五章⑨『別れ』
大広間の騒動が幸いし、城の者達の注意は一カ所に集まっていた。ルクルクの手引きで、人通りの少ない廊下を選び、あるいは隠れてやり過ごし。
「ここを抜けたらいつもの中庭で、そこを突っ切って行けば厨房。それで、更に行けば城の裏門に出られるわ」
もうすぐかというところで、
「お待ち下さい!」
追い付かれてしまった。
数は四人。儀仗兵の格好をしてはいるが、大広間を守るいつもの顔ぶれではない。ルクルクの知らない者達だった。
「アナタ達は?」
「はっ、宰相閣下にお仕え申し上げる者に御座います」
「スルトン宰相の子飼集ね。初めて見たわ」
これは不味いとルクルクは思った。彼らは足が速い。逃げるのは無理だろう、と。戦って、無力化しなければならない。
「命令です、退きなさい」
「それは、王女殿下のご命令でも聞けませぬ。例え、首を刎ねられることになっても」
四人居る子飼集のうち、二人は儀仗を構えた。残り二人は儀仗を捨て、腰に提げた縄を取った。縄錘と呼ばれる捕縛用の武器で、数メートルの縄の先端に金属の錘が付いている。
ジャックは最初から〈かかりみ〉をしている。
クラウズェアも薄紅を変成させたが、気は進まない。子飼集は職務に忠実な、むしろ、仕える者の鑑とも言うべき存在に見えたからだ。尊敬の念こそ湧けど、敵意を向けるのは難しい。だが、捕まれば終わりだ。
その時だった。
ジャックは気配を察し、アルテミシアは人とは違う目でそれを見た。子飼集の背後に忍び寄る、何者かの姿を。
精鋭だけあり、異変に気付いた四人も遅れて反応したが、間に合わない。振り返った彼らは、四人並んだ内側の二人は顎を柄頭で打ち上げられ、外側の二人は側頭部を三日月刀の腹で打たれた。
四人は襲撃者を目にすることもなく、脳震盪を起こして床に崩れ落ちた。瞬く間の出来事であった。
「アナタは」
「ソレガシは、クローシェーイと申す」
「このドサクサに紛れて、あっしらを捕縛なり始末なりするつもりですかい?」
ジャックの皮肉げな問いに、クローシェーイは歯を剥いて笑った。ノコギリのようにズラリと並んだ前歯が露わになる。
「ひえぇ、おっとろしぃ」
過剰に怖がってみせるジャックと、
「武人……バイガン将軍配下の者か」
緑の目を細め、クラウズェアが低い声を吐いた。大切なご主人様を傷付けられた怒りは、未だに彼女の中で燃え盛っているのだ。
緊張感漂う中、アルテミシアだけが平時の調子であった。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
身振りを知らない少年は、頭を下げることも知らず。だから、ただ謝意を述べただけだった。相手の顔を、じっと見て。
「ちょっと、お礼なんて言わなくて良いのよ!」
慌てたルクルクがアルテミシアの袖を引き、ついで、敵意の籠もった目でクローシェーイを睨み付けた。
目をぱちくりさせてルクルクを見たアルテミシアは、だが、何も言い返さず、再びクローシェーイを見詰めた。
「……ソコモトらには無用のものであったろうが、な」
それまで浮かべていた笑いを引っ込め、クローシェーイは言った。
「さあ、行くがいい。速やかにこの国より去れ」
だらりと下げていた三日月刀を鞘に収め、壁に背を預けた彼は、そう言って視線を外した。
「そうやって、背後からバッサリ、ってか? 不意打ちがお得意のようですからねぇ」
ジャックは悪し様に言い募り、クラウズェアは薄紅を正眼に構えている。
そんな中、
「だいじょうぶだよ。行こう?」
すたすたと一人歩き出す少年に、ルクルクもクラウズェアも逡巡したのだが。結局は、背後を気にしながらも、一行は従ったのだった。
「おめでたい奴だ」
その背を見送りながら、クローシェーイは呟いた。
「だが、外にも面白い奴が居るものだ」
少しだけ、愉快そうな色を含ませて、去った異邦人達を見送った。
中庭に出た一行は、そのまま一直線に駆けていた。
「追って来ないかしら?」
後ろを振り向き振り向き、ルクルクが心配そうに漏らす。
「恐らくは大丈夫でしょう。殺気のようなモンは感じませんでしたし。煽っても反応がありやせんでしたからね。まあ、巧く隠してた可能性もありやすが」
「ジャック、あれ、わざと言ってたのっ?」
「ジャックにしては冷静さを欠いていると思えば。それに比べてわたしは未熟だ」
ルクルクとクラウズェアの二人は恐れ入り、同時に、感情をむき出しにしていた己を顧み、恥じた。
「あっしからすりゃあ、お二人さんの素直さってぇのは、好ましく感じる部分が多いんですがねぇ。だから、シア嬢ちゃんのことも大好きです」
影人間の唐突な言葉に、女性陣は照れ笑いを浮かべ、〈かかりみ〉されていない白い頬も、桜色に染まった。
それを見た少女二人は、笑顔を不機嫌なものに変え、少年の体を――影が〈かかりみ〉している辺りをジットリと睨んだ。
「す、素直ってぇのも考えもんですねぇ」
誰にも聞き取れない小声で呟いたジャックは、ハハッと力ない愛想笑いを零した。
と、その時――
「あ」
アルテミシアが声を漏らしたと同時。一行の眼前に、青い大獣が忽然と立っているのを目にしたのだった。
アルテミシア達にとっては久方振りの、ルクルクからすれば初めて目にするその獣は、陽光の下、波打つ海原のような姿を風に遊ばせ、超然とそこに在った。
蝉の声は知らぬ間に止み、風の音しか聞こえない。
「ツユクサ!」
アルテミシアは嬉しそうに声を上げ、
「いつもながら、心臓に悪い」
クラウズェアは相変わらずの緊張感に身を硬くし、
「……し……神速、狼?」
呻くような声を絞り出したルクルクは、側のアルテミシアに知らず知らずにしがみついていた。
自然、皆の足が止まる。
ガタガタと震えるルクルクを、アルテミシアは抱きしめた。少女の、健康的な褐色の肌は、あまりの恐怖に色褪せてしまっている。アルテミシアが居なければ、気が狂ったように泣き叫ぶか、そういった間もなく、気を失っていただろう。
「ルクルク」
少年は、震える少女の耳元に口を寄せ、こう言った。
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。ツユクサは優しいから、だいじょうぶ」
だいじょうぶ。そう優しく繰り返される度、ルクルクの中で恐怖が和らいだ。背を撫でられる度、大きくて安心できる存在に包み込まれている気がした。胸を満たす少年の匂いは、どこか甘やかで。いつかの夜に飲んだカモミールのミルクティーを懐わせて、鼻の良い彼女には抗えない魅力だった。
いつしか彼女は、白い首筋や黒い髪に顔を押し付けていた。
「あっしもクンカクンカしたい……」
欲望の権化が、指でも咥えそうな羨望の声を漏らした。
その声に、ルクルクは己のはしたない行為にハッとし、クラウズェアは影人間の気持ちの悪い欲求にゾッとした。
「だいじょうぶ?」
赤い目の持ち主が赤銅色の猫目を覗き込み、羞恥で赤面しながら、それでも視線を逸らせない少女は、こくりと僅かに頷いた。
だが、身振りの解らないアルテミシアには通じない。
「どうしたの?」
鼻がくっつきそうな位に顔を近付けたアルテミシアに、そこから逃げるように少年の肩に顔を押し付けたルクルクは、
「だっ、だいじょうぶ」
消え入りそうな声で応じたのだった。
その間、他の面々はと言うと。
クラウズェアは周囲を警戒し、ジャックはふて腐れたように地に寝っ転がっていた。掴めるものなら、草でも引き千切っていそうな有り様だ。
ツユクサは。その、長い長い時間を憶わせる、深い深い琥珀の目で、ただじっと、アルテミシアを見ている。
アルテミシアは、ルクルクを抱きしめたまま、ツユクサへと顔を向けた、
「ぼくたちに会いに来てくれたの?」
この問いかけに、いつも通り獣は鳴き声一つ上げはしなかったのだが、少年にはそれで良かった。
「ほんとう? 【よかったね、モリオン】」
この言葉に、胸中のモリオンは弾んだ。
「ツユクサはなんて言ってるの?」
クラウズェアが問うと、
「うん。あのね、外まで連れて行ってくれるんだって」
そう、答えたのだった。
「へえ? 背に乗っけてくれるってぇ訳ですかい。こいつぁ、助かる」
「う、む。また、乗るのか」
ジャックは気楽そうに、クラウズェアは気重そうに、それぞれの反応を見せた。
そしてルクルクは。
知らず、手に力を込め、ひっしとアルテミシアにしがみついていた。今までは友人達を逃がす事だけを考え、夢中だったのだ。だが、いざ別れが迫った時、襲い来る喪失感に怯える少女が居た。
そんな少女の変化に、アルテミシアも気がついた。
「そっか。ぼくたち、お別れなんだね」
神殿に住んでいた頃は、毎日、クラウズェアに会うのを楽しみにし、別れを寂しがったのだ。旅に出てから三ヶ月少し。皆といつでも一緒だったアルテミシアは、その夢のような生活を捨てるのだと気付いた。
だから、悲しくなった。
悲しくなって、苦しくなって、涙が溢れてきた。
声を上げることも表情を変えることもなく、少年は泣いた。
こぼれ落ちる涙に気付き、ルクルクの顔が上がる。
泣いてしまいそうだった少女は、男の子が泣くのを見て、自分まで泣いてはいけないと思った。それから、白い頬を伝う涙を、そろりと舐め取った。
人間の舌よりざらりとしたその感触に、なんだかくすぐったくって。
「ふふっ」
溜息のような泣き笑いの声を、少年は漏らしたのだった。
「さあ、行って!」
アルテミシアから身を離し、強めの口調でルクルクは言った。皆を促すよりも、自分に言い聞かせるように。
「シア」
気遣う優しい声に、アルテミシアは幼なじみの少女を見た。
「うん」
短く答え、
「さよなら、ルクルク」
手を振ることも知らない少年は、赤い目でじっと見ながら、少女に別れを告げる。
「お嬢ちゃん。そこは『さよなら』じゃあなくって、『また会おう、愛しの』違った『大切な我が姫よ!』って、言いましょう。感動的に。一つヨロシクお願いします」
空気を読まずに割り込んだジャックの戯れ言を、クラウズェアは止めなかった。
「またね。大切なぼくのお姫様」
アルテミシアは、自分の言葉に言い直し、ルクルクに告げた。
「またね、アルテミシア。お姫様みたいな、王子様」
ルクルクは、笑いながら返した。
「お世話になりました。また会いましょう」
「こっちの方こそお世話になったわ。またね、クラウズェア」
「もっかいスイカ割りしやしょう。あと、水遊び! 少女達が薄着でたわむれる、一夏の思いで! そいつを生きる希望にしようと、ジャックは思ったのでした。そいじゃ、また」
「もう、アナタは相変わらずね。うん、遊びましょ、また!」
めいめいが再会を口にし、猫妖精のお姫様以外は、青い獣の背に乗る。
そして――
その場から、姿を消したのだった。
まさに神速の名にふさわしい速度で。
草一つ乱さず去った、その後に、やがて、蝉共のうるさい鳴き声が戻ってきた。
それはとても喧しかったので、きっと近くに寄らなければ誰も気付かないことだろう。独りぼっちになった女の子は、誰に聞かれることもなく、たくさん、たくさん、泣いたのだった。
大好きな友人達に、泣き顔で別れをしなかったこの少女は、とてもとても偉いのであった……。
ひと飛びだった。
たったのひと飛びで、城の中庭から、街より離れた丘の上に立つ、妖精境と外を繋ぐ虚の空いた大木まで、ツユクサは跳んできた。
「はやっ?」
たまげたジャックが素っ頓狂な声を上げた。
はらはらと涙を流し続けているアルテミシアに、背後から手を伸ばし、ハンカチで拭っててやるクラウズェア。
「シア嬢ちゃんは泣き虫さんですねぇ」
ジャックが言った。だが、馬鹿にした風でもなく、温かみのある声だった。
「ごめんなさい」
思わず謝るアルテミシアに、
「シアは泣き虫で良い」
クラウズェアはキッパリと断言した。
「最近は少し違うけど、この子はすぐに『だいじょうぶ』って言うから。わたしを心配させる悪い子は、悲しいことがあれば直ぐに判る方が良い」
聞きようによっては酷い言い草だったが、直向きな愛情の籠もった言葉であった。
ジャックは思った。この少女はアルテミシアにとって海なのだと。どれだけ涙を流そうと、無限に受け止め続けるのだろうと。
そして、言われた当の本人は。
「うぅ」
と、可愛く小さな唸り声を上げ、唐突に、頬に添えられていたクラウズェアの指を、ぺろりと舐めた。
「きゃっ?」
今まで聞いたこともない可愛らしい悲鳴を上げたクラウズェアは、腕の中の少年をまじまじと見た。
「し、シア?」
呼ばれた少年は頭を回らせ、緑の目を見上げて言った。
「びっくりした?」
ルクルクから頬を舐められた時の驚きを、クラウズェアにも味わわせようと思ったのだ。つまり、仕返しのようなものである。
「え……? あ、こら!」
遅れて意図に気付いたクラウズェアは、顔を赤くし、怒った顔を作った。
だがそれも、
「ローズ、ありがとう」
少年のこの言葉で偽りの表情も崩れ、笑顔が浮かんだ。
「ツユクサも、ありがとう。もう下ろしてもらってもだいじょうぶだよ」
そう声をかけられたツユクサは、四つの足を折りたたんで、地に伏せた。
「待っていて、くれたの?」
クラウズェアの問いに、
「うん。そうみたい」
アルテミシアが答える。
「決めさせてくれて、ありがとう」
妖精境から去りゆく瞬間を、アルテミシアにゆだねたのだ、この狼は。
「へぇえ?」
驚いたようにジャックが声を上げる。
「人の情緒を理解してるってぇコトですかい? たまげたなぁ」
「ツユクサは、優しいんだよ」
そう言った少年は、一度城の方を振り返り、小さく呟いた。
「またね、ルクルク」
それから、ツユクサの意図を通訳したアルテミシアが、小さな手のそれぞれに、青く長い尾と、クラウズェアの手とを繋ぎ、虚の向こうへと踏み出したのであった。




