五章⑧『婚儀』
三ヶ月。
妖精境へとアルテミシア達がやって来てから、実に三ヶ月の月日が流れた。
とは言え、彼らのやることが何か変わるかというと、別段、何も変わりはない。午前中は診療、午後から城の中庭で鍛錬、夜は練丹洞から持ち帰った手記や本草書などの蔵書を読み解く作業。
生薬が足りなくなれば、練丹洞の無尽本草庫まで取りに行くこともあった。もうツユクサの足には頼れないので、犬妖精の背を途中まで借り、後は歩いて行くしかない。ジャック曰く『これも鍛錬』だそうだ。
それらの合間や休憩時間などには、ルクルク王女が茶会を開いたり、お姫様との無邪気な遊戯に耽ることもあったし、一度きりと約束したはずのお泊まり会が、アルテミシアの部屋で行われる夜もしばしばあった。『一緒に寝たい』と王女様がワガママを言う度にクラウズェアは反対するのだが、彼女のご主人様も一緒になって懇願すると、赤毛の騎士は折れるより他はなかったのだ。
そうして今日も彼らは、昨日と似たような、それでいて楽しく充実した一日を送る、はずだった。
ルクルクの、この言葉を聞くまでは。
「お父様が、アルテミシアとの婚儀を企んでらっしゃるわ」
午後の鍛錬を行っていた面々は、いつもの時間より遅れてきたルクルクの、この開口一番の台詞に、すぐには反応ができなかった。
「ぼく、王様と結婚するの?」
“結婚”という、いかにも自分には縁遠い一大行事に、少年は他人事みたいに問い返した。
まあ、それ以前に、結婚というものを“男女が一緒に暮らす”という意味程度にしか認識していないアルテミシアではあったのだが。
「結婚しちゃ駄目でしょっ? そんなの不道徳過ぎる!」
遅れて、泡を食ったクラウズェアが絶叫した。
「姐さん、お静かに。どうやらこいつぁ、周りに聞かれちゃマズイ話みてぇだ。そうでしょう?」
ルクルクの表情から、これが王女様のたわいない冗談などではなさそうだと察したジャックは、激情に駆られた女騎士を諫め、仰天ニュースをもたらした少女へと話を促した。
そのルクルクだが、当初の強ばった表情から一転、俯きがちにアルテミシアの赤いスカートを見下ろしている。
「……人間と猫妖精との結婚って、そんなにおかしいのかな? アタシだって、アルテミシアとお父様が結婚だなんて、反対だけど」
快活な少女に似つかわしくない、小さくか弱い声だった。
「ルクルク?」
アルテミシアの声に、呼ばれた少女の視線が上がる。赤いスカートから、より赤い目へと。
「いえ、あの、決して御父君のことを悪く言いたかったのではなく、ただ、そのぅ……男性同士の結婚は、道義に反すると言いますか」
しどろもどろに横から言葉を挟むクラウズェアと、
「男性同士?」
大きな目を何度もパチパチ瞬きさせるルクルク。
「不道徳なの?」
「不道徳よ、やっぱり。だって、男同士よ?」
アルテミシアの問いに、ルクルクを気にしながらもクラウズェアは訴えた。
「男同士?」
「はい。ですから――」
「誰が?」
「え?」
「誰が、男なの?」
「え、誰って。シアは男ですし、陛下も殿方ですよね?」
「えぇっ? アルテミシアって、男の子だったのぉっ?」
端から見れば馬鹿みたいな問答だったが、ルクルクの中では劇的な変化が起こっていた。
それまで、猫妖精と人間という種族の壁から生じる部分で拒否反応を起こされたものだとばかり思っていたのだ。それが実は、そうではなかった。猫妖精でも、同性同士は結婚できない。ルクルクの心は晴れた。
次に、ルクルクはこれまでの己の行動を思い出した。女の子だとばかり思っていた、アルテミシアとのことを、だ。
随分と恥ずかしい真似をしてきたものだ。生まれて初めてできた異性の友人に取る行動ではない。だがそれは、照れ臭くはあるものの、思ったほどの羞恥はなく、ましてや拒絶感は欠片も生まれなかった。
「そうなのね」
嬉しげに呟いたルクルクは、だが、未解決の問題が残っていることを思い出し、それを打ち明けた。
「なら、それは回避できそうね。けど、お父様はアタシとクラウズェアとの婚儀も考えてるの」
この言葉に、ジャックは吹き出し、クラウズェアは顔を強ばらせて固まった。
「ローズ、結婚しちゃうの?」
「……ここでは女同士で結婚できるのですか?」
アルテミシアの問いを受け、どこか疲れた風のクラウズェアが問うた。
「まさか、アナタって……女?」
このルクルクの言葉には、さすがにクラウズェアもガックリと項垂れてしまった。
「ちっ、違うの! これは、その、アナタがズボンを穿いてるから、てっきり。それに、背が高いものだから、つい」
ここ妖精境において、ズボンを穿く者は限られた職種に就く者だけだ。そして、それらの職に就く者達は皆、男ばかりである。
その上、猫妖精から見れば、人間の男女の差などあまり区別が付かない。変化の術で人間に化けられるようになったルクルクでさえ、そうなのだ。ましてや、彼女以外の者ならば、クラウズェアとアルテミシアの性別を見抜くことなど容易ではない。
……ただし、アルテミシアに関して言えば、人間でも“少女”と見紛う者が大半だろうが。
「これはまずいわね。だったら、婚儀の相手が逆になるだけの可能性が大きいわ。やっぱり逃げる算段をつけておかないと」
華燭の典は一月後。
ルクルクがスルトン宰相から聞いた、婚儀の予定日だ。だから皆、聞き耳を立てられる恐れの少ない、中庭の東屋に集まり、相談し合った。ここは比較的見晴らしが良く、誰か近づけば気付きやすい。それで、数日中に準備を終え、妖精境からの脱出を計る算段を付けたのだが。
――その、翌日。
「明日、婚約の儀を執り行う」
ここは城の大広間。玉座の安置された高座の、その一段下に立った宰相のスルトンが、高らかに宣言した。国王のナデファタは、どこか思い詰めた表情で、家臣団を見下ろしている。
「この度は、国王陛下とアルテミシア殿、王女殿下とクラウズェア殿とのご良縁が整い、まことに目出度く――」
「婚約だとっ? キサマ、気でも狂ったかスルトン!」
王広間に、バイガン将軍の怒声が轟いた。
「やな予感しかしなかったんですが、まあ、この場に呼ばれた時点で察しは付きましたが」
ジャックが居るということはアルテミシアも居るということであり、勿論、クラウズェアも居る。
ルクルク付きの侍女だけではなく、兵士達も伴って大広間まで呼び出された時点で、クラウズェアにも見当は付いていた。とは言え、暴れたところで事態が好転する訳もなく。今は大人しくしておくのが上策だろうと、素直に従ったのだ。
だがここに、バイガン将軍と同じく、黙ってはいられない者が居た。
「お父様、ワタシ、今回のことは納得していません! そんな勝手、二人の友人として認められません!」
猫妖精姿のルクルクが、気炎を吐いた。
言葉をぶつけられたナデファタは、良心の呵責から、娘をまともに見られないでいる。
「殿下には昨日きちんとお伝えしたはずです。更には、殿下からアルテミシア殿、クラウズェア殿へのご通達もお済みのはず。その上で、お二方からは異存を頂戴することもなく、こうしてこの場にお越し頂いたのです。ご当人方が納得済みのことを、どうして今更蒸し返すようなことをなさるのです」
「納得済みですってっ? スルトン、アナタ本気で――」
「やかましいッ!」
その時、
それまで怒りに震えていたバイガンが、とうとう爆発したように叫んだ。
「ワレラ高貴な銅目族が、下賤で矮小なニンゲンなどと婚姻を結ぶだとっ? バカも休み休み言え! スルトンっ、キサマは国家反逆罪で処刑する! それからナデファタ。国王としては能なしで、血族の一員としても他聞を憚る軟弱者。オマエがそこに座する資格はない! 今すぐ、ワガハイに王座を明け渡せッ!」
この言葉こそが、王への反逆に他ならない。だが、文官達は皆怯え、武官達も将軍の剣幕を恐れて何も言えない。そうでなくとも、王弟のバイガンに対しては、いち家臣として言上はし辛い。
そんな中、武官のクローシェーイだけは、事態の推移を――クラウズェアとアルテミシアの二人を、静かに見詰めている。
宰相のスルトンは、もしもの時にと、外に控えさせていた子飼集をいつでも呼べるよう、懐の鈴に手を伸ばす。
「いくら陛下のご令弟様とは言え、先程の言葉は目に余ります。陛下の御前で陳謝なさいませ」
「なんだと、キサマ。誰に向かって口を利いている?」
スルトンの言葉に、バイガンの怒りの質が変化した。赤銅色の目は血走って赤みを増し、その物騒な赤の中では瞳孔が縦に裂けている。
「バイガン、よさぬか」
この時初めて、ナデファタ王が口を開いた。
「アルテミシア殿、クラウズェア殿。このような醜態を晒してしまい、まことに申し訳ない。事を性急に進めた件も、心苦しく思っておる。だが、些かなりとも此度の件を前向きに受け止めてもらえるなら、幸いだ。我ら銅目族、英雄達を快く迎え入れよう。バイガンにも、善く善く言って聞かせる。どうだろうか?」
これには、問われた本人達よりも誰よりも早く、バイガンが吠えた。
「ふざけるなぁッ!」
大広間の空気が、ビリビリと振動する。
「愚兄よ。衰えて曇ったオマエの眼、今すぐに覚ましてやる」
「姐さん!」
向けられた殺気に誰よりも早く反応したジャックが、警戒の声を発した。同時に、アルテミシアに〈かかりみ〉する。
ジャックのおかげで、クラウズェアは動くことができた。そして、命拾いをすることとなる。
赤毛の女騎士が〈薄紅〉を変成させた時。構えたとも言えないその紅刃に、バイガン将軍の大刀が叩き付けられていた。
彼我の距離は、十二m。
武官が一列に居並ぶその先頭から、文官列先頭の一歩手前、そこがクラウズェア達が居た場所だった。
「くッ?」
目にもとまらぬ襲撃に、さしものクラウズェアも後ろに吹き飛び、壁面に背を打ち付けてしまう。幸い、ある程度の衝撃は、白刃を受け止めた時に床に逃がしたし、何よりも、薄紅が一瞬だけ“撓う”働きをしてくれたので、衝突の力をまともに手で受け止めずに済んだ。
結果、ぶつけた背を痛めるまでには到らなかった。
「ローズ!」
アルテミシアは叫び、その焦りとは別に、ジャックに預けたその身は動き、追撃態勢に入っていたバイガンを、横から打った。
空いていた横っ腹に打ち込まんとした掌は、だが、大刀を振り上げていたその右腕を下げられ、防がれてしまう。
「ぬっ」
そのまま将軍は、左手側――大広間正面の壁まで自ら跳ね、壁面を蹴って玉座の手前まで飛び退った。
「さすが、一国の将の頭を担うだけはありやすねぇ。オマケにその高ぇ身体能力ときたら」
おどけた台詞とは裏腹に、ジャックの声には切迫した色が滲んでいる。
バイガンは――城の者が知る彼の常と反し、激昂するでもなく、大刀を左手に持ち替えた。先程までは湧くに任せて発散されていたものが、一点に絞られた。視線は、ジャック=アルテミシアを捉えて外さない。
と、その時。
「この、愚か者がッ!」
落雷の如き大音声が轟き渡った。
ぶつり、と、紐のちぎれる音がした。
「英雄達に、なんということを」
ぶつり、ぶつり。
引き千切れる音と共に、座したナデファタ王の体が膨らんでいく。
「あ、兄上?」
バイガンの体が、ぶるりと震えた。
猫妖精の服は、ゆったりとした作りになっている。暑いからというのも勿論あるが、彼らが変化の術を使うからだ。大きさを増した身の幅に合うように、かなり余裕のある作りになっている。その大きな服を、術を使う前の身幅に合わせ、紐で絞ってあるのだ。
これは、その紐が千切れる音なのだ。
ばきぃっ。
そして、玉座が砕け散る音が響いた。
高座には、玉座の残骸と、身の丈三mの獣人が、大きな足で床を踏みしめてバイガンを睥睨していた。
「老いぼれて体が弱っていたはず……」
「暑さと、どこぞの愚か者に頭を悩まされ、一時的に弱っておっただけだ。それも、彼らの優れた医術で回復した」
「……伝承に聞く人虎だな、こりゃあ。こんなデカかったのか知らねぇが」
ジャックが誰に言うともなしに呟く。
アルテミシアは、クラウズェアの側で背をさすっている。
「それなのに、お前は」
押し殺した怒りがまた爆発し、ナデファタは裂けた口を大きく開け、身も凍るほどの恐ろしげな牙を誇示した。
「手足の一、二本は食いちぎってやるッ!」
暴風のような勢いで飛び、バイガンへと襲いかかった。
バイガンの居た辺りから爆発に似た破壊音が広がり、床が砕け散って二人はもみ合いながら落下していく。
「三人とも、今のうち」
周囲が唖然として動けない中、静かに駆け寄ったルクルクがアルテミシア達に囁いた。
「ですが、放っておいては……」
生真面目な女騎士が、穴と王女を見比べると、ルクルクは悪戯っぽく笑って見せた。
「いいのよ。叔父様も少しはお灸を据えて貰わなきゃ。それにしてもお父様、元気になられて良かったわ。皆のおかげね、ありがとう」
「いえいえ、どういたしやして」
王女の礼を、ジャックが代表して受け取った。
「とにかく。この好機を逃したら、次はないわ。あのお父様から逃げるなんて、絶対できっこないもの」
「それは、確かに」
クラウズェアは、これ以上なく納得した。残りの二人も同意だった。
「ぼく達が逃げて、ほんとうにルクルクはだいじょうぶかな?」
既に話し合った内容ではあったが、改めてアルテミシアは問うた。
「大丈夫よ。お父様、アタシには甘いんだから! 言い訳も考えてあるし、ね?」
「……うん」
頷いたアルテミシアの手を取り、ルクルクは皆を導いた。




