているのか
答えられないのはどうしてだ
死んだ方がマシだと歎く前に
あんたはホントに生きているのか
何のために生きているのか
答えられないのはどうしてだ
偉そうに言う俺は
多分
一人で
空しく
死んでいくだけ
それでも
ここで
この人ごみの中で
もう一度
問い掛ける
何のために生きているのか
答えられないのはどうしてだ
―――
死んでも良いと本気で思うことがあります。
愚痴をこぼし、不平を言うだけの人生ならば、です。
でも、「生きるため」というより、「生き延びるため」に、その道を押し付けられることもあります。
そんなことに意味があるのでしょうか。
僕には分かりません。
ただ一つ、(かなりカッコつけて)言える事があります。
「手元のワンペアにこだわる奴には、ロイヤル・ストレート・フラッシュは絶対に作れない」。
P.S.
B'zの「Motel」にこんな歌詞がありました。
「ひとりじゃないから 汚れながら生きてる」
多分、そういうことなんでしょう。